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「対馬」の関連ワード⇒ 埴輪 憲法十七条 日本書紀 

対馬【つしま】


■12 幕末、ロシア

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[最終更新日:2002-06-01/JLogosid:14625025]
関連項目: 埴輪 憲法十七条 日本書紀 


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→無料版JLogos【対馬(つしま)】

日本史の雑学事典

歴史上の人物の意外な素顔や、有名な事件の驚くべき真相などを掲載。 教科書ではあじわえない歴史の奥深いおもしろさ、たのしさが収録されています。

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対馬藩(近世)

江戸期の藩名府中藩ともいう明治2年に厳原【いずはら】藩と改称対馬国府中に本拠を置く外様藩藩主は中世以来島主であった宗氏天正15年島津氏を討つため九州に下った豊臣秀吉に,筑前箱崎で謁した宗義智は,対馬を安堵されると同時に,朝鮮国王の入朝を促す交渉を命じられた朝鮮との貿易に依存してきた対馬としては,極力戦争の回避に努力したが,文禄元年の出兵となり,義智は先鋒を命じられ,対馬は渡海部隊の兵站基地となった同4年貿易の途絶と出兵の費用に苦しむ義智に,薩摩国出水郡に1万石の地が与えられたが,慶長4年徳川家康以下五大老の連署をもって,肥前国基肄・養父両郡の内の1万石と替えられた同年家康は朝鮮との復交を義智に命じ,義智は使を何度も朝鮮に遣わしたが受け付けられなかった関ケ原の戦では小西行長を岳父とする義智は西軍についたが,戦後家康に陳謝し,また小西夫人を離縁して疑いを解き,旧領を安堵された慶長検地の実態は詳細不明(宗家文庫の検地帳を現在韓国の国史編纂委員会が所蔵)当時の島内事情は,「朝鮮陣,過し軍に人多く死し,逃げ走り仕」とか「村々の人衆御座無」などと見えることから,戦役における死亡・逃走と,戦後の困窮による流散・転落が惹起されていた(洲河家文書/上対馬町誌)義智の国交修復が実を結び,慶長9年・同12年に朝鮮使が来日,義智はこれを伏見・江戸まで護送した同14年己酉約条(通商条約)の締結に成功し,釜山の倭館が再開されて念願の貿易が復活した(朝鮮通交大紀)朝鮮貿易は当藩の特殊事情として鎖国下にも公然と行われたもので,公貿易と私貿易があり,その複雑な実態が近年の研究で明らかになってきた(近世日朝通交貿易史の研究)なお,当藩には幕府から委託された形で朝鮮と交渉する外交の実務があり,徳川将軍の襲職を賀す朝鮮使の来日には,これを江戸まで案内するのが慣例となったこの間交渉の妥結を急ぐ過程で,国書の偽作・改竄などを重犯したことが露見して,寛永12年宗氏の存亡にかかわる事件となったが,将軍家光の親裁により,家老柳川調興外関係者の処分によって落着した(柳川一件)藩主世系は,義智・義成・義真・義倫・義方・義誠・方熈・義如・義蕃・義暢・義功・義質・義章・義和・義達と続く江戸屋敷は上屋敷が向柳原廿六町,中屋敷が六けんぼり,下屋敷がみのわ,京屋敷は河原町三条上ル丁,大坂屋敷は天満十一丁め,長崎屋敷はこん屋町にある参勤交代は3年に1度の上府藩主の家紋は桐・菊・四目結で,江戸城の詰間は大広間(武鑑・宗氏家譜)「寛文朱印留」での所領は,対馬国一円および肥前国基肄郡内21か村7,556石余・養父郡内10か村4,280石余の計1万1,837石余とあり,対馬国の高は明示されていないこれは,当藩が朝鮮との外交実務にあたり,朝鮮貿易を許されるという特殊な立場にあったためで,藩では10万石以上格と称していた(宗氏家譜・武鑑)対馬にはもともと2万石ほどの生産高しかなく,近世初頭の朝鮮貿易の利益と鉱山の収入をあわせて10万石と称したというこのため「