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![]() | 八代荘(中世) 鎌倉期~戦国期に見える荘園名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 八重山諸島【やえやましょとう】 先島(さきしま)諸島の西部に位置する諸島... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 八坂下荘【やさかしものしょう】 (中世)鎌倉期~戦国期に見える荘園名... |
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![]() | 八坂下荘(中世) 鎌倉期~戦国期に見える荘園名下荘を略して八坂荘ということもある八坂川の下流域一帯を中心とするが,中流域の山香町境の大片平が下荘に属しているので(正和3年4月日八坂下荘大片平弁済使浄恵陳状・宇都宮文書/大友史料4),西の山香町境の山中にも及んでいたようである承久2年12月の検校祐清(?)譲状に,「一,壇殿女房 八坂下庄〈弥勒寺領〉」とあるのが初見(石清水文書/鎌遺2697)宇佐弥勒寺領であるただし文治2年4月13日の後白河院庁下文案に「八坂庄」が宇佐弥勒寺領と見えるが,八坂荘という総称で(益永家記録/鎌遺85),建久8年の「豊後国図田帳」によると,「一,速見郡田代九百七十五丁余,八坂郷二百余丁 弥勒寺領 預所・地頭」とあり,荘を称していないが郷全体が弥勒寺領化している(到津文書/県史料1)あるいは当時から八坂下荘・同上荘・同本荘・同新荘が分立しているのかも知れない文永6年領家は当荘専当職に僧長幸を補任し(諸家文書纂所収野上文書/大友史料2),弘安4年には公文職長俊の補任を叙用しない忠継を退け,長俊の知行を命じている(生地文書/大友史料3)この領家は石清水検校の譲与した壇殿女房の跡と思われ,名田などを押領した忠継は,次述の八坂弥次郎忠継であろう当荘には預所が任命され,別に田所職(生地文書/大友史料3),弁済使(宇都宮文書/同4)等の荘官がいた「弘安図田帳」では,「八坂荘二百町 宇佐弥勒寺領」とあり,面積は前と同じうち下荘は100町で,「領家八幡検校法印女子」と明記されている本荘は55町で御家人八坂惟継跡盛氏・惟行・能継に配分,若富名50町2反(5町2反の誤り)は大友頼泰,新荘40町は八坂親盛跡忠継・惟継嫡孫が相続とある八坂荘の半分が下荘に属したことがわかり,地頭の記述のないのが注意をひく弘安10年12月18日幕府が肥前国御家人松浦石志四郎壱に,筑前国益丸替所として当荘木村(付か)内の得一・鴨河・木苔・糺四郎四箇名地頭職を与えたのは,蒙古合戦の恩賞としてであろう(石志文書/平戸松浦家資料)荘内には上記以外に,薬師丸名や中村内友貞名・同薬丸名(薬師丸名と一応区別する)・同延道名・同守末名および貞末名・歳田村・大片平村などの名や村があった守護大友頼泰が地頭職を帯する若富名は,貞治3年2月の氏時所領注進状案では「八坂下庄若富名」とするが,永徳3年7月の同親世所領注進状案では「八坂本庄若富名」と見える八坂本荘は同上荘に当たるらしいこと,「弘安図田帳」に若富名が本荘の次に記されている事実等からすれば,これは本荘(上荘)のうちと推定され,前者の誤りとすべきであろう大片平の地頭は多伊良左衛門である八坂上荘(本荘)のうちと思われる大片平が下荘に属するのは,次述のごとく下荘地頭であったと思われる木付氏の名代であった信房四郎(宇都宮氏)が開拓し,居住したからであろう(宇都宮文書/大友史料4)その他の名については未詳であるが,多くは木付親重が地頭職を帯していたのではなかろうか親重は建長2年豊後国速見郡武者所として木付鴨河【かもがわ】に住し,木付と称したというのは(秋吉系図/県史料10),なお確証に欠けるが,同氏が当地に住して木付氏となったことは疑いない建武元年6月16