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堺【さかひ】


[[地名]]さかひ【堺】(サカイ)現在の大阪府堺市。大阪湾に面していたことから、中世より港湾都市として栄え、室町時代には明(みん)などとの外国貿易の中心地となっ...

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[最終更新日:2007-12-11/JLogosid:5083586]
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堺南荘【さかいみなみのしょう】

(中世)鎌倉期~戦国期に見える荘園名

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

堺南荘(中世)
鎌倉期~戦国期に見える荘園名和泉国大鳥郡塩穴郷のうち単に和泉国堺荘ともいわれ,境南荘とも書いた和泉国堺の地名はすでに平安期から見えるが,荘園としての初見は「後深草院御文類」所収の嘉元2年7月8日付の譲状案で,「天王寺遍照光院并葺屋・堺等庄,相副大宮院御書并准后〈貞子〉状,可譲進永福門院先日申候了,不可有相違者也,……但堺庄遍照光院役不可怠者也」と見えるこれによれば,堺荘は天王寺遍照光院領で,大宮院から准后貞子,後深草上皇,永福門院と相伝されたことがわかる南北朝期には住吉神社領として見え,正平年間と推定される年未詳9月6日付の後村上天皇綸旨(住吉神社文書/堺市史4)に,「住吉社領当国堺南庄着岸船事」とあるこれは堺南荘に入港した船に対する守護使の乱妨を禁じたもので,この他に8月7日付で「艫別取熊代弾正以下輩,堺南庄経廻」を禁じた綸旨もある(同前)応安6年5月9日,北朝後光厳上皇は東大寺八幡宮修理料所として「和泉国堺浦泊船目銭」を3か年寄進したが,これが実現しなかったためか,永和2年6月には同じ修理料所として「摂津国堺浦泊船目銭」が寄進されている(東大寺文書/堺市史4)引接寺は正平2年に堺荘住人の三宅十五郎によって建立されたが(府史),応永の乱後の応永8年4月23日の将軍足利義持寄進状によれば,「当社領開口社堺南庄内引接寺敷地」として,宿院から西へ37町,今市から南38町の敷地を寄進されている(開口神社史料)また応永15年7月20日,浄観は念仏寺惣寺僧に対し,「堺南庄念仏寺西門前,社里十四坪内海会寺前,自路西,寺領分屋敷」を安堵している(同前)なお同年11月24日の守護代生石家光らの念仏寺住持職寄進状に「和泉国大鳥郡開口村堺南庄念仏寺」とあり(同前),応永19年4月19日の北野社一切経奥書に「大鳥郡塩穴郷開口村念仏寺」とある(大日料7-16)ことから,この頃堺南荘が塩穴郷開口村に属したことがわかる念仏寺は永享12年10月27日には足利義教から「堺南庄内念仏寺領散在名田畠等,段銭臨時課役以下」を免除された(開口神社史料)永享3年11月8日の足利義政御内書案(御前落居奉書/堺市史4)には「和泉国堺南庄事,先々不被居庄主旨,地下人等就歎申」とあるこれによれば,堺南荘は相国寺塔頭の崇寿院領で,応永26年2月28日には地下請となって730貫文が寺に納入されることに定まったことがわかり,崇寿院領となったのはそれ以前とみられるしかし寺は荘主を下して荘園支配を進めようとしたため荘民が幕府に訴えて,この11月8日に従来通り地下請をする裁決が下されているまた嘉吉元年11月16日,幕府は守護細川政春に当荘を返付し,崇寿院に年貢を納めて,下地はもとのごとく知行する旨を命じており,守護請となったとみられる(堺市史1)その後「蔭涼軒日録」などでは,戦国初期まで同院領として見えるが,同書の寛正2年2月25日条には「泉州堺守護押妨之事」とあり,同3年2月9日条には守護から陣夫がかけられたと見えるなど,守護方の押妨が続いているまた先の幕府裁決にもかかわらず,崇寿院は荘主をおいて堺南荘の支配にあてたようで,寛正3年8月19日条に「崇寿院領泉州堺之庄主,健監寺,依改替代官職,以訴状歎之」と見えるまた「政所賦銘引付」によれば,文明15年11月20日の崇寿院主事等闐都寺の訴えの中に「和泉堺南庄々主職事,就被補任之,入部之刻,土一揆等号徳政蜂起之条,及合戦,属無為候了」と見える(室町幕府引付史料集成上)また「蔭涼軒日録」長享2年12月3日条によれば,堺南荘は田地がなく屋地子をもって土貢とするとあり,往古から730貫文であったが,地下人が過半住吉浦に移ったため,400貫文に減少したまた代官には甲斐庄氏,ついで松波三河守がなり,応仁・文明の乱後から長享元年までは畠山政長がその任に当たっていたが,紹宣都寺を代官に任じ,家数が上古の倍になっているから土貢を730貫文納入するよう命じたというしかしこの間,一時的に幕府の御料所となっており,文明元年11月14日の室町幕府奉行人連署奉書(和田文書)に「御料所泉州堺南庄事」と見え,長享元年11月7日にも御料所代官として当荘の代官職を伊勢貞宗に預けている(蔭涼軒日録)長享2年正月10日に代官から年貢5,000疋が寺に届けられているので,御料所となっても年貢の一部は崇寿院に納められていることがわかるしかしこの時,寺は幕府の処置を不満として年貢の請取りを拒否し,使を追い返している(同前)延徳2年閏8月25日には幕府は伊勢氏にかえて安富元家を代官に任命し,崇寿院に替地を与えることにした(同前)明応2年11月23日,堺南荘政所は「堺南庄三村宮神前参銭事」について,延徳2年10月晦日の証状に任せ,念仏寺が知行するよう住吉安養院へ申し送っており,明応2年12月2日付で,同じ内容が安富元家から小坂安秀を通じて念仏寺へ伝えられている(開口神社史料)安富元家の支配が行われていることを示しており,政所は又代官の小坂安秀とみられているこの後「実隆公記」大永3年閏3月9日条には「南庄代官神坂某代井上三郎兵衛」が,2月から南荘横小路の光明院に寄宿していると見えるので,神坂氏が代官になっていることがわかる大永7年3月23日には,地下宿免許,喧嘩・押買の禁止などからなる禁制が,三好元長と可竹軒の連署で堺南荘宛に出されている(古文書集/堺市史4)大永8年7月11日の散位某連署奉書(開口神社史料)によれば,引接寺は応永22年に灯油料として「問丸所々」を寄進され,明応3年には納屋宗信が請文を捧げて代官職に任じられたが,ここ数年未進を続けていることがわかる天文4年4月28日の念仏寺築地修理料差文(開口神社史料)は念仏寺築地修理に1貫文ずつ寄付をした者の名を町ごとに記したものであるそれによると,大小路町10人・市小路町15人・甲斐町15人・大道町10人・材木町14人・材木町中浜11人・中町16人・今市町10人・小屋町7人・舳松町6人の名があげられている千利休や武野紹鷗の名が見えるほか,米屋・銭屋・薬屋・油屋・扇屋・絹屋・布屋など扱う商品名を示す屋号,石津屋・天王寺屋・誉田屋・伊勢屋・薩摩屋など地名を名乗る屋号と多くの「なや」が見える永正5年2月13日夜には「堺南荘千余間焼亡」したといわれ(実隆公記),いずれも堺南荘の繁栄を示すものと考えられる戦国期を通じて諸勢力の争奪の対象となり,しばしば軍勢が駐留していたが,商業活動は発展の一途をたどった永禄11年秋,織田信長は「堺南北へも二万貫矢銭」を課したため,住民は抗戦の構えを示したが(細川両家記/群書20),翌年には屈服してその支配下に入っている天正2年6月の「四体千字文」,天正18年の「節用集」は,それらの奥書から堺南荘石屋町の経師屋石部了冊が板木を作り,出版されたものであることがわかる(堺市史4)江戸期の堺町南組にあたる地域で,現在の堺市市街地中央部に比定される...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

