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![]() | 秋月藩(近世) 江戸期の藩名外様大名柳間詰元和9年初代福岡藩主黒田長政の三男長興が,長政の遺言により,第2代福岡藩主黒田忠之から筑前国夜須・下座・嘉麻の3郡のうちに5万石を分与されて成立分知時の所領は「長興公御代始記」所収の「知行高目録」によれば,夜須郡のうち上秋月村・下秋月村・江川村・野鳥村・長谷山村・甘水【あもうず】村・楢原村・隈江村・弥永【やなが】村・栗田村・三箇山村・畑島村・下高場村・上高場村・久光村・依井村・大塚村・牛木村・馬田村・上浦村・高田村・下浦村・草水村・千代丸村・菩提寺村・入江持丸村・下淵村・千手【せんず】村・四三島村ノ内の29か村・2万6,217石余,下座郡のうち山見村・田代村・屋形原村・板屋村・柿原村・古賀村・頓田村・来春【らいは】村・一木村・提村・小田村・平塚村・中寒【なかそうず】村・屋永村・西津留村・牛鶴村・阿井窪村の17か村・7,821石余,嘉麻郡のうち馬見村・屏村・桑野村・椎木村・西郷村・上碓井【かみうすい】村・平山村・千手村・大力村の9か村・1万5,960石余の合計55か村・5万石「寛文朱印留」では,夜須郡のうち30か村(中牟田村ノ内が加わる)・高2万6,217石余,嘉麻郡のうち11か村(泉河内村・才田村が加わる)・高1万5,960石余,下座郡のうち17か村(阿井窪村のかわりに古江村)・高7,821石余の合計58か村・5万石となっている寛永13年下座郡の頓田村・古賀村・西津留村・一木村・来春村・古江村・平塚村ノ内の7か村が福岡藩領の穂波郡弥山村・内山田および夜須郡の中牟田村ノ内の3か村と交換されたが,この交換は幕府からは公式に認められず,判物・朱印状も書き改められなかったこのためこの所領の交換は「御内証替」と呼ばれ,幕府に対する新田や人別の書上げは,福岡藩と秋月藩が互いにそれらを問い合わせ,判物・朱印の所領にあわせて書き上げられた寛永元年春,家中屋敷の縄張りのため諸士が福岡より引越し,同7月長興が入部翌2年江戸参府を福岡藩から差しとめられたが,当時黒田家と不仲であった細川家の援助を得てひそかに江戸に上って将軍家光に謁し,同11年8月5万石の朱印状を与えられた家臣は馬廻・無足・組外・陸士・側筒・足軽などがあり,藩政機構としては家老のもとに中老・御用人・御納戸頭・馬廻頭・組外頭・留守居・旗奉行・鉄砲頭・長柄頭・側筒頭・御供頭・郡奉行・勘定奉行・町奉行・普請奉行などがあった寛永11年に山足軽制度を創設山足軽はのちには郷足軽と称したまた,文政3年には郷士制度が創設された領内支配は,郡方と町方(秋月町)に二分され,それぞれ郡奉行・町奉行が支配した郡方は慶安年間には郡奉行と代官頭が各々2人ずつ置かれ,享保年間には郡奉行は免奉行と称されたが,享保19年にもとの郡奉行に復しているその後代官頭が廃止され,農村の支配についてはすべて郡奉行が担当することになった郡奉行は通常3人で,月番で農村の支配にあたった村には10~20か村ごとに大庄屋が置かれ,その管轄区域を組と呼んだ組の名称は大庄屋の居住する村の名が用いられ,組の名称や村の数は時期によって変化があった文政3年の組名・村数は,栗田東組20か村・栗田西組14か村・屋永組14か村・上臼井組20か村となっていた各村には庄屋が1名ずつ置かれ,その下に組頭・相府・散使・山ノ口が置かれた町奉行は通例1名で,秋月町に年行司が置かれ,各町には乙名が置かれた寛文5年長興が死去して,長重が第2代藩主となったが,この前後から藩財政の悪化が顕著となり,同9年には京都・大坂での借銀の返済を一時停止している宝永元年には藩財政の窮乏に対処するため,7か年の倹約を実施するとともに,初めて藩札を発行,同3年には5歩の上米を実施した享保2年には,田方の免率を一律に1歩5厘引き上げて定免制を採用し,元文2年には「給知御蔵納め」を実施して,知行高100石につき35俵渡とし,翌3年には100石80俵渡として実質的な蔵米知行制に転換した安永4年長堅は新小路に藩校稽古亭を設置,天明4年には改築して武芸所を併置し,名称も稽古観と改め,文化7年さらに稽古館と改めた文化3年には亀井南冥の「論語語由」10巻を稽古館から出版している本藩の福岡藩は,寛永18年以降佐賀藩と隔年に長崎警備にあたっていたが,天明5年に襲封した第8代長舒は,福岡藩主黒田斉隆が幼少であったためかわって長崎警備を