日雑訴決断所は木付貞重(親重孫)に,木付荘本方惣領分・八坂荘惣領分3分の2・歳田荘の内3分の2などの地頭職を安堵しているが(真玉系譜・豊城世譜/大友史料5),これも荘名の呼称および文書の文言等に疑義がある建武以後一時田原正曇(直貞)に地頭職が与えられていたもののごとく,暦応4年8月28日足利尊氏は八坂下荘の替りとして,正曇に肥前山田荘地頭職を与えている(大友家文書録/同前6)当荘で注目すべきは,地下の名主職の史料の多いことである秋吉名・薬丸名・延道名・守末名などの名主職は深見秋吉氏が相伝した同氏の祖は宇佐大宮司家の遠祖とされる佐知翁に出で,24代の孫維広三男盛広は宇佐郡深見荘を領して深見秋吉と称したその子盛泰・孫維継と相伝し,維継の時八坂下荘を得てはじめて八坂秋吉と称した当荘に移住したのは子盛氏で,孫忠義(秋吉忠氏)を養育して名主職とし,のち隠居して戸次と称し,隠居料薬丸名を三子能房に譲った秋吉忠義が秋吉氏の惣領家,能房が薬丸美濃守と称し,庶家となる忠義(改忠氏)は祖父から秋吉名以下の名主職を譲与されたが,建武2年放蕩をし,祖父盛氏(改盛幸,入道浄願)から所領を没収され,半分を譲られた(秋吉文書/県史料10)領家は建武2年4月15日浄願・忠義(忠氏)に秋吉名名主職を宛てたが,年貢以下を未進して改替され,彦十郎盛基に宛てられたが,種々歎願して康永元年還補されている(秋吉文書/大友史料6)忠氏(忠義)の知行分は秋吉名・薬丸名・延道名・守末半名の半分で,半分は薬丸氏が知行したようである忠氏は子なく,木付頼直(入道広輔)の四男親直を養子とし,直俊と改めさせて所領を譲与薬丸能房は子親宣に譲ったが子がなく,木付頼直の女安岐を養い,忠氏の弟貞泰の子能泰にめあわせて所領を譲与こうして木付氏の援助をかり,血の混入をみることになる秋吉・薬丸氏は,その名主職をこのような方式によって相伝するが,結局名主の両氏は地頭木付氏の被官化の道をたどるらしい木付氏はここを本領として在地領主制を確立し,戦国大名大友氏の家臣として成長するようであるが,その過程は史料欠如によって未詳文禄2年大友吉統の国除により,木付統直は朝鮮の陣から帰国の途中門司浦で入水し,その父鎮直夫妻も自刃して大友氏に殉じ,同氏は断絶した(豊城世譜)天正16年11月20日の杵築若宮八幡社棟札銘に「謹奉再造八坂下庄若宮殿脇座若将宮一社之事」とあるのが終見(大友史料28)元禄5年5月22日の吉田家神道裁許状にも,なお「木付八坂下荘若宮八幡宮」と見える(生地文書/県史料10)当荘で注目すべきは,条里制の史料があり,秋吉名中に石屋里・田渡里・田嶋里・金浜里・中間里・八代里のごとき里名が見え,1・2・3・4・5・7・9・10・12・15・23などの坪が存在する事実である杵築市街地の北部,高山川の下流域右岸の低地に当たるらしい現在の杵築市大字宮司には字四ノ坪があり,なお八ノ坪も残存しているただ前記のごとき6つに及ぶ里がこの低地に区画され得たか否かは疑問で,上記の里がすべて条里の里であるかどうかは未詳(八坂下荘秋吉名竹中殿押領分坪付注文)当荘中村には末守八幡があり(豊後国志),また木付親直が嘉暦年中に建てたという若宮八幡が大字宮司に鎮座する(若宮八幡棟札銘/大友史料12)ここに祀られた倭漢将軍祠は木付初代親重の宅址に,その霊を奉祭したものともいう(豊後国志)その他親重草創の安住寺(臨済宗南禅寺派)には,4代頼直が文和2年に鋳造した梵鐘がある(県文化財)また鴨川の迎称寺も初代親重が草創し,豊後府中の称名寺の行阿上人を招いて一遍の時宗の法燈をつがせたもの今日の東福山迎持寺(浄土宗鎮西派)はこの後身(杵築市史)生地(大字南杵築)の朝日寺は,天暦年中空也上人の遊化の地に寺を建てたとするが草創未詳(豊後国志)ただし観応2年以前から存在した古寺である(生地文書/大友史料7)近世は大部分は杵築藩の城下として主要な村々を形成するが,中村・末守村・野田村などは幕府領となった(豊後国郷帳)... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 八戸藩【はちのへはん】 (近世)江戸期の藩名... |
