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西方村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
西方(近代) 明治22年~現在の大字名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
西方村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
西方郷(近世) 江戸期の郷名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
西方寺町【さいほうじちょう】 (近世~近代)江戸期~現在の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
西方寺町(近世~近代) 江戸期~現在の町名両替町通竹屋町上ルの町寛永14年洛中絵図に「西方寺町」と見えて以後町名に変化はない町名の由来は,浄土宗の西方寺が寺町に移転するまで,当町に存したことによるといわれる(京雀)江戸期の当町の様子は「西方寺町文書」により江戸初期より明治期までの基本的様相を知ることができるそれによれば,当町には江戸初期,慶長年間の後半ごろより家売買についての規定が存しており,当町の居住者が家売買を行った際には分一銀として10分の1の銀子を町に納め,さらに,その分一銀のほかに振舞銭として銀30匁,かゆ代として銀10匁,顔みせ銀として5匁,おきせんとして銀5匁を納入することが義務づけられていた慶長20年9月10日に与兵衛という人物が上林又兵衛に530匁で家を貸した時には,分一銭として銀53匁と振舞銭以下を規定通り町に納めている(西方寺町文書)このような家売買などに関する規定がやがて町式目として整っていくが,当町においては天保13年の町式目が残されているこの町式目も前出の分一銀の規定同様,町の出銀規定を中心としたもので,改正と書かれているから,天保以前にもすでに式目が定められていたことがわかる町自体の構成は,明和4年の沽券帳によれば,両替町通をはさんで西側に12軒,東側に14軒の家が並び,町運営の中心となる町会所は東側の一番北寄,丸太町通に接して設けられていたまた,その会所を中心として種々町の世話人として町用人が雇われており,寛政4年には彦兵衛という町用人の名前が見られるこの家数は以後大幅には変化していないが,安政6年には28軒,明治3年には西側13軒・東側16軒の29軒となっている町の人口は,安政6年の宗旨人別帳によれば男子63人・女子60人の計123人明治12年頃の戸籍によると男子49人・女子50人の計99人となっており,幕末と明治前期では若干の異同が見られる(西方寺町文書)江戸期は下一条組の両替町九町組に属し,28軒の軒役を負担明治2年の町組改正から,上京【かみぎよう】21番組,同5年第24区と改称,同25年第19学区に編成明治12年上京区西方寺町,同22年京都市上京区西方寺町,昭和4年中京【なかぎよう】区西方寺町となり現在に至る... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
西方①【にしがた】 高梁(たかはし)川中流右岸に位置し,大部分が山間地... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
西方寺【さいほうじ】 佐世保市八幡町にある寺... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
西方村(中世) 室町期から見える村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
西方寺前町【さいほうじまえまち】 (近世~近代)江戸期~昭和41年の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
西方寺前町(近世~近代) 江戸期~昭和41年の町名江戸期は博多の1町那珂川下流右岸に位置する土居町流のうち三奈木黒田家所蔵福博古図によると,秋月御蔵本の東側,土居町流の最北端に位置する縦筋町町名は西方寺の門前町であったことによる(福岡区地誌)西方寺は山号を宝樹山といい,開山は明源上人はじめ奈良屋番にあったが,移建されたものという同寺の名物は,深さ7寸5分,底の直径1尺5寸という大やかん夏祭りにはこれに入れた薬湯の施しがあった元禄年間は上・下に分かれ,家数は,上25,下17(続風土記)宝暦年間は1町として家数47,間数約132間(石城志)寛文5年年寄与左衛門は居屋敷と抱屋敷を合わせて5間間口,人足1人ずつを御免となった延宝8年の博多大火では当町の裏屋も焼失した同8年秋月蔵屋敷の脇地を当町屋敷続の家主が銘々拝領し,同町浜の方の余地は船大工惣左衛門が拝領することとなった(博多津要録)慶応2年当時は,綱・竹・材木店の綱屋次八,代呂物店・米大豆店・質物店の油屋武吉などの大店や,小規模な生魚店・煮売店・桶屋・線香屋などが並んでいた(博多店運上帳)隣の古渓町魚問屋街の発展でその関連業種が明治初期まで栄えた明治4年の町格は下ノ下で,3貫文余の定切銭を納めた(石城遺聞)明治12年の戸数58・人数284,民業は工12戸・商20戸・雑業5戸(福岡区地誌)明治11年福岡区,同22年福岡市に所属同年の戸数69・人口378(福岡市誌)同36年一部を千年町に編入大正期から昭和前期には商店の業種も大分変わり,酒店・肥料店・刃物店・建材店・海産物問屋・自転車屋などの店が並んでいた昭和20年の福岡空襲で全町被災した西方寺も本堂・寺宝すべてを焼失したが,戦後再建された区画整理で道幅は2倍近く広くなった同41年古門戸町・対馬小路【つましょうじ】・奈良屋町となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」