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「何でも大胆に、無用意に、打ちかからなければいけない」


【名言・格言者】
勝海舟(幕末の政治家)

【解説】
 勝海舟(かつかいしゅう)は、1823年、江戸(現東京都)に生まれました。長崎海軍伝習所で西洋式海軍技術などを学んだ後、1860年には幕府の軍艦咸臨丸によって太平洋を横断して渡米を果たしました。1864年、軍艦奉行に就任して神戸に海軍操練所を開設し、幕臣のほか坂本龍馬など諸藩の学生の教育に携わりました。1868年に勃発した戊辰戦争では新政府軍の代表である西郷隆盛を説得して江戸城の無血開城を成功させるなど、明治維新において重要な役割を果たしました。また、明治新政府においても、海軍大輔・参議兼海軍卿・元老院議官などの大官を歴任しました(1899年逝去)。
 冒頭の言葉は、「事が起こる前からあれこれと杞憂していては、急激な変化に対処できない。従って、いざ事が起きたときは、基本となる方針に沿って果断かつ柔軟に対応しなくてはならない」ということを表しています。
 1853年、ペリー率いる米国艦隊が神奈川県の浦賀に来航し、鎖国状態にあった日本に開国を迫りました。米国の強大な軍事力に脅威を感じた江戸幕府は対応に苦慮し、さまざまな意見を広く募りました。これに対して、勝は、柔軟な人材登用や西洋式兵制の導入などを献策する「海防意見書」を提出しました。この意見書が幕府の重役の目にとまり、以後、幕政へ積極的に参画していくこととなります。
 やがて日本国内に倒幕の機運が高まり、1867年の大政奉還および1868年の王政復古の大号令によって江戸幕府は消滅し、明治新政府が誕生することとなりました。このため、旧幕府の重役や幕臣は激しく反発して新政府と衝突し、戊辰戦争が勃発しました。
 新政府は旧幕府軍を討伐するべく、西郷隆盛率いる東征軍を江戸に差し向けました。こうした中、勝は前将軍徳川慶喜に、あくまでも新政府に対して恭順に徹するよう進言しました。江戸で武力衝突が起きると多くの犠牲者が出ることが予想され、こうした内乱の拡大につけこんで欧米の列強が日本に攻め入る危険性があったためです。勝は、日本が欧米の列強の侵略を受けて植民地となり、国家が滅亡してしまうことを危惧したのです。こうした説明を聞き入れ、徳川慶喜は勝に新政府との交渉を一任しました。
 東征軍の進軍に江戸中が殺気立つなか、勝は江戸で東征軍の代表である西郷隆盛との会談を開きました。勝は、幕府が恭順の姿勢をとる代わりに江戸城の攻撃を中止することを求めました。そして、恭順の姿勢を明確に示すために、江戸城を明け渡すことを確約しました。国家の存亡は新政府の判断にかかっており、西郷をよく知り信頼していた勝は、西郷ならその判断を誤らないと確信したのです。一方、西郷も、恭順している相手を攻撃することが国内外に対して明治維新の大義名分を失わせる不利を招くことを理解していました。西郷も、勝の言葉を信頼して江戸城の攻撃を中止することを決定し、こうして江戸城の無血開城が成功しました。
 当時、国内の政情を取り巻く環境は複雑かつ刻一刻と変化していましたが、勝の考えは終始一貫していました。それは、「国家は公のものであって、決して一個人の私有物ではない。確かに、長きにわたって江戸幕府が統治してきたが、時勢がそれを許さない状況となったならば、速やかに公に戻さなくてはならない」というものでした。勝はこうした基本となる考えを確立し、それに沿って機に応じて柔軟な対応をとりました。だからこそ、江戸城を平和裏に開城するという大変な難事を実現することができたのです。
 晩年、勝は往時を振り返って次のように述べています。

「(物事に対処するときは)いつもまず勝敗の念を度外に置き、虚心坦懐、事変に処した」

 虚心坦懐とは、落ち着いて平静な状態の心をいいます。勝敗にとらわれると、物事の本質を見抜くことができずに行動を誤ってしまう恐れがあります。事に臨んで、心を落ち着けて平静を保ち、基本となる方針に従って柔軟かつ大胆に取り組んだ勝の姿勢は、日々急激な変化に直面している経営者も大いに参考にするべきものだといえるでしょう。
【参考文献】
「日本の名著 32 勝海舟」(江藤淳(責任編)、中央公論社、1984年6月)
勝海舟」(石井孝、吉川弘文館、1986年12月)




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「経営のヒントとなる言葉50」
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