堺北荘【さかいきたのしょう】
(中世)鎌倉期~戦国期に見える荘園名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

堺北荘(中世)
鎌倉期~戦国期に見える荘園名摂津国住吉郡のうち単に摂津国堺荘ともいわれ,境北荘とも書いた和泉国との境に位置し,永享8年7月8日の僧正興継注進状(醍醐寺文書5/大日古)に「摂津国住吉郡朴津郷堺北庄常楽寺」とあり,また文明8年4月5日の堺北荘公文山崎屋定森折紙(開口神社史料)に「摂津国境北庄朴津郷下村之内」と見えることから,朴津郷の一部下村といわれる地に成立した荘園とみられる初見は天福2年2月5日の念仏寺一切経蔵等建立注文(同前)で,「一,建保二年甲戌,国建立堂,摂津国内北庄ニ立」と見える正中2年3月日の最勝光院領荘園目録案(東寺百合文書ゆ)に,「一,堺庄,領家今林准后御分,本年貢油二石,綾被物二重内〈七月御八講一重,十二月御月忌一重〉,九月兵士七人,建長年中以後代銭一貫文外不弁済歟」と見えるこれによれば堺北荘が建春門院御願寺の最勝光院領で,領家は今林准后,建長年間からは代銭1貫文が納入されるだけであったことがわかるこの荘はこれより先,後白河上皇から後鳥羽天皇に譲られたが,承久の乱で一時幕府に没収され,のち後高倉院に寄進されて,安嘉門院を経て大覚寺統に伝領されたものである(府史)南北朝期に入ると,延元元年4月22日,後醍醐天皇は綸旨を下して,住吉神社神主に摂津国堺荘の知行を安堵し(堺市史1),年未詳後12月28日付の院宣にも「摂津国堺庄地頭并領家職事,社家当知行之上者更不可有子細」と見える(住吉神社文書/堺市史4)地頭職と領家職が住吉神社に付せられている応安6年5月9日,北朝後光厳上皇は東大寺八幡宮修理料所として「和泉国堺浦泊船目銭」を3か年寄進したが,これは実現しなかったためか,永和2年6月には同じ修理料所として「摂津国堺浦泊船目銭」が寄進されることになり,東大寺は大勧進を派遣してその徴収に当たらせようとした(東大寺文書/堺市史4)翌永和3年6月日付で,「堺浦北庄関務」と雑掌との間で船目銭徴収に関する5か条の契約が結ばれたそれは津料の3分の2を毎月怠りなく運上すること,雑掌得分となる津料3分の1のうちから京都での経費や公人・神人らの粮物および関所役人への支給物などを支出すること,寺に負担をかけないこと,津料の勘定は東大寺二月堂牛王宝印を使った起請文を捧げて行うことなどであったなおこの寄進にあたり,楠木正儀の代官橋本正仲は永和2年6月18日付で正儀の国宣を施行し,東大寺大勧進を堺浦に沙汰居えるよう渡辺宗徹に命じているこの宗徹に関しては,永徳元年9月26日付の中殿宛の宗徹書状があり(開口神社史料),宗徹は本所の命令で北荘内に公事を賦課したが,念仏寺は勅免を理由にこれを拒否したので,勅免を示す支証を提出するよう中殿に申し入れているこの書状の礼紙には追筆があり,宗徹を「堺北庄領家」と書いてあるまた永和3年12月12日,摂津国住吉郡守護楠木正儀は,大山崎神人の訴えをうけて,「摂津国堺庄住民助五郎・持宝・持円等」の荏胡麻売買を停止するよう命じたが,その橋本正仲施行状は渡辺宗徹宛に出され,12月21日付で宗徹の遵行状が出されている(離宮八幡宮文書/島本町史史料編)宗徹は守護代の被官で,かつ本所の代官として北荘の支配にあたっていたものとみられるなお応永23年11月25日の油屋助六畠地売券(開口神社史料)によれば,向井にある畠から本役として,北荘政所に大麦1斗3升・道まい米1升3合が納入されている「建内記」嘉吉3年6月1日条によれば,万里小路時房は同家知行の御厨子所率分(関所)を堺北荘に設置し,関銭徴収を細川持之後室阿茶女と細川持賢に半分ずつ請け負わせることにした(古記録)阿茶女の請文案によれば,惣銭の5分の1の半分を阿茶女から,また同額を万里小路から醵出して,守護被官の香西之長に警固銭として渡すことになっている同月9日条によれば,嘉吉3年5月21日付で警固役補任状が「当所領主」香西之長宛に出されているまた「政所方書」文明8年2月6日条によれば,遣明船正使に従って渡海した智言侍者は,もち帰った品物を北荘の材木屋彦四郎に預けておいたが,彦四郎が死去したので,自己の権利の保全を幕府に申請した幕府は兄両人と「北庄代官香西方」に対し問状奉書を発しており(室町幕府引付史料集成上),香西之長が北荘代官であったことがわかる室町期と推定される年未詳2月10日付の堺北荘材木屋三五郎南禅寺材木注文(南禅寺文書上)では,杉のまる柱12本を摂津国渡辺まで運送すると見えるが,北荘には材木屋が多く,材木の集積港であったことがわかる戦国期に入ると,北荘の備中屋彦三郎は,東寺領備中国新見荘から東寺へ為替で送られる年貢を現金化している(教王護国寺文書6)嘉吉元年4月15日念仏寺は寺領である「摂津国堺北庄内散在田畠等」の段銭と臨時課役を将軍から免除されている(開口神社史料)ついで文明8年2月27日には守護細川政元から免除されたそれをうけて同年4月5日に西山長正は「北庄公文」に対し催促を止めるよう命じているが,この公文は山崎屋定森で,同人は朴津郷下村公文とも見える(同前)なお「証如日記」天文8年12月6日条などに「堺北荘政所西山」が見え,西山長正に関係ある人物とみられる(石山日記)応仁・文明の乱には東・西両軍の取り合いの場となり,たとえば「雑事記」文明14年3月18日条には,「堺北庄ニハ香西方者共露顕有之,……京之畠山堺ニ令出陣者,堺事可払焼之由,河内之畠山申云々」と見え,香西氏が北荘を押さえていることがわかるまた同じく閏7月2日条には「和泉堺北庄政所畠山右衛門佐方代官一昨日罷退了,細川与儀無為珍重」とあり,一時畠山義就が北荘を勢力下におさめていたことがわかる同明応2年4月1日条によれば,足利義材・畠山政長らの軍勢が畠山基家を討つため河内に出陣したとき,大内氏の軍勢が堺北荘に陣取っているこれ以後も戦国期を通じて諸勢力が駐留した永正5年8月7日付で「堺北庄名主沙汰人中」宛に幕府の撰銭令が出されている(建武式目追加/大日料9-1)大永7年3月23日には可竹軒らによる禁制が南荘と北荘に出され,地下宿免許,喧嘩・押買の停止などによって,都市の秩序・維持がはかられている(古文書集/堺市史4)永禄12年には織田信長の支配下に入り,同年8月18日,佐久間信盛は「さかい北庄端郷中」宛に,「地頭詰夫并諸役以下」を難渋せず,直ちに勤めるよう命じている(今井宗久書札留/堺市史続編5)この堺北荘端郷は,近世初期の北本郷・北端郷に関連するものとみられ,江戸期の堺町北組にあたる地域で,現在の堺市市街地中央部に比定される...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

