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「障子を開けてみよ。外は広いぞ」


【名言・格言者】
豊田佐吉(株式会社豊田自動織機創業者)

【解説】
 豊田佐吉(とよださきち)氏は、1867年、静岡県に生まれました。小学校を卒業後、大工である父の助手として働き、そのかたわら織機の改良に取り組みました。1891年、自身が発明した豊田式木製人力織機にて特許を受け、1902年には豊田商会を設立しました。豊田商会は後に豊田式織機株式会社に改組され、豊田氏は同社の常務兼技師長として研究を続けました。その後、同社を離れ、1918年には豊田紡織株式会社を、1926年には株式会社豊田自動織機製作所(現株式会社豊田自動織機。以下「豊田自動織機製作所」)を設立しました。豊田氏は生涯を通じて発明に専心し、後の日本における紡織産業並びに自動車産業発展の礎を築きました(1930年逝去)。
 冒頭の言葉は、「さまざまな障壁を取り除いて広い世界に目を向ければ、大きな可能性をつかむことができる」ということを表しています。
 幼いころより知識欲が旺盛だった豊田氏は、やがて織機に興味を抱き、大工仕事のかたわら、織機の改良に取り組むようになります。そしてその後は、木鉄混製動力織機をはじめとして、糸繰返機・豊田式木製動力織機など、数々の発明により特許を取得することとなりました。
 1910年、豊田氏は豊田式織機株式会社を辞任して欧米に渡り、機械を使った大規模な農業経営、巨大な工場設備、精巧な機械などを目の当たりにしました。豊田氏は驚くと同時に、織機・紡績工場を視察した際には、自分の発明した織機が必ずしも世界の一級品に劣るものではないことを実感し、自信を深めました。
 帰国後、豊田氏は名古屋市に自動織布工場を新築し、さらに織機の研究を続けました。そして、豊田紡織株式会社を設立した1918年、中国に渡り、上海の紡績事業を視察しました。豊田氏は、上海に工場を開設し、自身も永住する覚悟を決めていたのです。当時、世界は第一次世界大戦後の深刻な恐慌にあり、周囲は成功を危ぶみ豊田氏に反対しました。しかし、豊田氏の決意は固いものでした。豊田氏は、中国だけでなく、その先に世界を見据えていました。「いつの日か、世界中の国々に綿糸布を供給するようになりたい。そのためには、障子を開けて、広く世界に目を向けなくてはならない」と考えたのです。
 このような抱負を持って、豊田氏は上海に渡りました。そして自ら工場敷地の買収に取り組み、苦心の末に紡績工場を建設し、1921年には上海に株式会社豊田紡績廠を設立しました。その後も、1928年にはインドへ工場設備を輸出し、1929年には織機の母国といわれていた英国に技術を認められ、同国プラット・ブラザーズ社と特許権譲渡の契約を結ぶなど、豊田氏の世界への挑戦は生涯を通じて続くこととなりました。
 豊田氏は、かつて欧米を視察した際、自動車交通の発達と各自動車工場のスケールに大きな衝撃を受けました。それ以来、豊田氏は「日本が世界的な工業国となるためには、立派な自動車をつくれるようにならなくてはならない」と、自動車への強い情熱を持つにいたりました。そして、その情熱は長男である豊田喜一郎氏に受け継がれ、豊田自動織機製作所内に自動車部が設置されることとなりました。これが現在のトヨタ自動車株式会社の源流となっています。
 豊田氏の6回忌に当たる1935年、豊田氏の遺訓をまとめた「豊田綱領」が発表されました。この中で、豊田氏は、事業経営について次のように述べています。

「研究と創造に心を致し常に時流に先んずべし」

 豊田氏は、常に研究と創造の精神を持ち、時流に先んじるべく、常に「障子」を開け放して広い世界に視点を向けていました。
 企業にとっての「障子」とは、あるときは「古い価値観」であり、またあるときは「変化することへの恐れ」であるかもしれません。これらの「障子」を開けなくては、外の世界を見ることはできません。まずは「障子」を開け放すことこそが、大きな可能性をつかみ、広い世界に飛び出す上で必要だといえるでしょう。
【参考文献】
豊田佐吉」(楫西光速、吉川弘文館、1987年8月)
「障子を開けてみよ。外は広いぞ トヨタはこの遺伝子でできている」(小宮和行、あさ出版、2003年3月)




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「経営のヒントとなる言葉50」
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