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![]() | 八戸藩【はちのへはん】 (近世)江戸期の藩名... |
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![]() | 八戸藩(近世) 江戸期の藩名陸奥国三戸郡八戸に居を構え,八戸を中心として陸奥国北部を領有した外様小藩寛文4年9月盛岡藩3代藩主南部重直が嗣子決定をみないうちに死去したため,同年12月幕府は遺領10万石をいったん収公し,あらためて弟重信に盛岡8万石,弟直房に八戸2万石を与えたこれによって南部直房を藩祖として八戸藩が成立した直房は盛岡藩から2万石を分与されたのではなく,幕府から新たに領地を与えられた形となったのであるから,厳密にいえば盛岡藩の支藩ではない以後八戸を居城とし(ただし,八戸藩主は代々無城主=陣屋持で,天保9年信真の時から城主格となった),直房のあと直政(側用人)―通信(盛岡藩主重信四男)―広信―信興―信政―信房―信真(信房弟)―信順(鹿児島藩主島津重豪八男)と9代にわたって在封し,明治維新を迎えることになる所領は実際には寛文5年2月15日に確定し,領知目録によれば,三戸郡内1万585石余,41か村(八戸・虎渡・剣吉・名久井・中野・森越・福田・斗賀・苫辺地【とまべち】・杉沢・法師岡・島森・田代・晴山沢・平内・白金沢・鳥谷部・是川・松館・十日市・角柄折・妙・新田・浜町・道仏・中居林・石堂・小中野・類家【るいけ】・櫛引・根城・田面木・売市【うるいち】・川原木・長苗代・尻内・矢沢・根市・大仏・花崎・小泉),九戸郡内6,225石余・38か村(江刈・葛巻【くずまき】・戸田・新屋・山根【さんね】・小倉・伊保内【いほない】・長興寺・江刺家【えさしか】・山屋・上館・狄塚【えづか】・山内【さんない】・沢里・円子【まるこ】・軽米【かるまい】・晴山・高家【こうげ】・蛇口・戸呂町【へろまち】・帯島・夏井・閉伊口【へいのくち】・鳥屋【とや】・大野・大崎・門前・小久慈・南山形・荷軽部・川井・繋・長内【おさない】・長久寺・有家【うけ】・中野・種市・大川目),紫波(志和)郡内3,190石余・4か村(片寄・稲藤・大館・平沢)の合計3郡83か村・2万石「貞享高辻帳」では三戸郡41か村・1万428石余(田6,125石余・畑4,003石余),九戸郡38か村・6,806石余(田2,802石余・畑4,004石余),紫波郡4か村・2,764石余(田2,505石余,畑258石余)の計83か村・2万石(田1万1,434石余・畑8,565石余)「元禄10年高帳」では84か村(ほかに領内村として70か村を記す),4万2,599石余(田2万4,509石余・畑1万8,089石余)なお,三戸郡は現青森県,九戸郡・紫波郡は現岩手県に属す領内惣検地は延宝3年6月に実施され,享保2年正月に幕府に対して領内改新田高5,030石余と上申しているこの検地による内高は,九戸郡が軽米代官所7,000石・久慈代官所5,000石,三戸郡が長苗代【ながなわしろ】代官所7,500石・浜通代官所7,600石,紫波郡紫波代官所5,000石の計3万6,200石といわれる(八戸市史)当藩の成立に際して,藩士は盛岡藩から津村喬光をはじめとする21名が配当され,また両藩協議のうえ新規採用したのは小田島久兵衛など31人で,当初は合計52人であったという(八戸藩史料)2代直政の代には,家臣団は500石以上2名,400~300石6名,250~100石30名,100石以下213名など合計291名(岩手県史5)寛保3年の軍役人数は,一ノ先一ノ手292人,二ノ先二ノ手257人,駐隊133人,御旗本606人,総御後締り駐隊142人など合計1,484人,惣小屋数87とある(八戸藩史料)寛文5年3月八戸三日町に初めて制札場を設置し,八戸城下の整備と領内支配に着手した領内支配にあたっては,八戸城下に町奉行,農村では三戸郡名久井通・長苗代通・八戸廻(浜通),九戸郡軽米通・久慈通,紫波郡紫波通の各通を設けてそれぞれに代官所を置いたただし,代官所は江戸中期までに大部分が廃止され,城内で代官が執務するようになるまた,八戸城下に町役人として町検断を置き,村々には肝入を任命して地方支配にあたったが,元禄7年10月町検断は庄屋,肝入は名主と名称変更が行われた(同前)土地制度上の特徴としては,田1反は300坪(歩)であるが,畑一反は900坪(歩)であることが注目されるまた,一般には畑の場合は反の表示は使わずに役という場合が多く,畑3畝を1ツ役といい,1畝は17間×16間で積算した(八戸市)天災は,記録上確認できる延宝2年3月の八戸大地震,同3年の旱魃をはじめとして数年ごとに襲われ,これらは藩財政の悪化に拍車をかけていったこれに対して藩は,元禄9年には米の津留を施行し,同14年の不作に際しては家臣に100石につき10両の貸上げを命じ,また同15年正月には大規模な知行換を実施した(八幡藩史料)宝暦7年には家禄改が行われ,家老300石,御用人150石2人扶持御役人100石などとなっている(同前)藩財政の状況を延享4年の「八戸領高米金合払」によってみれば,所領は紫波通6,782石余・八戸廻(浜通)9,070石余・名久井通5,642石余・久慈通4,295石余・軽米通6,718石余・長苗代通7,812石余の計4万321石余(本田3万8,140石余・新田2,180石余)で,この内訳は給所高1万2,808石余・蔵入高2万67石余・蔵入高および江戸御台所米並御日用金高6,621石余・野馬飼料並所々伝馬一里番其他免高823石余となっており,蔵入分の収入は年貢米6,601駄(片馬),同砂(金)22貫余があったが,支出は慈照院仕切米並総家中足軽常番職人切米扶持米3,965駄(片馬),納戸金1,760両で,残分は金17両余とある(八幡藩史料)藩領の人数は,元禄8年に家中諸士家族1,172・足軽家族617・代官所支配百姓3万496・家中および寺社奉公人(給地百姓)2万1,515・町家2,886・寺社人1,539・座頭282の計5万8,507(同前)寛延2年には,家中2,833(うち家中手廻1,676・家中召使445・足軽鉄炮712),寺社人など2,001(うち出家158・山伏1,120・社人49・座頭310・諸役人手廻364),百姓6万2,384(うち蔵入地百姓3万7,682・家中拝知百姓2万4,315・諸寺院召使門前百姓387),町人4,075,会所番人鐘付59の合計7万1,352(八戸市史)維新変革に際して,当藩は東北諸藩とともに奥羽列藩同盟に加わったが,あまり積極的ではなかった明治元年9月奥羽列藩同盟は官軍に敗北したしかし,宗家の盛岡藩が領地没収の処分をうけたのとは対照的に,当藩の存続は許されることになったこれは,藩主信順が鹿児島藩主島津重豪の八男であったことにもよるのであろう明治初年の「藩制一覧」による当藩の概況は,表高2万石,草高(内高)4万74石,甲子(元治元年)から戊辰(明治元年)まで5年間の平均収納は元租が米6,031石余・銭9万1,642貫余,雑税が金1万2,660両余・銭3万3,261貫余,村数83,戸数1万3,386・人口6万7,647(男3万5,352・女3万2,295),うち士族の戸数370・人口2,926,卒族の戸数200・人口1,041,神社は130社,寺院53か寺,また兵隊一大隊462人・大砲隊85人を編制していた明治4年7月14日廃藩置県により八戸県となる... |
