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「『旧来の方法が一番いい』という考えを捨てよ」


【名言・格言者】
鹿島守之助(元鹿島建設株式会社会長)

【解説】
 鹿島守之助(かじまもりのすけ)氏は、1896年、兵庫県に生まれました。1920年に東京帝国大学(現東京大学)を卒業後、外務省に入省しました。その後、株式会社鹿島組(現鹿島建設株式会社。以下「鹿島建設」)組長の鹿島精一氏の長女と結婚し、1936年に鹿島建設に入社しました。1938年、社長に就任すると合理主義に基づく科学的管理方法を推進し、後に同社の「中興の祖」と呼ばれることとなりました(1975年逝去)。
 冒頭の言葉は、「現状に甘んじることなく絶えず進歩を志し、常によりよい方法を模索しなくてはならない」ということを表しています。
 1880年に大工の棟梁によって設立された鹿島建設は、工場建設や鉄道工事などを手がけ、事業規模を拡大していきました。しかし、創立50周年を迎えたころより業績が急速に悪化し、鹿島氏が鹿島建設に入社した当時は赤字が続く厳しい状況にありました。
 鹿島氏は、専門家から意見を集め、また同業他社を研究し、赤字の原因を徹底的に探りました。その結果、「業績悪化の原因は、堅実で保守的な経営方針をとり続けた結果、鹿島建設が老舗化し、活力を欠いた状態に陥ってしまったことにある」ということが分かりました。鹿島氏は、この結果と自身の信条を結びつけ、1936年、「事業成功の秘訣二十カ条」を発表しました(後述)。
 1938年、社長に就任した鹿島氏は、経験や勘をよりどころとしてどんぶり勘定で収支を行ってきた古い体質の経営を改め、合理主義に基づく科学的管理方法の導入を図りました。そして、市場のニーズを調査した結果、将来性のある新市場を開拓する必要性を認識し、それまで従的存在であった建築工事に積極的に進出しました。こうした歩みの根底には、事業成功の秘訣二十カ条の理念が流れていました。
 その後、鹿島建設は、臨海開発や原子力発電所、超高層ビルの建設など、次々と新しい分野に進出し、「臨海の鹿島」「原子力の鹿島」「超高層の鹿島」などの異名で広く知られることとなりました。これは、同社がそれぞれの分野においてパイオニアとなったことを表しています。
 鹿島氏は、自身の事業観を次のように述べています。

「時勢の急激な変化に対処するには動的安定でしかない」

 動的安定とは、絶えず動き続けることによって安定を図ることをいいます。激しい変化に際しては、ただ単に静止しているだけの静的安定では対処することができません。絶えず動き続けているからこそ、迅速な対応が可能となるのです。
 事業成功の秘訣二十カ条にみられる、現状に甘んじることなく前進に向けて絶えず変化し続ける姿勢は、まさに日々急激な変化に立ち向かっている現代の経営者が常に念頭に置くべき姿だといえるでしょう。

第一条:「旧来の方法が一番いい」という考えを捨てよ
第二条:絶えず改良を試みよ、できないと言わずにやってみよ
第三条:有能なる指導者をつくれ
第四条:人をつくらぬ事業は亡ぶ
第五条:「どうなるか」を研究せよ
第六条:本を読む時間を持て
第七条:給料は高くせよ
第八条:よく働かせる人たれ
第九条:賞罰を明らかにせよ
第十条:なるべく機械を使うこと
第十一条:部下の協力一致を計れ
第十二条:事業は大きさよりも釣合が肝心
第十三条:何よりも先ず計画
第十四条:新しい考え、新しい方法の採用を怠るな
第十五条:一人よがりは事を損ず
第十六条:イエス・マンに取り巻かれることなかれ
第十七条:欠陥は改良せよ
第十八条:人を怨(うら)まず突進せよ
第十九条:ムダを見つける眼を開け
第二十条:仕事を道楽にせよ
【参考文献】
「決断力 そのとき、昭和の経営者たちは 下巻」(日本工業新聞社(編)、扶桑社、2002年1月)
「私の履歴書 経済人7」(鹿島守之助、日本経済新聞社、1980年9月)




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「経営のヒントとなる言葉50」
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