担当長舒の跡を継いだ長韶も,文化7年まで長崎警備を勤めた文化7年に秋月城下入口に建設された目鏡橋はそれを機縁とするものである領内の主要な街道は日田街道と秋月街道で,日田街道には領内の宿駅はなかったが,秋月街道には千手・秋月・野町の宿駅が置かれていた年貢米は,夜須郡・下座郡は博多にある秋月藩の蔵屋敷まで馬で運ばれ,博多から大坂に回漕された嘉麻郡・穂波郡は八反田・天道まで馬で運ばれ,そこから遠賀【おんが】川を下って芦屋(元禄2年以後は黒崎)の秋月藩の蔵屋敷まで送られ,芦屋(黒崎)から大坂に回漕された人数は,享保2年2万4,763,同18年2万2,670,寛政10年2万2,082,文化3年2万2,436,天保11年2万5,565となっており,享保17年の飢饉で減少した人数がその後も漸減し続け,天保年間にやっと享保年間以前の状態に回復している領内の産物としては,元結・鬢付・紙・葛粉・紫金苔・木蝋・陶器などがあった寛政末年頃から藩財政の窮乏が激化,享和2年には札切手仕組・陶器・紙・葛粉・蝋などの国産方仕組,金山の開発等の諸政策を実施したが,成果をあげることができなかった文化8年には,間小四郎らが家老の不正を福岡本藩に訴え出,譜代の3家老のうち宮崎・渡辺の両家老が失脚する政変が発生文化9年の借財は銀3,740貫目,金1,300両に達したこのため藩政は一時福岡本藩の秋月御用受持が実質的に担当し,福岡藩の本格的な援助のもとに藩財政の再建が図られ,藩政改革が実施された天保5年には疲弊した農村を救済するため,大庄屋・庄屋を休役とし,領内2か所に出張所を設けて郡奉行が直接農村を支配する仕組が立てられた嘉永5年,藩領のほぼ中央に位置し秋月藩の経済流通を支配していた福岡藩の在郷町甘木に対抗して,野町村に小杉新町を建設慶応元年には新銃隊を組織し,同3年には洋式調練を開始したが,藩の立場は一貫して佐幕派であった明治2年版籍奉還同4年7月,第12代長徳のとき廃藩,秋月県となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 秋篠(古代~ 平安期から見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 秋月荘(中世) 鎌倉期~戦国期に見える荘園名... |
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![]() | 秋山荘【あきやまのしょう】 (古代~中世)平安期~戦国期に見える荘園名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 秋山荘(古代~中世) 平安期~戦国期に見える荘園名宇陀郡のうち現在の大宇陀町本郷の字秋山田・秋山などは当荘の遺称地と考えられる①秋山荘興福寺雑役免(進官免)荘園延久2年の雑役免帳に「秋山庄一町」とある荘田は松上・松下・赤栗などの地字に所在した現在の大宇陀町本郷に字赤栗がある②秋山荘一乗院門跡領応永12年頃と推定される6月25日付宇陀郡荘々郷々注文(三箇院家抄2)に一乗院方の重色所領として「秋山」と見える同時期の宇陀郡田地帳案(春日大社文書4)によれば「一,秋山庄四郷田六十一町九反 秋山跡」とある田積61町余のうち,3町3段は伊勢神領残田58町余の年貢米149石8斗から神戸明神社(阿紀神社)年貢74石・秋山妙仙寺年貢9石8斗を引落した残余が上納された荘内の伊勢神領は鎌倉期にまで遡るらしい(勘仲記弘安10年8月2日条)秋山荘四郷は現在の大宇陀町本郷と迫間【はさま】を指すとみられるが,「三箇院家抄」巻2所引の嘉元元年10月15日付順恵注文によれば「秋山庄本郷」の3分の1は大乗院門跡の知行するところであったという③秋山春日社神供料所「寺社雑事記」長禄元年11月29日条に「就宇多秋山方本知行在所……殊更当社神供料所候」とあり,当地からは春日社神供も上納されていた一乗院門跡以下への年貢納入は秋山氏の請負うところとなっている国民秋山氏は神戸明神社(阿紀神社)の神主として当地に勢力を扶殖したものという南北朝期には牧氏・沢氏らとともに南朝に属し,文和4年(正平10年)には摂津国神南合戦に足利義詮と戦ったと伝える(太平記巻32)次いで室町初期に宇陀郡域が伊勢国司北畠氏の勢力下に入ると,秋山氏は芳野・沢両氏と並んでその与力となり,「和州宇陀三人衆」と呼ばれ,のちには同氏の被官化した(勢州四家記/群書20)応永年