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」などの郷帳類でも村名のみで,各村高も合計村高も記載されていない寛文検地の結果を表しているものと思われる寛文2年八郷新間高目録によれば,対馬独得の間高制を採用しており,対馬国内は御公領314間余・侍間427間余・給人間1,251間・郡地151間余・百姓地156間余・寺領41間余・社領56間余の合計1,420間余とある(県史藩政編)元禄12年郷村帳(同前)には石高表示がみられ,これによると,対馬国内の8郷111か村で田・畑・木庭合計高2万4,611石余・物成6,152石余である対馬国内の所属村数は,「元禄郷帳」では上県【かみあがた】郡57か村・下県【しもあがた】郡67か村の合計124か村,「天保郷帳」では上県郡65か村・下県郡75か村の合計140か村,「旧高旧領」では上県郡44か村・下県郡65か村の合計109か村藩はこれらの村々を豊崎郷・佐護郷・伊奈郷・三根郷・仁位郷・与良郷・佐須郷・豆酘【つつ】郷の8郷に分けて支配した藩政の基盤を確立したのは3代義真の頃で,寛文検地(万治3年~寛文3年)により,それまでの中世的地方知行を改めて蔵前知行とし,公領を均分して百姓に請けさせ,税制を刷新していわゆる「寛文の改革」を断行したこの改革と前後して,各地の新田開発,銀山の増産,そして貿易の振興などが行われ,また府城金石屋形の改修,桟原屋形の新築,城下の町並み整理,府中港の築港,船越の堀切,佐須奈の開港,釜山倭館の移転拡張,藩校小学校の創設なども実施された藩主の居城は戦国期以来の金石屋形を改修して金石城と称したが,さらに桟原屋形を新築して府中城とも称された藩校の創立は貞享2年で,これは全国でも屈指の早い時期に数えられ,元禄年間には陶山訥庵・雨森芳洲・松浦霞沼・西山健甫らの儒学者や国学者藤斎延などがいた藩は外交の任に堪える人材を育てるために,稽古料(奨学費)を給して若年の頃から英才教育も行っていた貿易が順調であった頃は10万石以上の格を誇ったが,不況になった江戸中期以後は藩財政が悪化し,幕府の援助と借財のやりくりによって運営される有様であった文化8年朝鮮使易地聘礼の成功により,同14年藩主義質に肥前国松浦郡内,筑前国怡土郡内,下野国安蘇郡・都賀郡内に合計2万石余が加封されたが,それでも藩庫は充足されず,幕府の援助はなおも続いたこの頃から藩政に内訌を生じ,保守俗論党と義党と称する勤皇攘夷派の抗争が,藩主の継嗣問題とからんで御家騒動となった発端は文久元年ロシアの軍艦が島の湾内に来泊し,湾岸の租借要求に藩の移封と対馬の幕府直轄を策した江戸家老佐須伊織を義党が討ち果たしたことにあり,義党の首謀者らは長州の同志と会合を重ねて同盟を結んでいた翌年藩に攘夷の詔勅が下され,勤皇派は藩校日新館に拠って,尊皇攘夷を鼓吹したところが元治元年幕府が長州戦争を下令する事態となったとき,義達の外戚勝井五八郎がクーデターを起こし,家老大浦教之助以下義党の一味に弾圧を加え,100余名の殉難者を出した翌年勝井たちは誅殺されたが,その後も不明の暗殺が続いた明治2年義達は藩知事に任命され,同年府中を厳原と改名したことにより厳原藩と称した同年豊後国玖珠郡・直入郡・国東郡内,豊前国宇佐郡内に計3万5,000石の地を給せられ,なお野洲2郡の支配地を上地して,その代地として豊後玖珠郡内に高4,000余石の地を管轄することになった明治2年の版籍奉還時の調査書によれば,領分は対馬一円,肥前国養父・基肄・松浦3郡の一部,筑前国怡土郡の一部,下野国安蘇・都賀両郡の一部,預地は豊後国玖珠・直入郡の一部,豊前国宇佐郡の一部,草高は5万2,174石余,収入は田租2万7,134石余(うち対州本藩337石余),雑租雑税金納6万4,822両(うち対州本藩4万3,311両),朝鮮関係収入金納5万6,618両,戸数1万3,975・人口6万6,624,ほかに士族戸数1,837・人口1万960,卒族戸数1,082・人口4,102,社人戸数173・人口910明治4年7月廃藩置県により厳原県となる

