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![]() | 祇園(近世~近代) 江戸期~現在の汎称地名八坂神社西門前,四条通を中軸とした鴨川以東一帯の地をいうが,その称は一定しない「元禄郷帳」「天保郷帳」はいずれも祇園町の称を用い,その石高はそれぞれ170石余,174石余である「享保村名帳」では,祇園廻り(祇園社領)94石余,祇園境内(座田右衛門知行)6升,祇園村(櫛田右衛門知行・座田右衛門知行・光玄院領・信重院領・源光院領・霊雲院領・保徳院領)5斗余に区分されているが,「旧高旧領」では,八坂廻り(177石余)の称で一括し,八坂社領122石余・建仁寺領24石余・知恩院領21石余・安養寺領7石余,その他(座田氏寿知行・畑清寛知行・小野氏裕知行)とその内訳を示すこのような称呼の混乱および石高の相違にはなお検討の余地はあるが,近世初期からこの地域の市街化が進行しつつあったことも事実である清水寺・祇園社への参詣路にあたるという立地によって,早くから茶屋の存在したことがわかる(言継卿記・山城名跡巡行志)慶長年間には祇園社境内の傾城遊女のことが問題化している(西笑和尚文案)所司代板倉重宗の時代には祇園・八坂の茶立女の存在も知られ(京都大概覚書),遊興地域として発展しつつあった寛永年間の平安城東西南北町並之図にはすでに四条通をはさんで「ぎおん丁」の名が見え,「板倉政要」所収の寛永14年洛中洛外惣町数人家両数改メ日記には,雑色荻野与兵衛方内として「北祇園」,同松尾宇兵衛方内として「祇園村南頬」の名があげられているこれらは,延宝2年四方洛外町続之町々小名之覚では「北祇園町」「祇園南側町」,正徳4年洛外町続家数改帳では「祇園町北側」「祇園町南側」と変化している(荻野家文書)また「十三朝記開」には,寛文6年に三条・四条の川東,知恩院前の田地を市街化し祇園町と称したという記事があるが,これは祇園外六町(のちの弁財天町・常盤【ときわ】町・廿一軒【にじゆういちけん】町・中之町・川端町・宮川筋1丁目)の開発を述べたものかいずれにしても,四条通に面した区域がまず町並み化し,次いで四条河原との間の祇園外六町の市街化が進行したのであるこのような実質的町並み化のなかで,祇園町・祇園村の称呼の併用が行われたと考えられるさらに正徳2年には,祇園領大和大路東側の広小路畑1万4,448坪の開発が許可され,新家地となっていった(京都大概覚書)すぐに家並みが整ったわけではないが,正徳5年には祇園町北側・祇園町南側・祇園町松原町のほかに,祇園新家地として2町の存在が知られる(荻野家文書・京都大概覚書)これがのちに祇園内六町(富永町・末吉町・清本町・元吉町・橋本町・林下町)となって,祇園新地花街の一画を形成するなおこれら6町の町名は,享保16年には確認できる(上河原雄吉家文書)18世紀初めには,祇園町北側・祇園町南側を中核として祇園外六町・祇園内六町の地域で,茶屋・旅籠屋・水茶屋・焼豆腐屋などが多数営業を行い,一大遊興地を形成した(京都大概覚書)だが実際は遊里と同様の稼業であったので,江戸期を通じたびたび規制を受けたが,立地条件に恵まれたことから公許の島原遊廓を圧倒する勢いであった(府下遊廓由緒)大和大路四条上ル東側道端に軒を連ねた茶屋は「螢茶屋」と称し著名であったが,正徳2年の祇園社領開発にかかわって,営業は許されたもののそれぞれ間口1間・奥行2間の惣長屋建となるなど規制を受けた(京都大概覚書)また焼豆腐屋としては,祇園町北側の9軒のほか,祇園楼門前の二軒茶屋が有名であった(京都大概覚書・雍州府志・本朝世事綺談),「古賀志」と称する祇園香煎も名物で,「京羽二重」には香煎屋として祇園町の了郭,井水和泉・小泉和徳の名をあげる明治19年,祇園町南側・祇園町北側の一部,中之町・富永町・清本町・弁財天町・元吉町・廿一軒町・常盤町・橋本町・末吉町・川端町・林下町の一部,清井町の一部,宮川筋1丁目,下河原に属する鷲尾町・下河原町・月見町・上弁天町の19か町をもって祇園甲部の区域と定め,祇園町北側のうち字膳所裏【ぜぜうら】を乙部の区域を定めたここで膳所裏と称するのは,祇園町北側の北方に近江膳所の領主本多隠岐守の屋敷があったことによるこの屋敷の存在は,天和3年には確認できる(京都大概覚書)大正元年四条通に市電開通後,四条通・大和大路表側での貸座敷営業は禁止され,祇園新地甲部の区域も改正されて14か町となった |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 祇園用水【ぎおんようすい】 岡山市東部,旭川左岸地域を潤す幹線用水路... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 祇園【ぎおん】 東部は太田川に沿う沖積低地... |
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![]() | 祇園町南側(近世~近代) 江戸期~現在の町名四条通大和大路東入南側の町清水寺・祇園社への参詣路にあたり,早くから洛外の茶屋街として成立「板倉政要」所収の寛永14年洛中洛外惣町数人家両数改メ日記に雑色松尾宇兵衛方内「祇園村南頬」の名が見える延宝2年四方洛外町続之町々小名之覚には「祇園町南側」とあり,正徳4年洛外町続家数改帳による家数60(荻野家文書)幕府からの規制をうけながらも島原遊廓をしのぐにぎわいを見せ,歓楽街として発展祇園を形成する各町のなかでも当町には数多くの茶屋が営業していた(京都大概覚帳)明治元年八軒町を合併同2年弥栄小学校開校同5年には駆黴院(八坂病院)が開設同院が同44年に移転した跡地へ,大正2年祇園甲部組合により都おどりが行われる歌舞練場が建設されたなお都おどりは明治5年西本願寺で開催された古美術・工芸品の博覧会で公開されたのがはじまりその時に指導にあたった井上八千代の京舞は祇園の風格をつくりあげる基となった明治2年の町組改正から下京【しもぎよう】24番組,同5年第15区と改称,同25年第15学区に編成明治12年下京区祇園町南側,同22年京都市下京区祇園町南側,昭和4年東山区祇園町南側となり現在に至る... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 祇園寺【ぎおんじ】 水戸市八幡町にある寺... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 祇園町北側【ぎおんまちきたがわ】 (近世~近代)江戸期~現在の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」