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- 小福とは
「小福」の関連ワード⇒ 明神下 神田川本店 神田きくかわ 神田店 なかや蒲焼店
- 小福【こふく】
- テーブルに鯉が泳ぐ趣向が人気
建物は鉄筋6階建てながら、外観も内部もなかなか小意気な造り。1階に厨房、2~4階に客室があり、各階それぞれに造作が異なる。2階は縦に長い馬蹄形の大きなテーブルを配し、テーブル中央にしつらえた池には鯉が泳ぐ。3階は喫茶店みたいな雰囲気のイス席、4階は船底天井がみごとな純和風の座敷だ。杉一枚板の扉をはじめ、店内随所に亀甲竹や煤竹、花梨、桜材などを用いた凝った造りが見られ、すべて主人の設計というからすばらしい。各階に収容2~4名ほどの個室もある。
うなぎは静岡県榛原産を中心に国産ものだけを仕入れ、いったん生簀に放して泥を吐かせてから使う。「手を抜かない」をモットーに、職人がつくる料理を週に1回主人が味見して、確かめてから客に出している。うなぎは昼20~30分、夜なら40分ほど調理に時間がかかるから、余裕をもって訪れたい。
酒の肴には、当店オリジナルの八幡巻がいい。うなぎでごぼうを巻いた取り合わせの妙に、つい頬がほころぶ。
[最終更新日:2013-12-06/JLogosid:14070719]
関連項目:
明神下 神田川本店 神田きくかわ 神田店 なかや蒲焼店
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小福浦村(近世) 江戸期~明治9年の村名津軽郡鼻和庄のうち深浦台地南部に位置し,西側には日本海が広がり,東側は白神山地へ続く山間地となっている弘前藩領天和3年の御代官所村家人数之帳(八木橋文庫蔵)に小福浦地子新田が見えており,同新田が貞享検地に際し小福浦村となったと思われる村高は,「貞享郷村帳」では寛文4年以降の新田として見え2石余,「貞享4年検地水帳」37石余(田29石余・畑屋敷7石余)江戸期において,当村が郷帳類に見えるのは貞享・元禄年間頃に限られており,それ以後の郷帳類には村名は見えないこのことは,隣接する横磯村が貞享・元禄年間頃のみ郷帳類から見えないことと関係があると考えられるが,不詳「貞享4年検地水帳」によれば,小字に「かみ山・岡崎」があり,反別は田5町2反余・畑屋敷1町8反余,このほかに見取場(畑)4町2反余,草山4か所が見えているまた,田は上田~下々田まで,畑は下畑・下々畑が設定されている元禄3年には赤石組に属し,村位は下(平山日記)集落は海岸沿いの西浜街道に沿って発達し,村民は田畑の耕作のほか沿岸漁業に従事していたものと考えられる神社は,宝暦9年の再建という明神宮がある(安政2年神社書上帳)明治4年弘前県を経て,青森県に所属明治初年の「国誌」には横磯村の支村として見え,戸数6とあり,明治7年の県管内村名簿でも村名は見えないしかし,当村が正式に横磯村の一部となるのは明治9年といわれる(西津軽郡史) |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
小福礼【こぶくろ】 (中世)鎌倉期から見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
小福礼(中世) 鎌倉期から見える地名相模国鎌倉郡のうち巨福礼とも書き,戦国期には小袋之郷とも見えるなお鎌倉市山ノ内に巨福山があるところから,中世の山内を小福礼と称したとも考えられる「吾妻鏡」仁治2年12月30日条に「渡御于山内巨福礼別居」とあり,北条泰時の別宅が当地にあったことが知られるなお,同書嘉禎元年12月20日条によれば,将軍藤原頼経の病気平癒のため四角四境祭が行われているが,北は「小袋坂」となっており,当時は当地は鎌倉の外であったこの「小袋坂」を越えて山内への道路が整備されるのは仁治元年10月10日のことである(吾妻鏡)弘安7年9月9日の北条氏公文所奉書によれば,北条得宗家公文所は得宗北条時宗の命を奉じて「小福礼中山上散在小畠等」を円覚寺の菜園として寄進している(円覚寺文書/県史資2‐980)下って,室町期の「一庵禅師行状」によれば一麟一庵がその居所を塔院とし「相之小福礼」などをもってその所領としたという(続群9下)また,天正9年7月3日の北条氏照判物には「小袋之郷」と見え,昨2日の当郷での合戦で中山監物某が最前にはせ参じて敵1人を討ち取ったとしてこの感状を与えている(中山文書/県史資3下‐8635)現在の鎌倉市山ノ内付近に比定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
小福田【こふくだ】 利根川右岸の沖積地に位置する... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
小福田村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
小福原村【こぶくはらむら】 (近世)江戸期~明治4年の村名... |
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小福良村【おぶくらむら】 (近世)江戸期~明治8年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
小福原村(近世) 江戸期~明治4年の村名上総国夷隅郡のうち夷隅川下流右岸に位置する延宝5年に臼井村から分村して成立「旧高旧領」では旗本阿部氏領村高は,「天保郷帳」96石,「旧高旧領」100石延宝7年の反別は田13町余・畑15町余(渡辺家文書)年貢高は,延宝3年では米13石余・永2貫文余,明和2年では定免制がとられ米21石・永3貫文余安政2年の家数16・人数67,馬7(渡辺家文書)名主は部田村名主が兼帯明治4年東中滝村の一部となる... |
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小福良村(近世) 江戸期~明治8年の村名豊後国海部【あまべ】郡佐伯【さいき】荘のうち佐伯湾の湾奥海岸部に位置する慶長6年以降佐伯藩領仲間【なかま】村の小村(仮名付帳)村位は上(位付)「旧高旧領」に49石余とあるのが唯一の村高文化7年3月7日伊能忠敬が当村を測量,「人家6軒」と記す(九州測量日記)明治4年大分県に所属同8年中河原【なかうら】村・車【くるま】村とともに狩生【かりう】村に合併現在の佐伯市大字狩生のうち... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
小福田(近代) 明治22年~現在の大字名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」