間,秋山左馬頭入道の頃には当荘を中心として岩清水荘・上森荘・森中荘・桐山村・小著荘・河合荘・漆河原荘・南阿曽谷村・稲積(稲戸)荘・平野村・山口荘・曽邇荘・菅野荘・土屋原荘・福智荘などに所職を有して知行,あるいは年貢を請負うなどして支配下に収めた(三箇院家抄2)また井足上荘・西山辺荘・召使(鳥子)荘にも所職があって(宇陀郡田地帳案/春日大社文書4),ほぼ現在の大宇陀町域を押えている応永22年には北畠満雅に呼応して幕府が派遣した畠山満慶の軍と対峙(寺門事条々聞書/内閣大乗院文書),次いで正長元年にも満雅の再度の挙兵に応じて大和方面からの幕府の攻撃に備えたが,翌2年2月には長谷寺口に進出した多武峰と大乗院・一乗院両門跡の坊人(衆徒・国民)と合戦して敗北した(満済准后日記正長2年2月1日・同2日・同8日・同24日条)長禄初年に秋山遠清が死去すると,幕府は北畠氏と諮って国民越智氏の一族から越智備中守に家督を継がせ「宇多郡秋山之闕所」を知行させた(寺社雑事記長禄元年11月29日・同2年12月17日条)応仁・文明の乱では沢氏とともに北畠氏麾下にあって他の大和国人とは異る独自の動きをみせ,北勢地方を転戦したが(同前文明11年11月22日・12年3月19日条),文明14年秋,細川政長与党の筒井氏一派が大和回復のため反攻に出ると,秋山も越智方に協力して国中に出陣している(同前文明14年9月9日・同17日条)文明末年~長享初年頃秋山氏は再度跡継ぎが絶えたため,北畠氏では衆徒古市氏の女婿にあたる国堅を入れて跡を取らせたこれに対し越智家栄は興福寺を介して抗議しており(同前長享2年2月23日・3年2月8日・6月12日・同18日条),この後も国堅と越智氏の間には抗争が絶えなかった(同前明応4年10月13日・6年9月14日条)享禄5年国堅は一族・同名衆秋山辰巳実親・井足実栄を語らって,国衆沢・芳野・小川ら諸氏と宇陀郡内一揆の盟約を結んで郡内での地位を固めている(享禄5年6月29日付一揆契状/沢氏古文書8)秋山氏は沢氏とすでに文明16年に「宇多合戦」と称されるほどの抗争を繰り広げており(寺社雑事記文明16年7月22日・9月11日条など),この盟約も一時的安定に過ぎず,秋山氏が大和に入った細川晴元与党木沢長政と結んだために一揆は敗れて(年欠9月17日付北畠天祐書状・9月晦日付同書状/沢氏古文書4),天文24年には両氏の紛争に発展している(天文24年10月28日付北畠具教書状・同年閏10月2日付同書状/同前5)永禄年間大和を支配した松永久秀が宇陀郡にも軍を進めると,秋山氏は北畠氏の配下を脱して久秀に属したが(勢州四家記/群書20,多聞院日記永禄11年11月9日条),織田信長が政権を樹立,その子信雄が天正3年に北畠具教を滅ぼすと,秋山右近大夫は信雄に従い,同7年の第1次天正伊賀の乱では名張口で奮戦したという次いで同11年にも信雄の先陣となって第2次天正伊賀の乱の残党を掃蕩したが(勢州四家記/群書20),同年夏には北畠具教の弟東門院(興福寺院家,北畠具親)に与力し信雄に叛いている(多聞院日記天正11年4月24日条)同12年には豊臣秀吉に属し,沢・芳野らとともに伊勢松坂城主蒲生氏郷の組中となった(勢州四家記/群書20)秋山氏の拠った秋山城(神楽岡城)は現在の大宇陀町春日古城山にあり,宇陀郡内最大の城郭遺構を残すが,これは天正13年に秋山氏が追われて,豊臣秀長の家臣伊藤掃部が入って以降の修築によるものとみられる(日本城郭大系10)... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 秋穂荘(中世) 鎌倉期~戦国期に見える荘園名... |
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![]() | 秋芳洞【あきよしどう】 旧名称を滝穴(たきあな)(地下上申絵図),通称を「しゅうほうどう」という... |
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![]() | 秋月郷(中世) 鎌倉期~戦国期に見える郷名... |
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![]() | 秋吉名【あきよしみょう】 (中世)南北朝期~室町期に見える名(みよう)の名... |