堺町(近世)
 江戸期~明治12年の町名...

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堺県【さかいけん】
(近代)明治元年~14年の県名...

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堺郷【さかいのごう】
(中世)鎌倉期~戦国期に見える郷名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

堺郷(中世)
鎌倉期~戦国期に見える郷名筑前国鞍手郡のうち永仁元年11月日の筑前粥田荘預所用米目録案の中に堺郷があり,108石5斗7升とあるように,高野山金剛三昧院領粥田荘内に含まれていた(金剛三昧院文書/鎌遺18416)南北朝期に入って,建武元年4月16日,彦房丸は「筑前国粥田庄堺郷鎮守祇園社大宮司職」を粥田荘惣政所から宛行われている(筑前須賀神社文書/南北朝遺30)次いで,建武4年の粥田荘麦作目録にも堺郷が見え,3斗8升8合8勺とされている(金剛三昧院文書/南北朝遺1110)さらに,貞和2年11月の粥田荘惣政所注進状にも堺郷が見えている(金剛三昧院文書/南北朝遺2272)室町期に入って,文明7年12月19日,室町幕府は大内政弘にあて,「筑前国粥田庄十三箇郷内堺郷事」に対する押領をとどめ,もとのように高野山の雑掌に渡付するよう命じている同日,室町幕府は少弐政資にも「筑前国粥田庄内十一箇郷」に対する押領をとどめ,もとのように雑掌に渡付するように命じており,粥田荘は次第に押領されていたことがわかる(金剛三昧院文書/博多史料2)ついで,文明11年正月日,粥田荘務頼順は「同(文明)十年十月ヨリ半分寺家知行無相違〈陶尾張守一筆在之〉半済分杉長菊丸知行,已前杉弾正忠知行之以例,今モ彼方拘ト云々,此内堺郷半分安富掃部助知行云々」と注進しており,粥田荘半済分が杉長菊丸知行となり,堺郷については半分が安富掃部助知行となったことがわかる(同前/大日料8‐11)戦国期に入って天文8年5月3日,大内義隆は「筑前国粥田之庄境郷,大興山永満寺双林院」の寺領9町7反について,宇佐宿禰奥村の押領をとどめ,永満寺双林院領として安堵している(双林院文書/鞍手郡誌)また,天文23年2月吉日の年紀をもつ福地神社の洪鐘銘に「日本国筑前国鞍手郡粥田庄堺郷福智権現御宝前」とある(直方市史)ところで,堺郷はまさに筑前・豊前両国の国境にあり,応永15年8月27日の沙弥某下知状に「豊前国田河郡堺郷」とあるように,郷域は両国にまたがって存在していた(金剛三昧院文書/高野山文書2)また,当地は「庄屋敷」(金剛三昧院代官駐在地)のあるところで,その境界の地としての性格から市場が存在しており,文明11年10月18日の粥田荘納所等連署算用状に「〈さかい〉市屋敷銭」「一,〈秋〉市屋敷銭 納分 一貫十六文,市分 堺郷」とある(同前)堺郷市場は,正応2年の粥田荘年貢送状に「市銭拾弐貫文」とあることからすでに鎌倉期からあったとみられる(同前)なお,天正15年2月26日,尾仲主膳兵衛尉は杉統連から,「境郷寺家分四拾町代官職」を預置かれている(山部村庄屋文書/鞍手郡誌)天正年間の小早川氏の「指出前之帳」では上境村・今村を含む下境村として1,378石余と見えるが,文禄4年12月1日の筑前鞍手宗像御牧三郡内知行方目録帳には,さかい村として1,378石6斗とある(小早川家文書1/大日古)江戸期には上境村と下境村に分かれ,現在の直方市上境・下境に比定される...

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堺町【さかいまち】
(近世~近代)江戸期~現在の町名...

