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朔日町(近世~近代) 江戸期~現在の町名江戸期は八戸城下の1町で,町人地一日町とも書く城下の中央に位置し,東は十一日町,西は六日町に隣接する中央を裏通が走る裏町・下町のうち盛岡藩領下,既にあった町で,「雑書」寛文3年12月小2日の条に「八戸八日町新町しま去廿八日七つ時火事出来,屋敷数九軒,家数十五軒焼亡之由」とある表通の八日町に対し裏通に位置することから,八日町新町とも記される「八戸藩日記」宝永4年2月の条には新一日町ともみえる元禄6年3月市日が定められ,11日市となった(八戸藩勘定所日記)「八戸藩日記」によれば,延享2年4月当町の金助が城内での小間物商売を願い出ている宝暦6年2月には,前年来の凶作により町内の困窮者に稗が与えられた(八戸藩日記)火事は,同2年2月当町より出火し,46軒焼失,死者2人(同前)文政12年4月新荒町からの大火で18軒(八戸藩史料),元治元年12月には廿三日町からの大火で55軒を失った(同前)このため慶応元年3月,大塚横丁から当町までの裏通北側に用水堰が掘られた(八戸藩勘定所日記)寺院は南に浄土宗の紫雲山来迎寺がある盛岡大泉寺の末寺で小田村・新井田【にいだ】村を経て,寛永4年根城南部氏の遠野移封に伴い当町へ移ったとされる領内10か寺の1つで,寛保3年の「奥州南部糠部順礼次第全」では糠部【ぬかのぶ】三十三観音第10番札所とする明治初年の家数33,当町中ほどから岩泉町へ至る小路は中橋横丁,十一日町との十字路から南は横小路・寺小路と呼ばれた(国誌)明治初年~明治22年まで八戸を冠称する場合があった同22年八戸町,昭和4年からは八戸市に所属明治27年の「八戸栞草」は穀物商1・菓子商同製造1・畳刺職1・鍛冶職1・飾師1・仏師1・湯屋1・煎餅製造1を記載消防組織として一番組があった同24年2月,永洞清吉が東奥盲人教訓会(八戸盲・聾学校)を開設同43年には千葉くらが当町の八戸浸礼教会内に八戸女塾(現千葉学園高校)を設けた大正13年5月の大火では全町が被災昭和期の世帯数・人口は昭和5年70・473,同35年110・481 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
朔日市村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
朔日・月立ち【つい-たち】 ((「月立(つきた)ち」のイ音便))[1]月の初め... |
出典:東京書籍「全訳古語辞典」
朔日市【ついたち】 「ついたちいち」ともいう... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
朔日市(近代) 明治22年~現在の大字名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
朔日ごとに餅は食えぬ【ついたちごとにもちはくえぬ】 【解説】元日には餅が食えるが、正月以外の朔日が来るたびに食えるというものではないということで、いつもいつもいいことがあるとは限らないというたとえ... |
出典:あすとろ出版「故事ことわざの辞典」
朔望月【さくぼうげつ】 [種]:時間 月が新月(朔)から,満月(望)をすぎてふたたび朔にかえるまでの平均時間で,太陰暦の基本となる1月である.長い間にはわずかに変化するが,1900年初頭における値は29.530 588 2平均太陽日であった.→太陰月... |
出典:丸善「単位の辞典」
朔旦冬至【さくたん-とうじ】 陰暦十一月一日が冬至にあたること... |
出典:東京書籍「全訳古語辞典」
朔【さく】 【1】陰暦で月の第一日... |
出典:ベネッセコーポレーション「ベネッセ国語辞典 電子特別編集版」
朔日の榊をとりに春の山 作者:森田 公司(1926生) 季語:春の山(はるのやま) 季語説明:春、草木が萌え出て活気を感じさせる山のこと... |
出典:Ea,Inc.「JLogosHAIKU(俳句)」
朔日町 ⇒尾花沢【おばなざわ】【ついたちまち】 →尾花沢【おばなざわ】... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」