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![]() | 雑司村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 雑太郡 「延喜式」民部省に見える佐渡国3郡の1つ... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 雑誌【ざっし】 magazine[C];(専門誌)journal[C];(定期刊行物)periodical[C] *主婦向けの雑誌 a magazine for housewives / 10代をターゲットにした雑誌を発行する publish a magazine aimed at teenagers *わが家はを毎月3種類雑誌をとって[購読して]いる We take [subscribe to] three magazines every month. *この雑誌は毎月10日に発行される This magazine 「is published [is issued, comes out] on the 10th of every month. *その雑誌の8月号におもしろい記事が出ていた I found an interesting article in the August issue of that magazine. [複合語]雑誌記事 a magazine article / 雑誌記者 a magazine reporter / 科学雑誌 a science journal / ファッション雑誌 a fashion magazine / 文学雑誌 a literary magazine / 漫画雑誌 a comic magazine [book] [関連語] *週刊誌 a weekly (magazine) / 月刊誌 a monthly (magazine) / 季刊誌 a quarterly (magazine) / 隔月刊誌 a bimonthly (magazine) / 増刊号 a special [an extra] issue... |
出典:東京書籍「アドバンスドフェイバリット和英辞典」
![]() | 雑賀屋町【さいかやまち】 (近世~近代)江戸期~現在の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 雑賀屋町(近世~近代) 江戸期~現在の町名明治2~5年は湊を冠称江戸期は和歌山城下湊のうちの町人町で,明治12年和歌山区,同22年からは和歌山市の町名となる和歌山城の西部,西外堀(西の丸川)西岸の昌平河岸【しようへいがし】から南へ延びる道路沿いに位置する北部は西汀【にしみぎわ】丁,東部は雑賀屋町東ノ丁,南部は上野町1~2丁目,西部は有田屋【ありだや】町・東坂ノ上丁に接する貞享3年町奉行支配下に編入された新地町名の由来について「続風土記」に「雑賀屋某免許地あり,名つく」と見える板問屋・廻船問屋などを手広く営んだ豪商の雑賀屋(安田)長兵衛は,正保年間,小豆島【あずしま】に雑賀屋新田を開いており,その功によって拝領地を得たと考えられる(長田家文書)幕末の安田長穂・御年父子は歌道をよくしたが,明治初年没落した「元禄城下町図」「寛政城下町図」では西部に「雑賀屋長兵衛かしや」,東部は武家屋敷が描かれるまた「寛政城下町図」には東部の武家屋敷内に「小細工長ヤ」「御薬込長や」が見え,「安政城下町図」には後者の地に医学館が描かれる医学館は寛政3年本町3丁目へ創設され,のちに当町へ移転した医学館でたびたび施薬をしている(町大年寄御用留/竹内家文書)新地として新町年貢を納入し,町入用は間打の橋御普請入用と棟役の惣代給のみを負担した明治6年には戸数107,男152・女195大正2年51戸・241人昭和20年7月空襲により全町焼失,第2次大戦後,復興土地区画整理事業を実施同24年米国防諜部和歌山県本部が設置されたが,同29年閉鎖したのち和歌山共済会館・県薬剤師会館・県酒造組合連合会・めぐみ幼稚園などが建設された... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 雑賀町【さいかまち】 (近世~近代)江戸期~現在の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 雑賀町【さいかまち】 (近世~近代)江戸期~現在の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 雑炊橋【ぞうすいばし】 犀川上流(梓川)の渓谷部に架かる橋... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 雑賀町(近世~近代) 江戸期~現在の町名明治19~22年3月は松江雑賀町江戸期は出雲国意宇【いう】郡のうち松江城下の町名の1つ旧松江城下の最南端北は竪町,南は床几山を境に乃木村に接し,床几山は堀尾吉晴・忠氏父子が城地決定の検分をしたところ慶長12年,松江城竣工に先だち藩主堀尾吉晴が当地域を足軽組鉄砲衆の居住地と定め,紀伊の雑賀党に因んで町名を雑賀町としたはじめは鉄砲町ともいわれたが,松平氏の時,足軽を居住させたことから足軽屋敷ともいった当町は北端の津田街道と西端の本町通りを基点として南北・東西各7条ずつ碁盤目状に町割がされ,床几山麓の7丁目は大山根町ともいった1町に約10軒ずつ向かいあい計20軒置くことを通例とした西南隅にある洞光寺近辺の雑賀本町・雑賀横浜町と呼ばれる地には役人格が居住,地行場【じぎようば】では内職のあっせんをした東南丘陵上には寛文5年松平直政が西津田村から遷座した式内社売豆紀【めつき】神社があり,付近を売豆紀丁といった嘉永5年横浜町から出火した大火により町屋657戸・士家700戸・寺院5を焼失明治4年島根県に所属同9年の世帯913(うち士族715)・人口3,902物産はろうそく・醤油・干うどん・籐編煙管筒・素焼風炉など(皇国地誌)煙管筒は大阪へ移出明治22年からは松江市の町名同年意宇郡松江分字三月下・田中・三月西・稲荷廻を編入同年の戸数755・人口3,738,大正12年の戸数1,372・人口5,219,昭和13年の戸数1,491・人口6,034昭和7年床几山に松江放送局開局昭和30年の世帯1,679・人口6,896,同40年の世帯1,864・人口6,468... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 雑賀町(近世~近代) 江戸期~現在の町名江戸期は和歌山城下内町のうちの町人町で,明治12年和歌山区,同22年からは和歌山市の町名となる和歌山城の北東部に位置し,江戸期は米屋町東側と中ノ店南ノ丁南部の堀川に沿う片側町であった「続風土記」は町名について「天正の比雑賀孫市此地に住す故に名つくという」と記すが確証はない東部,和歌川と堀川の合流点に菊之間詰水野丹後守(6,000石)の屋敷があったこの屋敷の西部に接して町会所が置かれていた町会所は久保町2丁目に置かれた湊会所とともに,大年寄役所として城下町和歌山の町方自治役所の役割を果たした町会所には町大年寄が月番で勤務し,町惣代・物書を指揮して町奉行所との連絡,各町の丁年寄を通じて町政に当たったまた和歌祭の道具も保管したという水野丹後守屋敷南側から三木町堀詰に表橋とも称された堀詰橋が,同屋敷北側から新雑賀町には裏橋とも称された新雑賀橋がそれぞれ架けられており,両橋とも町方支配であった明治5年以後旧水野屋敷地を町域に編入同18年には東部和歌川沿いを埋め立てた明治6年には戸数25,男41・女51大正2年49戸・282人なお明治期に入り旧水野屋敷の3階隅櫓は九橋楼と呼ばれる料理店となった明治13年には十一番丁との間に住吉橋を架設同43年寄席エビス座開館同座は大正2年松竹会館,その後松竹座と改称した明治18年の埋立地一帯は築地とも,また堀詰橋北詰から東へ,さらに北へと曲がって雑賀橋西詰に至る道路沿いを浜通りとも俗称され,繁華街となっていった昭和20年7月の空襲では全町焼失の被害をうけた... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 雑太郷(中世) 南北朝期~室町期に見える郷名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」