100辞書・辞典一括検索

JLogos

24

「『人間に一番たまらない苦痛は何か』と聞かれれば『する仕事のないことだ』と私は答える」


【名言・格言者】
藤沢武夫(元本田技研工業株式会社副社長)

【解説】
 藤沢武夫(ふじさわたけお)氏は、1910年、東京都に生まれました。1928年に旧制京華中学を卒業後、鋼材小売店勤務を経て、1939年に切削工具製造会社の日本機工研究所を設立しました。その後、本田技研工業株式会社(以下「本田技研」)を設立した本田宗一郎氏と出会い、1949年に常務として本田技研に入社し、1952年には専務に、1964年には副社長に就任し、1973年に副社長を退くまでの25年間にわたり本田氏を支え、二人三脚で本田技研を世界的な自動車メーカーにまで育て上げました(1988年逝去)。
 冒頭の言葉は、「社員に、それぞれが最も得意な分野の『する仕事』を持たせることが、社員を生かし、なおかつ企業が発展する上でも重要である」ということを表しています。
 本田技研に入社するに当たり、藤沢氏は財務・販売を担当し、技術者である本田氏を経営者として補佐することに徹することを決めました。以来、本田技研における「技術の本田、経営の藤沢」という分業体制がスタートすることとなりました。
 当時、本田技研は二輪車の販売の好調などにより順調に業績を拡大させていましたが、1954年、エンジン欠陥が原因となって売り上げが大幅にダウンし、深刻な経営危機に直面しました。藤沢氏は、ただちに適切な生産調整を行い、直近の手形の決済資金を捻出しました。また、部品メーカーを集めて会社の窮状を正直に伝え、新規の部品発注停止と手形決済の先延ばしを要請しました、その間に、本田氏がエンジン欠陥の原因を究明して対策を講じ、なんとか危機的局面を乗り切ることができました。
 しかしこのとき、藤沢氏は大きな危機感を抱きました。エンジン欠陥は、本田宗一郎という天才的技術者がいたため解決できましたが、「いつまでもすべてを本田氏だけに頼ることはできない」と痛感したのです。そこで藤沢氏は、本田技研を、社員一人ひとりの知恵や経験を集め、組織として力を発揮する近代的な企業に生まれ変わらせるべく、新たな組織づくりへの取り組みを開始しました。
 藤沢氏は、本田技研から研究開発部門を切り離し、株式会社本田技術研究所を設立しました。これは、「技術者には、目先の業績に左右されず、技術のことだけに専念して自由な発想で研究に打ち込んで欲しい」という藤沢氏の考えによるものです。
 また、藤沢氏は、さまざまな分野における専門家である重役をさらに活用すべく、各重役を担当する専門業務から外して一つの部屋に集め、さまざまな情報が重役間で交換できるようにしました。このことにより、「生産現場の人間が本社の経理や営業の実情を知り、営業の人間が工場や研究の状況を知る」など、それまでは、各部門の話題だった企業のさまざまな情報が共有化され、深い集団思考が可能となりました。
 これらの藤沢氏の取り組みの根幹には「エキスパート(専門家)の能力を最大限に生かす」という考えがあります。企業には多くの社員がいて、開発・営業・経理・財務・人事など、さまざまな仕事を担当しています。それぞれの社員は、自身が得意とする分野を持っており、その分野のエキスパートなのです。
 藤沢氏は、冒頭の言葉に続けて次のように述べています。

「する仕事を一杯持てる会社に一生勤められれば幸いといえるかもしれない。その仕事を皆で組み合わせて、つくり上げるのが会社という企業だ」

 藤沢氏は、「人は人生の3分の2を仕事に費やす」と言いました。仕事がそれほど大きな割合を占める存在である以上、それぞれが最も得意な分野の「する仕事」を持つことが、社員にとって、そして企業にとっても大きな幸せとなるのです。社員が、エキスパートとして、自身の能力を最大限に生かすことができる場を提供することこそ、経営者にとって重要な課題であるといえるでしょう。
【参考文献】
「経営に終わりはない」(藤沢武夫、文藝春秋社、1998年7月)
「ホンダ神話 教祖のなき後で」(佐藤正明、文藝春秋社、1995年4月)




(c)日経BP社 2010
日経BP社
「経営のヒントとなる言葉50」
JLogosID : 8516443