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江戸時代にはなぜ仇討ちが盛んだったのか


江戸時代にはなぜ仇討ちが盛んだったのか

◎仇討ちは男色からはじまった

「仇討[あだう]ち」というのは、主君や近親者が殺されたとき、家臣や一族の者が復讐のために相手を殺すことだが、江戸時代の仇討ちは、なんと男色からはじまったのだ。

 岡山藩主池田忠雄の寵童[ちょうどう]渡辺源太夫[げんだゆう]が、同藩士の河合又五郎に殺害された。これは言い寄った又五郎を、源太夫が冷たくあしらったからだという。愛人を殺害された池田侯は激怒し、源太夫の兄・数馬に又五郎を仕留めよと命じた。

 又五郎はすでに逃亡して、ある旗本にかくまわれていたが、数馬は義兄・荒木又右衛門の助力を得て又五郎の所在を突き止め、彼ら一行を伊賀上野の鍵屋の辻で待ち伏せ、見事仇討ちを成功させたのである。ときに1634年11月7日のことであった。これが講談などで有名な「鍵屋の辻の仇討ち」だ。

◎英雄・又右衛門をめぐる噂の真相

 ところで、仇討ち前の又右衛門は、大和郡山[こおりやま]藩の剣術指南をしており、当然大和郡山藩は、武名をあげた又右衛門の帰参を希望した。一方、池田藩(岡山から鳥取へ転封)も、藩主の恨みを晴らしてくれた又右衛門を、数馬とともに引き取りたかった。この両藩が二人をめぐって争ったために、数馬と又右衛門は、事件現場の藤堂[とうどう]藩に4年間も留め置かれている。

 結局、軍配は池田藩に上がった。藤堂藩260名、池田藩160名という厳重な警戒のなか、伏見で2人の引き渡しが行なわれた。

 ところが、鳥取に到着してからわずか2週間後、又右衛門は急逝してしまう。そのため、又右衛門の自殺説、詰腹[つめばら]説、毒殺説など、現代でもさまざまな憶測が飛びかい、定説は確立していない。

 だが、興味深いのは生存説である。大和郡山藩に又右衛門を完全に諦めてもらうため、死んだことにして、密かに領内にかくまったとする説だ。

 事実、又右衛門の死後、池田藩はわざわざその妻子を鳥取に呼び寄せ、扶持[ふち]をあてがったことが判明している。通常ではありえない厚遇であろう。




日本実業出版社
「早わかり日本史」
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