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堺町(近世~近代)
江戸期~現在の町名はじめ1~4丁目,昭和40年からは1~2丁目となる江戸期は広島城下広瀬組に属す広島城の南西,本川西岸の塚本町から小屋川(天満川)に架かる小屋橋東詰に至る西国街道沿いの町筋町名の由来は当地町割の時,和泉国堺から来住した境屋にちなみ境屋町と称したことによる(知新集)元和5年の城下絵図では「堺町」と記す寛永2年の家数改では堺町1~2丁目・堺町3~4丁目の2町に分け,それぞれ本家59・借屋65,本家61・借屋6当町は可部街道が分岐する地で,また城下西端に位置する交通の要所であるため,馬継場(伝馬所)が置かれ馬40頭が用意された馬継場では伝馬肝煎役,その下に馬方・人足がいて伝馬御用のほか旅行者の人馬の継ぎ立て,貨物輸送にあたった(新修広島市史)天和3年の切絵図では3丁目・4丁目は別町としたが,文政年間頃には3丁目・西大工町を結び町とし,4丁目は独立した一町と扱われた(知新集)「知新集」では1~2丁目の町間数2町56間余,家数87・竈数116(本竈35・借竈81)・人数482,うち傘張3・縫針師2,本道医・外科医・大工・表具師・桶屋・更紗染師・紅絞染・釣灯師各1,四町目は町間数1町51間余,家数52・竈数47(本竈20・借竈27)・人数212うち本道医・大工各1芥河屋助右衛門は毛利氏広島開発の時,佐東郡古市村より来住,家地を給され目代役を勤め,酒造を営んだ医師星野良庵は元和年間石見国浜田から西地方町に来住,のち当町に移転(同前)その4代目良悦は船入村西一の割堤根を開拓,また寛政2年藩から刑屍をもって研究することを許され,わが国初の人体骨格模型を制作幕命により医学館に納められ身幹儀と命名された(新修広島市史)ほかに町内には穀物問屋の満足屋,質貸の和泉屋,酒造を営んだ芥河屋の分家2軒,浅野氏入国に従って紀伊国より来住した馬頭助兵衛が住んだ(知新集)明治11年広島区,同22年広島市の町名となる明治15年広瀬村の一部を編入明治前期,造酒屋・足袋製造商のほか鍋釜・下駄草履・砂糖など各種の卸商が集中し,同32年には一町目に小間物・袋物商を主とする堺町勧商場も開場されてにぎわいをみせた(明治16年の広島諸商仕入買物案内記,明治33年の広島繁昌記)大正元年広島電気(現広島電鉄)の市内電車相生橋~己斐【こい】間が開通,堺町電停が設置された昭和10年の堺町・塚本町の小売商を除く物品販売業74・補助業9・接客業4・その他20全市の物品販売業の4割強が集中している(新修広島市史)大正6年の戸数288・人口1,345,昭和26年の世帯数154・人口652同40年土橋町となり,塚本町・西新町・榎町・北榎町・小網町・西大工町の各一部を編入同55年中区の町名となる...

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堺筋【さかいすじ】
大阪市中心部を南北に通じる幹線道路の1つ...

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西暦2024年(平成36年)
529曜日
新着時事用語
リースバック(住宅)の注意点
┗リースバックとは、自宅不動産を事業者に売却して即資金化しつつ

自筆証書遺言書保管制度
┗自筆の遺言書を法務局で保管してくれる制度のこと。2018年に

アポ電詐欺・強盗
┗ 高齢者を狙った詐欺犯罪の手法。オレオレ詐欺の一種とされる場

高輪ゲートウェイ
┗JR東日本が2020年に新設する駅名。田町駅と品川駅の間、東

不用品回収
┗ 部屋の片付けや老前整理・生前整理・遺品整理等で、業者が家庭

所有者不明土地
┗ 永年相続登記(不動産の名義変更)が行われずに、登記簿上で所

遺言控除
┗ 有効な遺言書による相続となった場合、相続税の基礎控除額に上

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今日の記念日

『こんにゃくの日、エベレスト登頂記念日』

こんにゃくの種芋の植え付けが5月に行われることから「こん(5)にゃ(2)く(9)」の語呂合わせで全国こんにゃく協同組合連合会が1989(平成元)年に制定しました。こんにゃくは、主成分の食物繊維などがコレステロールの低下に役立つといわれています。

今日の暦

月齢:21

月齢:21
月名(旧歴日):二十日余りの月(はつかあまりのつき)

・2024年(年/竜)
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