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

対馬国
「吾妻鏡」文治元年5月23日条によれば源平合戦で,源頼朝の外戚にあたる対馬守親光は,平氏の追討を逃れて高麗国へ渡っていたが,平氏滅亡後の文治元年5月23日,帰還のための使が出されている...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

対馬藩田代領【つしまはんたしろりょう】
(近世)江戸期の対馬藩の飛地領名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

対馬藩田代領(近世)
江戸期の対馬藩の飛地領名筑前・筑後・肥前の3国に境を接する交通の要衝である現鳥栖【とす】市田代および三養基【みやき】郡基山【きやま】町一帯である基肄【きい】郡と養父【やぶ】郡半分は,天正15年豊臣秀吉が九州平定後小早川隆景の領地となるが,慶長4年隆景の子秀秋が越前に転封後,対馬領主宗義智が文禄の役の勲功によって領有していた薩摩国出水郡1万石の替え地として与えられた田代町に代官所が置かれていたため対馬藩田代領と称す対馬の宗氏は中世以来対朝鮮貿易を財政の基盤とし,貿易権を基本として家臣団を形成した文禄・慶長の役により日朝間の国交が断絶した際は苦境に立たされたが,江戸幕府成立後は日朝の国交回復に奔走し,その功績により貿易の独占を許された実質上の土地生産高は2万石足らずだが,朝鮮との外交業務により10万石の格を与えられた慶長10年朝鮮との講和に尽力した功で同地において2,800石余を加増されたが,このほか1,000石が家臣柳川智永に宛行われ,基肄郡園部村が柳川氏の知行地となった寛永12年,柳川騒動に際し園部村1,000石は幕府領となったが,正徳元年には対馬領に戻った柳川騒動とは,寛永8年柳川智永の子調興が宗義成に対し所領と歳遣船派遣の権利を返し主従の関係を断ちたい旨を申し出,両者の確執が深まり幕府に訴え対決した事件この結果は柳川氏の国書改竄の暴露や幕府の許可なしに将軍使船を朝鮮に送ったことの発覚などにより宗氏の勝訴となったが,園部村は幕府領に編入された田代領の初期の検地記録は文禄4年と慶長14年の2回が確認される文禄検地当時は小早川氏の所領であったため,その養子となった羽柴筑前守秀秋の家人山口玄蕃と長崎伊豆守により行われ,玄蕃竿と呼ばれた検地高は,基肄上郷9か村(宮浦・城戸・小倉・長野・奈良田・野口・永吉・柚比・金丸)で畝高401町4畝8歩・石高3,514石,基肄下郷12か村(神辺・萱方・古賀・河内・田代・曽根崎・原・姫方・幡崎・飯田・酒井・水屋)で畝高443町1畝6歩・石高4,041石余,園部村129町5反5畝19歩・石高1,565石余,養父郡10か村(牛原・養父・蔵上・宿・鳥栖・藤木・今泉・瓜生野・真木・高田)で畝高514町3反20歩・石高4,280石余,総畝高1,487町9反1畝23歩・総石高1万3,402石余慶長検地は当時の代官古藤三郎左衛門により行われたことから古藤竿と称され,加増分の2,800石を含め畝高77町9反3畝15歩・石高4,472石余の増高が打ち出されたまた文政10年の内検高は2万395石余に増加している同地の中心であった田代町には田代代官所が置かれ,郡宰(代官)・郡佐(副代官)・計吏らがいた各村には庄屋,基肄上郷・基肄下郷・養父郡には各1名の大庄屋,田代・瓜生野西町には別当が置かれた代官は対馬から派遣され,頻繁に交代した銘記すべき代官として,延宝3年より11年間任官した賀島兵介成白がいる賀島は農民の借米・借銀の償却に助力し,銀米借質奉公の大部分を身請けさせた賀島は貞享2年に退任したが,大小庄屋11人は兵介の残した教訓や仁政を録した「基養父実記」を編纂した同書は農民が書いた記録として貴重である田代領の住民身分で注目されるのは奴婢制度の存在で,これは対馬から移入されたものと思われる元文2年犯科の百姓が大庄屋に奴格として与えられているほか,永代奴・永代婢・三年切奴・五年切奴など多くの事例が見られるまた,正徳3年には農民の中から郷足軽50人を定め,田代領内の治安維持と百姓の徒党の早期発見をめざした寛永後期以降の朝鮮貿易不振に伴い財政困窮が増したため,対馬藩では貿易振興と藩財政再建を目的に寛文改革を行ったこの改革の余波をうけて,田代領では年貢の増徴が行われ,郷村の零落が進行した延宝5年の飢餓人数は基肄上郷144人,基肄下郷・田代町308人,養父郡・瓜生野町231人の合計683人に及ぶこのため延宝期から天和期にかけては借銀・借米の10年賦・5年賦返済策や救米策,堤防普請・川普請など,領民の困窮を救う諸策が実施されたまた元禄12年には農民の願出により,年貢が穂検免(検見制)から並定免(定免制)に改められ,田代領全体の平均年貢率は3割9分余となった18世紀後半からの藩財政破綻に伴い,天明年間には従来の郷村における商工業禁止政策を転換し,産物助長奨励策を進めた特産物の薬は,こうした背景から注目を集めた薬は藩が輸入した朝鮮人参を主要な原料とした薬は,当初飢饉に際し栄養失調の農民に分配されていたが,天明8年に売薬を公認し,運上銀を徴収した許可証をうけた50人の売薬業者の運上銀は600匁で,売薬と藩財政との結びつきができた当初は基礎が弱かった田代売薬も徐々に「かくれ売り」の実績より販路は九州全域に及び,富山の行商人と競い合った明治2年の総株数は80株,売薬人は80人を上回っている(鳥栖市史)また,櫨の栽培奨励のため,嘉永5年に生蝋会所を設け,専売制がとられた戸口の推移は,寛永11年7,800人,享保2年の竈数2,707・人数1万2,031,安永10年の竈数2,812・人数1万2,775,文政9年の竈数2,904・人数1万3,797(基山町史),嘉永5年の人数1万5,339,明治2年の人数2万546(県の歴史)である明治2年厳原【いずはら】藩と改称明治4年厳原県となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

