100辞書・辞典一括検索

JLogos

33

「非常識をこそ徹底的に実践してみることだ」


【名言・格言者】
中村修二(カリフォルニア大学教授)

【解説】
 中村修二(なかむらしゅうじ)氏は、1954年、愛媛県に生まれました。1979年に徳島大学大学院修士課程修了後、発光ダイオードや蛍光体などの化学製品のメーカーである日亜化学工業株式会社(以下「日亜化学工業」)に入社し、1993年には従来実現が困難とされていた青色発光ダイオードの製品化に世界で初めて成功しました。その後、1999年に同社を退社し、2000年より米国カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授に就任し、現在に至っています。
 冒頭の言葉は、「常識を超えたところにこそ、大きなチャンスが存在している」ということを表しています。
 日亜化学工業に入社後、中村氏は開発課に配属され、新規事業として発光ダイオードの研究を行うことを命じられました。当時、同社には電子工学の専門家は中村氏しかおらず、使える予算もほとんどありませんでした。このため、中村氏はたった一人で、まず研究に必要な実験装置を自作することから始めました。
 その後10年間、中村氏は会社に命じられた研究を行っていましたが、それに飽き足らず、ある時、社長に青色発光ダイオードの研究の許可をもらうべく直訴しました。当時、青色発光ダイオードの製品化には世界でまだ誰も成功しておらず、日亜化学工業が製品化に成功すれば確実に大きな売り上げが期待できると考えたためです。
 こうして中村氏は青色発光ダイオードの研究を開始したものの、まず材料選びにおいて頭を悩ませました。青色発光ダイオードの材料には「セレン化亜鉛」「窒素ガリウム」という2種類がありました。「窒素ガリウム」には製造上の大きな欠点があったため、これまで世界の大企業のほとんどは「セレン化亜鉛」を材料に選んでいました。しかし、中村氏は、あえて成功の可能性が少ない「窒素ガリウム」を選びました。「常識通りのことをやっていては、地方の一中小企業である日亜化学工業が世界の大企業に打ち勝つことはできない」と考えたのです。
 青色発光ダイオードの開発はその後も困難を極め、中村氏は朝から晩まで研究に明け暮れることとなります。そして、1993年、中村氏はついに青色発光ダイオードの製品化に成功しました。
 中村氏は、次のように述べています。

「1パーセントでも可能性があるなら、それに賭けてみるという気概がなければ世界的なワールドワイドな仕事などできっこない」

 モノづくりにおいては、既存の方法をいくら繰り返しても、新鮮でユニークなものは生まれません。何か新しいモノを創造するためには、新しい発想と新しいやり方が必要となります。そのために、その時点で非常識であってもあえて挑戦し、また、挑戦するからには徹底的に実践しなくてはならないのです。
 中村氏の言葉は、優れたエンジニアが創造に取り組む際の揺るぎない信念を表したものです。そしてその信念は、ビジネスにおけるチャンスの創造という面において、経営者にとっても大いに価値のある言葉だといえるでしょう。
【参考文献】
「Wild Dream 反逆、闘いそして語ろう」(中村修二、ビジネス社、2002年9月)
「成果を生み出す非常識な仕事術」(中村修二、メディアファクトリー、2004年5月)




(c)日経BP社 2010
日経BP社
「経営のヒントとなる言葉50」
JLogosID : 8516416