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「狭」の関連ワード⇒ 又のつとめて 又の年 又の朝 

狭【せ】

<形動>[ナリ]なら/なり・に/なり/なる/なれ/なれ
〔「…も狭に」の形で〕狭い状態で。狭いほどに。狭く感じられるほどに。いっぱいになるくらいに。
[例]「...

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[最終更新日:2007-12-11/JLogosid:5084324]
関連項目: 又のつとめて 又の年 又の朝 

全訳古語辞典

"古典の学習に必須の古語辞典決定版。教科書・入試で頻出の作品から用例を選出し、約23,000語を収録。
地名・人名から、和歌・俳句、歌舞伎・浄瑠璃なども幅広く採録。また用語解説のほか、百人一首や古典の主要作品解説も収録している。"

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狭間村【はさまむら】

(中世)鎌倉期~戦国期に見える村名

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

狭山荘(中世)
 鎌倉期に見える荘園名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

狭竹荘【さたけのしょう】
(古代~中世)平安期~戦国期に見える荘園名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

狭間村(中世)
鎌倉期~戦国期に見える村名豊後国大分郡阿南【あなみ】荘のうち松冨名の異称乾元2年5月の松冨名半分新田畠実検帳案に,「阿南庄松冨名〈号狭間村〉」と見えるのが初見(大友文書/県史料26)狭間家略履歴によると,大友2代親秀の四男で,狭間家の祖となった大炊四郎直重が,文永の役の恩賞として,阿南荘狭間邑を賜わったというその範囲は近世の向の原・上市・下市・鶴田・海老毛・古原・来鉢・中畑・平床・赤野・北方・東行【とうきよう】・柏野・鬼ケ瀬・池ノ上など16村とする(狭間文書/県史料26)この範囲は現挾間町のうち大分川左岸にあり,旧挾間村・由布川村・石城川村にまたがるしかし松冨名の範囲は現庄内町(旧南庄内村・東庄内村),挾間町内大分川右岸部(旧谷村)および大分市の一部にまでまたがっている中分が行われた原因は不明だが,北方は大友惣領家が,南方は狭間氏が支配することになった正和5年7月のけうきん請文によると,北方地頭用作内小田を,けうきんに請負わせ,正中3年には北方畠つか本を直経に預け,さらに建武3年10月には,北方鶴田若宮の神畠つかもと半分を,りきせうに預けている(大友文書/県史料26)南方地頭職は,建武元年3月16日後醍醐天皇が狭間政直に安堵している(佐藤文書/大友史料5)北方については,貞治3年2月の大友氏時,永徳3年7月の親世所領注進状に,「同国狭間村半分」「同国狭間村半分北方」と見える(大友文書/県史料26)また,南北朝期の狭間は,官道が通っていたこと,高崎山に大友本城が構築されていたことなどから,南朝勢の侵入を受ける正平10年12月には,日田―玖珠―由布―狭間―国府―大神を経て博多に抜けているし,延文3年12月には狭間を攻め,高崎山西麓の赤松(別府市)で,大友勢と対峙している(木屋文書・志賀文書/大友史料7)由原宮(賀来社・現柞原社)領でもある狭間村は,享徳元年12月の疋田利秀八講用途送状に,南方は八講用途料所とあり,用途500文が南方役とある同2年8月の世利惟重等連署御供米送状には,大神宝式年御供米2石5斗が北方役と見えるまた,永智書状によれば,「八月放生会御供米,正月御供米,正月八講施物」等は,狭間南北役となっているなお,永禄4年の神宝目録には,87品目の大神宝を,先例に任せ,松冨名南北に調進せしめている(柞原文書/県史料9)長禄2年正月,大友親繁は,狭間南方の内100貫文を平井親真に預けているが(大友家文書録/大友史料11),この時点では既に南方の支配は狭間氏の手を離れ,大友氏の管轄下に入っていると考えられる康正3年正月,高崎親治は,狭間北方内竜原角屋敷土貢6貫30分の在所を小野三郎に宛行っているし,明応4年6月には,指原弘実等連署施行状により,北方竜原のうち奥5貫分が小野平三郎に宛行われている高崎氏の知行宛行は,所領の再配分であろうまた一万田鑑実も狭間村のうち2貫500分を小野新七郎に預けている(小野文書/県史料9)永正年中大友親安は,北方の内を平井和泉守に安堵し(大友家文書録/大友史料14),大永3年10月には狭間亀若に伯父三郎跡狭間村内18貫分を安堵している(狭間文書/県史料26)終見は天正8年4月3日の大友円斎(宗麟)書状で,田北紹鉄謀叛に関する史料であるそれによると熊牟礼山(庄内町)にたてこもった紹鉄等南郡衆が,4月1日狭間村を打立ったと見える(田原文書/県史料10)...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