対馬国
中世以来の対馬島主宗氏は,天正15年豊臣秀吉によって旧領を安堵され,当国は引続き宗氏の領有するところとなった...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

対馬【つしま】
九州本土と朝鮮半島の間にある島...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

対馬藩浜崎領【つしまはんはまざきりょう】
(近世)江戸期の対馬藩の飛地領名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

対馬藩浜崎領(近世)
江戸期の対馬藩の飛地領名現在の東松浦郡東部の浜玉【はまたま】町および福岡県糸島郡二丈町一帯浜崎村に役所が置かれ,田代代官の支配下にあった当地ははじめ唐津【からつ】藩領であったが,延宝6年藩主大久保忠朝と松平乗久の領知替えに伴い筑前国怡土【いと】郡のうち4か村(田中・浜窪・片山・本村)が上知され幕府領,その後宝暦13年藩主土井利里と水野忠任の領知替えに伴い糸島郡5か村(吉井・福井・吉井浦・福井浦・鹿家)と肥前国松浦郡11か村(横田上・横田下・宇木・砂子・浜崎・浜崎浦・南山・五反田・岡口・谷口・淵ノ上)が上知され幕府領となったこののち文政元年,対馬藩が文化8年の朝鮮通信使応接の功績により2万石を増知されたのに際し,これら3郡合わせ20か村1万5,877石余を領有し,浜崎領と称した松浦郡11か村の石高は田高7,739石余・畑高1,048石余で合計9,159石余物成米3,442石余幕府領時代は田の物成米の半分が米納で江戸へ回米され,残り半分および畑物成米・小物成米は銀納とされたが,対馬藩領時代は銀納を廃しすべて米納とした対馬島民の飯米にあてることを目的としたが,実質は大坂での借銀の支払いに使われ対馬へはほとんど送られなかったらしい年貢率は田代領よりやや低く3~4割畑作では大麦・大豆・粟・稗・木綿・甘藷が作られ,弘化4年には砂糖の栽培,嘉永年間にはミカン作りが試みられた農業のほか,産業には沿岸の漁業および製糸業がある漁業は鰯・鰺・鮗・鯖などがとれ,手繰り網10張余がある紙漉きは文政3年に127軒が見え,運上銀254匁文政3年には松浦郡11か村で酒屋9軒(酒造高1,240石,酒運上銀1貫649匁2分),糀屋9軒・質屋9軒・油屋9軒・醤油屋4軒・酢屋2軒・紺屋13軒・鍋屋3軒・蝋燭屋4軒・薬屋5軒・菓子屋1軒・大工12軒・左官3軒が見え,手繰り網10張分の運上銀17匁5分を合わせ運上銀総計3貫867匁6分嘉永5年の松浦郡11か村の人数は男2,219人・女2,011人で合計4,230人明治2年の竈数・人数は,横田上52軒・241人,横田下84軒・434人,宇木62軒・311人,砂子50軒・249人,浜崎131軒・630人,浜崎浦152軒・833人,南山103軒・433人,五反田97軒・448人,岡口59軒・256人,淵ノ上67軒・396人で合計905軒・4,510人(うち男2,325)中心地浜崎は玉島川の河口に港をひかえ,唐津から博多を結ぶ街道の宿駅として栄えた庄屋は,唐津藩領時代は庄屋給や扶持米が与えられ,幕府領時代は公的には経済的な優遇措置はなく村ごとに庄屋地が定められたが,対馬藩領時代は村ごとに26俵ずつ村貫米から庄屋給が給付され,また怡土・松浦西郡に大庄屋1名ずつが置かれた文政3年,藩は農民救済のため浜崎浦村の久屋市右衛門らから銭を献納させ,これを6朱の利で農民に貸し付け牛馬の購入をすすめた天保飢饉の際には,浜崎村で文政8年に新酒造を許可された酒屋が商売替えを命じられ,対馬から食料として干昆布1万2,000斤・煎鹿尾藻1万2,000斤が送られた明治2年厳原【いずはら】藩と改称明治4年厳原県となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

対馬海峡【つしまかいきょう】
九州と朝鮮半島の間に位置する海峡...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

対馬国【つしまのくに】
対馬海峡に横たわる山島の旧国名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

対馬国
律令制下では,対馬島として把握され,律令制の弛緩とともにしだいに対馬国の呼称が定着をみていったと考えられる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

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