100辞書・辞典一括検索

JLogos

35

「人生は『得手に帆あげて』生きるのが最上だと信じている」


【名言・格言者】
本田宗一郎(本田技研工業株式会社創業者)

【解説】
 本田宗一郎(ほんだそういちろう)氏は、1906年、静岡県に生まれました。1922年に尋常小学校を卒業後、東京都の自動車修理工場アート商会に入社し、1928年、独立して浜松市にアート商会浜松支店を設立しました。その後、東海精機重工業株式会社の社長を経て、1946年、浜松市に本田技術研究所を設立しました。本田技術研究所は、1948年に本田技研工業株式会社(以下「本田技研」)となり、オートバイの製造を開始します。本田氏は、1973年に同社の社長を退き取締役最高顧問に、1983年には終身最高顧問に就任しました(1991年逝去)。本田技研は、本田氏の強いリーダーシップの下で大きく成長し、現在では世界的な自動車メーカーの一つとなっています。
 冒頭の言葉は、「最も得意な分野で働くことが、その人の価値を最大限に発揮できる」ということを表しています。
 本田氏は、生涯「得手(得意なこと)」にこだわり、機会があるごとに若い社員に対して「一刻も早く自分の『得手』を発見しなくてはならない」と言い続けました。「好きこそものの上手なれ」の言葉にもあるように、好きなことを一生懸命にやることで、それが「得手」になります。そして、そのことは自信につながり、さらに大きな「得手」となるのです。
 幼少のころから機械いじりが好きであった本田氏は、経営者になってからも研究所で若手のエンジニアたちと一緒に機械いじりに熱中していました。
 しかし、もちろん、経営者が不得手なことを一切やらないということは、実際には不可能です。本田氏は次のように述べています。

「会社の上役は、下の連中が何が得意であるかを見極めて、人の配置を考えるのが経営上手というものだ」

 本田技研の場合、副社長の藤沢武夫氏が本田氏のパートナーとして財務・販売など、経営に関する一切を担当しました。藤沢氏は、1949年に経営に関する非凡な手腕を買われて本田技研に入社して以来、長きにわたり本田氏のよきパートナーとして本田技研の経営全般を担当しました。当時広くいわれていた「技術の本田、経営の藤沢」という言葉は、この2人の協力体制をうまく表しています。あくまでも一技術者であろうとした本田氏は、藤沢氏が経営に「得手」であることを見極め、深い信頼を寄せてすべてを任せたのです。
 企業にはさまざまな「得手」と「不得手」を持った社員がいます。自身の「得手」と部下の「得手」を正しく把握し、人材を最大限に生かすことが、経営者や上司にとっての重要な役割だといえるでしょう。
【参考文献】
「得手に帆あげて 本田宗一郎の人生哲学」(本田宗一郎、三笠書房、1992年4月)
本田宗一郎 夢を力に 私の履歴書」(本田宗一郎、日経ビジネス人文庫、2001年7月)




(c)日経BP社 2010
日経BP社
「経営のヒントとなる言葉50」
JLogosID : 8516442