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教皇権を強大化させたカノッサの屈辱


教皇権を強大化させたカノッサの屈辱

◎森を開いた修道士たち

 11世紀に入り、農業技術が進歩し、人口が増加すると農地の不足が明らかになった。そのため西ヨーロッパは11世紀から13世紀にかけて、大規模に森の木を伐採して農地に変える「大開墾時代」に入った。暗い原生林が急速に後退していったのである。

 この大開墾運動に貢献したのが、「祈り、働け」をモットーに修道士たちに、1日6~7時間の労働を課した修道院であった。

 修道院は民衆に教育を施し、農作業を改善し、時にはワインのつくり方を教えた。古代ローマのワインづくりの技術は、中世の教会、修道院に引き継がれたといわれている。そうした修道院の一つであるクリュニー修道院を中心に、聖職者の厳格な戒律、聖職売買の禁止、教権の俗権からの独立を求める教会改革の動きが広まった。

◎教皇の権威を高めた「カノッサの屈辱」

 神聖ローマ皇帝のハインリヒ4世がミラノ大司教や中部イタリアの司祭を任命すると、皇帝による任命に不満をもったクリュニー修道院出身の教皇グレゴリウス7世は、皇帝の中央集権化に反対する諸侯との間の対立を利用して、ハインリヒ4世を破門した。

 反皇帝派諸侯が、1年以内に破門が解かれない場合には皇帝を廃位すると決議したことで、追いつめられた皇帝は1077年に教皇が滞在する北部イタリアのカノッサ城を訪れ、雪の積もる城門の前ではだしで3日間立ちつくして謝罪し、やっと破門を解除された(カノッサの屈辱)。

 憤まんやるかたない皇帝は、反対派諸侯を鎮圧した後で大軍を率いてローマに入り、1085年に教皇を退位させてしまう。しかし、この事件以後、教皇の権威が一挙に高まった。

 聖職者の任命権をめぐる皇帝と教皇の争い(叙任権闘争)は、その後12世紀前半に両者の妥協が成立するまで続いたが、その過程でそれまでバラバラだった各地の教会がローマ教皇を頂点とする統一組織に変化した。

 ローマ教会の司教は、殉教したペテロの後継者であるとして諸教会の首位権を主張し、ギリシア語のPappas(父親の尊称)に由来するPope(教皇、法王)の称号を得ていたが、ここにその実体を備えることになったのである。




日本実業出版社
「早わかり世界史」
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