狭竹荘(古代~中世)
平安期~戦国期に見える荘園名城下郡西郷のうち佐竹とも書く①狭竹荘興福寺雑役免(進官免)荘園延久2年の雑役免帳に「狭竹庄十二町二段三百歩」とある公田畠11町9段120歩と不輸租田3段180歩からなり,不輸租田はすべて岡本寺田荘田は城下郡西郷11条3・4里と14条4里・15条4里を中心に12条4里・13条4里,15条1・3里,16条3里にわたる計47か坪に分布したこの坪付はほぼ現在の川西町結崎・梅戸付近および田原本町富本【とんもと】付近にあたる②狭竹荘大乗院門跡(竜花樹院)領貞和3年2月日付興福寺段銭段米帳(春日大社文書4)に,城下郡の大乗院方荘園として「佐竹庄 十二町九段大」とあり,応永6年正月18日付興福寺段銭段米帳(同前)にも同様の記載がある「三箇院家抄」巻1・2には「狭竹庄」とあり,田積18町2段180歩で,御米(年貢米)のかかる名田8町1段と間田・給田10町1段180歩からなる名田は源三郎名ほか,2町7段の均等な3名に分かれる(寺社雑事記長禄4年5月16日条)年貢は公方と給主方に大別され,大乗院門跡は公方御米11石1斗,給主は給主方御米8石8斗・給主方公事米(佃御米)10石を収取した(同前寛正2年11月24日条)また門跡への公事として,8月竜花樹院恒例念仏日供・京上人夫役・維摩会威儀供・5月7日風呂役・5月5日粽・毎月26日供御所御菜用途・毎月院仕御菜米・年中薪用途・炭・御馬飼料・竜花樹院御所奉行米・御後見前節米などがある年貢・公事のうち給主方御米・佃御米は御洗料所に充てられ,公方御米は門跡坊官継舜,馬飼料は上北面賢秀に恩給されている間田・給田の内訳は狭竹荘間田8段・下司田1町180歩・承仕田3段・定使田3段・左馬料田1段・職事給3段・食堂瑜伽論田2町・竜花院新田1町・小林給2町7段・院仕給3段・佃3段・本談義春季方4段・畠1所などで,法会の料所となったほか上下北面・院仕・力者などに給与されたこのほか,本談義秋季方4段と浮田1町が付属した小林給は地侍櫟本小林氏の給分このほか寺門・門跡から恒例臨時の段銭・段米・用銭・用米を賦課された享徳2年の大乗院御領段銭引付(内閣大乗院文書)に「狭竹庄〈十二丁九反大 一貫百七十文定〉」,永享元年の公方御下向段銭方引付(同前)にも「佐竹 十二丁九反大 二貫八百十六文」と見える門跡からは,収納期になると納所僧が毛見使者として当荘に赴いて損免を定めた(寺社雑事記文明3年10月4日・5年10月7日・14年10月19日条など)応仁・文明の乱以降南大和において国民越智氏が優勢になると,越智氏が門跡領荘園にも私段銭を課すようになった当荘にも文明10・12年と越智氏の段銭が賦課されている(同前文明10年9月4日・12年9月27日・10月2日条など)東山中の小山戸荘(現都祁【つげ】村小山戸)の地侍小山戸氏は,この頃越智方によって在所から没落していたが,文明14年から翌15年にかけて当荘名主らに与同して年貢米の運上を止め,荘を押領している(同前文明14年11月11日・23日・15年8月21日・9月26日条)なお天正8年織田信長の検地に指出した大乗院家御知行分帳(広大大乗院文書)には筒井郷・箸尾郷として「狭竹庄御名田」とあり,田積5町1段余・分米8石8斗余が記されている現在の川西町結崎付近に比定される(寺社雑事記康正3年5月12日条など)...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

