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「仕事は自ら『創る』べきで、与えられるべきでない」


【名言・格言者】
吉田秀雄(株式会社電通元社長)

【解説】
 吉田秀雄(よしだひでお)氏は、1903年、福岡県に生まれました。1928年に東京帝国大学を卒業後、株式会社日本電報通信社(現株式会社電通。以下「電通」)に入社しました。1942年に取締役および常務取締役に就任し、1947年に代表取締役社長に就任しました。電通のみならず、日本の広告の進歩・向上に尽力し、電通中興の祖として今もなおその名を広く知られています(1963年逝去)。
 冒頭の言葉は、「仕事に対しては、常に積極性をもって自主的に取り組むことが重要である」ということを表しています。
 吉田氏が電通に入社した当時の広告業界は、新聞の広告欄の場所取りにすぎない「スペースブローカー」として低い地位に置かれていました。こうした中、吉田氏は、広告業界の発展に向け、広告料金の適正化などを陣頭に立って指揮しました。
 1947年、吉田氏は電通の代表取締役社長に就任し、社員に対する新任のあいさつの中で「電通が、その仕事ぶりによって広告業の文化水準を新聞と同じまでに引き上げたい」という強い信念を発表しました。吉田氏は、「商業放送の開始」「クリエーティブ技術の向上」「マーケティング理論の確立」「PR概念の導入」の4つを主要な経営施策として掲げ、電通を、日本のみならず世界を代表する広告会社に成長させることに全精力を傾けました。
 1951年、吉田氏は電通創立51周年式典のあいさつにおいて、社員を前にして次のような檄を飛ばしました。

「個人としては仕事の鬼となれ、職業人としては広告の鬼となれ」

 吉田氏はこの時のスピーチで、全社員に対して「すべてにおいて仕事を優先させ、広告のためには何であっても犠牲にしなくてはならない」ということを強く訴えかけました。そこには、まさに日本の広告業界の近代化と革新に全力でまい進する吉田氏の執念と決意が表されていました。以来、吉田氏は、ことあるごとに「広告の鬼」という言葉を使い、後に「鬼十則」と呼ばれるスローガンを作成しています。

一.仕事は自ら「創る」べきで、与えられるべきでない。
一.仕事とは、先手先手と「働き掛け」て行くことで、受身でやるものではない。
一.「大きな仕事」と取り組め、小さな仕事は己れを小さくする。
一.「難しい仕事」を狙え、そしてこれを成し遂げる所に進歩がある。
一.取り組んだら「放すな」、殺されても放すな、目的完遂までは……。
一.周囲を「引きずり回せ」、引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる。
一.「計画」を持て、長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。
一.「自信」を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚みすらがない。
一.頭は常に「全回転」、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ、サービスとはそのようなものだ。
一.「摩擦を怖れるな」、摩擦は進歩の母、積極の肥料だ、でないと君は卑屈未練になる。

 吉田氏の仕事に対する姿勢は厳格そのものでした。仕事に対する厳しさがみられない場合、たとえ局長や重役などの幹部社員であっても、吉田氏は容赦せずに強く叱りました。それは、広告という仕事の厳しさ、難しさを全社員に深く浸透させるためでした。吉田氏のこのような信念は全社員に共有され、長い年月を経た現在でも電通全体に受け継がれています。
 ただし、吉田氏は、この「鬼十則」を強制的に記憶させて行動規範とするようなことはしませんでした。あくまでも、社員が自発的に「鬼十則」から何かを学び、仕事に役立てることを願ったのです。その考えは、まさに「鬼十則」の冒頭に掲げられている「仕事は自ら『創る』べきで、与えられるべきでない」という言葉に集約されているといえるでしょう。
【参考文献】
「われ広告の鬼とならん 電通を世界企業にした男・吉田秀雄の生涯」(舟越健之輔、ポプラ社、2004年2月)
「電通『鬼十則』 広告の鬼吉田秀雄からのメッセージ」(植田正也、日新報道、2001年1月)




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「経営のヒントとなる言葉50」
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