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![]() | 八戸藩(近世) 江戸期の藩名陸奥国三戸郡八戸(現青森県八戸市)に居を構え,八戸を中心として陸奥国北部を領有した外様小藩寛文4年9月盛岡藩3代藩主南部重直が嗣子決定をみないうちに死去したため,同年12月幕府は遺領10万石をいったん収公し,あらためて弟重信に盛岡8万石,弟直房に八戸2万石を与えたこれによって南部直房を藩祖として八戸藩が成立した直房は盛岡藩から2万石を分与されたのではなく,幕府から新たに領知を与えられた形となったのであるから,厳密にいえば盛岡藩の支藩ではない以後八戸を居城とし(ただし,八戸藩主は代々無城主=陣屋持で,天保9年信真の時から城主格となった),直房のあと直政(側用人)―通信(盛岡藩主重信四男)―広信―信興―信依―信房―信真(信房弟)―信順(鹿児島藩主島津重豪八男)と9代にわたって在封し,明治維新を迎えることになる所領は実際には寛文5年2月15日に確定し,領知目録によれば,三戸郡内1万585石余・41か村(八戸・虎渡・剣吉・名久井・中野・森越・福田・斗賀・苫辺地・杉沢・法師岡・島森・田代・晴山沢・平内・白金沢・鳥谷部・是川・松館・十日市・角柄折・妙・新田・浜通・道仏・中居林・石堂・小中野・類家・櫛引・根城・田面木・売市・川原木・長苗代・尻内・矢沢・根市・大仏・花崎・小泉),九戸郡内6,225石余・38か村(江刈・葛巻【くずまき】・戸田・新屋・山根【さんね】・小倉・伊保内【いぼない】・長興寺・江刺家【えさしか】・山屋・上館・狄塚【えづか】・山内【さんない】・沢里・円子【まるこ】・軽米【かるまい】・晴山・高家【こうげ】・蛇口・戸呂町【へろまち】・帯島・夏井・閉伊口【へいのくち】・鳥屋【とや】・大野・大崎・門前・小久慈・南山形・荷軽部・川井・繋・長内【おさない】・長久寺・有家【うげ】・中野・種市・大川目),紫波郡内3,190石余・4か村(片寄・稲藤・大館・平沢)の合計3郡83か村・2万石「貞享高辻帳」では三戸郡41か村・1万428石余(田6,125石余・畑4,003石余),九戸郡38か村・6,806石余(田2,802石余・畑4,004石余),紫波【しわ】郡4か村・2,764石余(田2,505石余・畑258石余)の計83か村・2万石(田1万1,434石余・畑8,565石余)元禄10年の「郷村御内所高帳」では84か村(ほかに領内村として70か村を記す)・4万2,599石余(田2万4,509石余・畑1万8,089石余)「旧高旧領」では三戸郡53か村・1万3,670石余,九戸郡48か村・1万1,672石余,紫波郡4か村・6,818石余の計105か村・3万2,161石余なお,三戸郡は現青森県,九戸郡・紫波郡は現岩手県に属す領内惣検地は延宝3年6月に実施され,享保2年正月に幕府に対して領内改新田高5,030石余と上申しているこの検地による内高は,九戸郡が軽米代官所7,000石・久慈代官所5,000石,三戸郡が長苗代代官所7,500石・浜通代官所7,600石,紫波郡紫波代官所5,000石の計3万6,200石といわれる(八戸市史通史編)当藩の成立に際して,藩士は盛岡藩から津村喬光をはじめとする21名が配当され,また両藩協議のうえ新規採用したのは小田島久兵衛など31人で,当初は合計52人であったという(八戸藩史料)2代直政の代には,家臣団は500石以上2名,400~300石6名,250~100石30名,100石以下213名など合計291名(県史5)寛保元年の軍役人数は,一ノ先一ノ手292人,二ノ先二ノ手257人,駐隊133人,御旗本606人,総御後締り駐隊142人など合計1,484人,惣小屋数87とある(八戸藩史料)寛文5年3月八戸三日町に初めて制札場を設置し,八戸城下町の整備と領内支配に着手した領内支配にあたっては,八戸城下に町奉行,農村では三戸郡名久井通・長苗代通・八戸廻(浜通),九戸郡軽米通・久慈通,紫波郡紫波通の各通を設けてそれぞれに代官所を置いたただし,代官所は江戸中期までに大部分が廃止され,城内で代官が執務するようになるまた,八戸城下に町役人として町検断が置かれ,村々には肝入を任命して地方支配にあたったが,元禄7年10月町検断は庄屋,肝入は名主と名称変更が行われた(八戸藩史料)土地制度上の特徴としては,田1反は300坪(歩)であるが,畑1反は900坪(歩)であることが注目されるまた,一般には畑の場合は反の表示は使わずに役という場合が多く,畑3畝を1ツ役といい,1畝は17間×16間で積算した(八戸市史6)天災は,記録上確認できる延宝2年3月の八戸大地震,同3年の旱魃をはじめとして数年ごとに襲われ,これらは藩財政の悪化に拍車をかけていったこれに対して藩は,元禄9年には米の津留を施行し,同14年の不作に際しては家臣に100石につき100両の貸上げを命じ,また同15年正月には大規模な知行替を実施した(八戸藩史料)宝暦7年には家禄改が行われ,家老300石,御用人150石2人扶持,御役人並100石などとなっている(同前)藩財政の状況を延享4年の「八戸領高米金合払」によって見てみれば,所領は紫波通6,782石余・八戸廻(浜通)9,070石余・名久井通5,642石余・久慈通4,295石余・軽米通6,718石余・長苗代通7,812石余の計4万321石余(本田3万8,140石余・新田2,180石余)で,この内訳は給所高1万2,808石余・蔵入高2万9,739石余・江戸御台所米並御日用金高6,621石余・野馬飼料並所々伝馬一里番其他免高823石余となっており,収入は蔵入年貢米6,601駄(片馬),同砂22貫余があったが,支出は慈照院仕切米並総家中切米扶持米3,965駄(片馬),納戸金1,760両で,残分は金17両2分と砂4分7毛とある(八戸藩史料)藩領の人数は,元禄8年に家中1,172・足軽617・代官所支配百姓3万496・家中および寺社奉公人(給地百姓)2万1,515・町家2,886・寺社人1,539・座頭282の計5万8,507(同前)寛延2年には,家中2,833(うち家中手廻1,672・家中召使445・足軽鉄砲方712),寺社人など2,001(うち出家158・山伏1,120・社人49・座頭310・諸役人手廻364),百姓6万2,384(うち蔵入地百姓3万7,682・家中拝知百姓2万4,315・諸寺院百姓387),町人4,075,会所番人鐘付59の合計7万1,352(八戸市史6)維新変革に際して,当藩は東北諸藩とともに奥羽列藩同盟に加わったが,あまり積極的ではなかった明治元年9月奥羽列藩同盟は官軍に敗北したしかし,宗藩の盛岡藩が領地没収の処分をうけたのとは対照的に,当藩の存続は許されることになったこれは,藩主信順が鹿児島藩主島津重豪の八男であったことにもよるのであろう明治初年の「藩制一覧」による当藩の概況は,表高2万石,草高(内高)4万74石,甲子(元治元年)から戊辰(明治元年)まで5年間の平均収納は正租が米6,031石余・銭9万1,642貫余,雑税が金1万2,660両余・銭3万3,261貫余,村数83,戸数1万3,386・人口6万7,647(男3万5,352・女3万2,295),うち士族の戸数370・人口2,926,卒族の戸数200・人口1,041,神社は130社,寺院53か寺,また兵隊一大隊462人・大砲隊85人を編制していた明治4年7月14日廃藩置県により八戸県となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 八坂神社【やさかじんじゃ】 京都市東山区祇園町北側にある神社... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 八条(古代~ 平安期から見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 八上郡 天文21年の医王山大安興寺再興願文(医王山大安興寺善性院旧蔵文書/県史2)に「因州八上郡散岐郷医王山大安興寺」と見える... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」