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![]() | 秋田藩【あきたはん】 (近世)江戸期の藩名... |
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![]() | 秋吉名(中世) 南北朝期~室町期に見える名【みよう】の名豊後国速見【はやみ】郡八坂【やさか】下荘のうち現在の杵築【きつき】市の北台から以北の台地および高山川の河岸の低地一帯かと推定するが,正確な現在地比定については,文書上の地名を現地調査によって比定し,確定する以外はない建武2年11月の伴(秋吉)忠義八坂下荘内秋吉名畠屋敷配分状に,「豊後国八坂下庄内秋吉名畠地屋敷分状事」とあるのが初見(秋吉文書/大友史料5)秋吉忠義(忠氏と改む)は祖父盛氏から秋吉名を譲与されたらしいが,建武2年放蕩をし,父の死亡により祖父浄願(盛氏,のち盛幸と改む)が所領を没収し,中分してその半分のみを与えたこれが初見文書の内容この秋吉名名主職は,建武2年4月15日浄願と忠義(忠氏)に宛てられたものであるが,年貢などの未進のため欠所して忠氏の叔父盛基に与えられたしかし両人が歎願したので,康永元年7月17日に還補されている(同前6)貞和3年6月26日の八坂下荘内秋吉名戸次方田畠拝付案は,浄願分が三子能房に譲られたものここに「戸次方」とあるのは,浄願を「称戸次」したとあり,浄願その人に他ならない(秋吉系図/県史料10)年未詳八坂下荘秋吉名当知行・押領分坪付注文によると,相当の田数が竹中殿に押領されている(同前10)康永元年1月,秋吉名主忠氏と薬丸名主能房は,薬丸・秋吉両名田畠屋敷山野荒野塩浜などの各半分宛が,戦乱その他で文書が紛失したので,両者和談して以前の相続分を確認し,地頭木付親直の御判を申請し,開発は半分宛領知することを定めている(大友史料9)浄願から相伝した能房は,子親宣に譲り,親宣は多病で木付頼直の女(安岐女房という)を養女として所領を譲り,秋吉忠氏の弟貞泰の子能泰にめあわせたのち能泰は秋吉忠氏の養子直俊の女(妹という)を,妻安岐女房が養女にしていたので,所領を相伝した秋吉忠氏も嫡子忠吉が応安元年8月7日箱崎で戦死(21歳)したので,木付頼直(入道広輔禅門)四男親直(安岐女房の弟)をその女にめあわせ,親直を直俊と改めさせ所領を譲ったらしい応永4年3月貞泰(忠氏弟)の女武母の夫松行入道妙居は,秋吉・延道・守末半名田畠山野塩浜等の御恩地を,妻武母に譲っている守末半名は秋吉能泰・同正泰が買得したとしているが,秋吉・延道両名はどうした経路で松行妙居の知行となったか未詳(大友史料9)応永5年藤原(秋吉)直俊は,薬丸・秋吉両名各半分を木付頼直(広輔)のはからいとして直俊に宛行われたが,安岐女房の養女妹は自分の子であるから,一期の後は半分を返し,半分はおととい(兄弟)が折中して知行せよと契約状を書いている(秋吉文書/大友史料9)享徳3年10月8日の秋吉・薬丸両名浮免坪付注文に連署している能安と直泰は,前者は薬丸泰親の子能安,後者は秋吉直俊の孫直泰で,この両名は半分あて秋吉・薬丸両氏に相伝されたらしい(同前11)室町期と推定される2月28日の秋吉頼泰契約状に,「秋吉各田之事,三郎四郎殿(房泰)依無力,一切大さうへ被預候」とあるのが終見であるが,この頼泰は先の直泰の甥であり,依然として相伝されていることがわかるただし,これはその父三郎四郎房泰が無力によって,秋吉名を大さう(大左右)に預けて永代打ち渡したが,辛うじて子頼泰が請け返したしかし頼泰が作をしない時は,木付親忠の計らいとすると定めている(秋吉文書/県史料10)おそらく木付氏の領有に帰したものであろう無年号の秋吉名竹中殿押領分注文によると,当名には石屋里・田渡里・田嶋里・金浜里・中間里・八代里などがあり,一坪・二坪・三坪・四坪・七坪・九東・十坪・十二坪・十五坪・廿三坪などの条里の痕跡が顕著である(同前/県史料10)これは現杵築市の北を流れる高山川の河口付近のデルタと思われる石屋里の中に田渡里・田嶋里・金浜里があるので,果たしてこれが条里制の里に当たるかどうかは,今後の研究課題であるなおこれと一連の秋吉名当知行分坪付注文には,しを田・しを入・木付河そい・木付市前などの地名があり,現地比定に不可欠の史料近世の村名は明瞭でないが,杵築藩領宮司村はその中心部であろう... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」