狭山荘(中世)
 南北朝期~戦国期に見える荘園名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

狭野神社【さのじんじゃ】
西諸県(にしもろかた)郡高原(たかはる)町蒲牟田にある神社...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

狭山郷(古代)
 奈良期~平安期に見える郷名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

狭山藩【さやまはん】
(近世)江戸期の藩名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

狭山藩(近世)
江戸期の藩名譜代小藩天正18年の小田原の役で敗れたのち北条5代氏直とその弟伊豆韮山【にらやま】城主氏規は,氏直が徳川家康の女婿であったことから死を赦され高野山追放となったが,同19年,氏規が豊臣秀吉から河内国丹南郡檗【きはだ】村2,000石を与えられ,文禄3年には丹南・錦部【にしごり】・河内の3郡内で6,900石余が与えられた氏規の子氏盛は,北条氏直の養子となって宗家を継ぎ,文禄元年下野国内で4,000石を与えられ,慶長5年氏規の遺領河内6,900石余も含めて,1万1,000石を安堵されて立藩氏盛以後,北条氏は12代,260余年にわたって在封した2代氏信は,元和2年狭山池の東北の池尻村(大阪狭山市)に陣屋を設置陣屋は狭山池畔にあり,狭山池から流出する東除【ひがしよけ】川を間に上屋敷・下屋敷に分かれていた上屋敷は本丸にあたるもので3代氏宗のときに,下屋敷は5代氏朝のときに,建設された陣屋ではあるが,その様相は本格的な城郭の縄張となんら遜色がなく,羽曳野【はびきの】と岩室の細い丘陵と狭山池の水を利用した天然の要衝であった5代氏朝のとき,下野国内の4,000石の地が近江国4郡内と領地替えとなった宝暦8年には河内領分でも領地替えがあり,丹南郡の多治井【たじい】・野中・宮の3か村が上地され,丹北郡の東我堂・西我堂・矢田部・南枯木・北枯木・芝の6か村と大県【おおがた】郡の大県・平野・神宮寺の3か村が与えられたその結果河内国丹南郡5か村・錦部郡13か村・古市郡2か村・丹北郡6か村・大県郡3か村・河内郡2か村の計6郡31か村にわたって領地が分散し「碁石を打交候様」といわれた文化年間頃から藩財政が悪化し,安政5年には高野豆腐を藩専売品として財政建て直しをはかったが,それも4~5年で中止となり,明治初年には藩債が約1,000万両にも達した嘉永年間に簡修館を創立し,和学・漢学・習字を講じた江戸城中では柳間詰で,外桜田に上屋敷を,麻布【あざぶ】・三軒屋に下屋敷をもっていた江戸城での時献上は,暑中が瓜,10月が白炭,寒中が鴨北条氏の菩提寺は江戸渋谷の大徳寺派祥雲寺明治2年の版籍奉還で知藩事に任命された12代氏恭は,藩財政建て直しに自信が持てず,自ら辞任し,当藩は廃藩置県を待たずに堺県に併合された...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

狭山池【さやまいけ】
東の羽曳野(はびきの)丘陵と西の和泉丘陵との間に囲まれ,大阪狭山(おおさかさやま)市池尻・半田・岩室にまたがる池...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

西暦2024年(平成36年)
68曜日
新着時事用語
リースバック(住宅)の注意点
┗リースバックとは、自宅不動産を事業者に売却して即資金化しつつ

自筆証書遺言書保管制度
┗自筆の遺言書を法務局で保管してくれる制度のこと。2018年に

アポ電詐欺・強盗
┗ 高齢者を狙った詐欺犯罪の手法。オレオレ詐欺の一種とされる場

高輪ゲートウェイ
┗JR東日本が2020年に新設する駅名。田町駅と品川駅の間、東

不用品回収
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所有者不明土地
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今日の記念日

『バイキングの日、学校の安全確保・安全管理の日』

バイキングは北欧出身の海賊の総称です。793(延歴12)年のこの日、バイキングの活動が初めて記録に現われました。剣や斧で武装した彼らがイギリスのリンディスファーン修道院を襲撃し、人々を驚かしたといいます。

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