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阿弥陀【あみだ】
【1】〔仏〕西方(さいほう...
[最終更新日:2006-12-11/JLogosid:704862670]
関連項目:
ワンステップ ワンタッチ ワンダン
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![]() | 阿弥陀寺【あみだじ】 東牟婁(ひがしむろ)郡那智勝浦町南平野にある寺 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 阿弥陀寺町【あみだいじちょう】 (近世~近代)江戸期~現在の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 阿弥陀寺町(近世~近代) 江戸期~現在の町名古くは「あみだじちょう」とも称した江戸期は豊浦郡赤間関に属し,長府藩領長府藩初期の赤間関七か町の1つ(下関二千年史)紅石山の南麓に位置し,関門海峡に面する地名は,中世に当地が阿弥陀寺領であったことに由来する寛政4年の家数207・人数826うち男411・女415(赤間関在番支配下の人口調/下関市史)古くは阿弥陀院寺浦,のち阿弥陀寺浦ともいって漁村であったが,長府毛利3代藩主綱元のとき,町内の漁民を壇之浦(現みもすそ川町)に移して長府藩御蔵米の蔵が建てられたその後,廻船問屋をはじめ船宿・魚屋・料理屋などが次第に増えたまた,赤間関で唯一の飛脚屋があった当町内の小字・小名に大倉・引地・梅ノ坊・李鴻章通り・徳利小路(関の町誌),後小路(県風土誌)があった大年寄役を勤めた伊藤家は本陣でもあり,広大な邸宅であったこの本陣には,オランダカピタン一行,吉田松陰も馬関砲台視察や九州遊歴のとき宿泊している伊藤家はシーボルトや坂本竜馬とも親交があったまた明治5年,明治天皇の西国巡幸のとき宿泊所となった阿弥陀寺(現赤間神宮)は,安徳天皇を祀る赤間神宮所蔵の紙本墨書平家物語(長門本)・赤間神宮文書は国重文,紙本金地着色安徳天皇絵は県文化財,年中行事の先帝祭は市無形民俗文化財に指定されている文久3年には奇兵隊が隊員増加のため同寺へ移った(奇兵隊日記)境内に安徳天皇陵があり,本殿のほか大連神社,鎮守八幡宮がある八幡宮は,阿弥陀寺の鎮守また西海鎮護の神として藩主の崇敬が厚かった寺院には浄土真宗本願寺派極楽寺がある同寺には文久3年,奇兵隊が一時駐屯した(奇兵隊日記)下関攘夷戦当時,当町の紅石山,梅之房(坊)に各種大砲が配置された(白石家文書)天保10年に三宅吉右衛門が寺子屋を開設,弘化4年に廃止された(下関市史)明治6年,伊藤弥六宅に養治小学が開校,のち本町3丁目に移転明治5年,豊浦支庁が当町に置かれた同12年赤間関区,同22年赤間関市,同35年からは下関市に属す明治28年,日清講和会議が3月20日から当町の春帆楼で行われた春帆楼は廃寺となった阿弥陀寺境内の一部に,眼科医藤野玄洋が開業したもので,彼の死後,未亡人が経営した旅館兼料亭である伊藤博文・山県有朋をはじめ,維新政府の高官が多く来訪した極楽寺前にあった2か所の魚市場は,はじめ私設であったが,明治38年に市営となり,大正13年,魚の取引きが盛んになった唐戸町へ移転した明治38年に今富八郎が当町の自宅で今富盲学校を創設現在の県立下関盲学校(現古屋町)の前身である同45年当町の地先1万8,550m[sup]2[/sup]の埋立地が完成し,内務省下関土木出張所,関門海峡改良事務所,機械工場が設置され,作業船の船溜りが造成された第2次大戦後は運輸省第4港湾建設局となる大正5年,下関市ではじめてのタクシー業長関自動車商会が春帆楼下で開業(下関市史)世帯数・人口は,同14年243・1,112,昭和10年231・1,143(男563・女580)なお,大正8年版の下関市街新地図には沿岸部に料亭が並んで記されている昭和20年の空襲で町の大半が焼失戦後の同24年には赤間神宮が復興したのをはじめ町勢は旧に復した(下関市史)昭和29年,一部が中之町となり,大字関後地村【せきうしろじむら】・壇之浦町の各一部を編入同39年一部が壇之浦町となり,大字関後地村・園田町・中之町の各一部を編入世帯数・人口は,同45年363・1,118,同55年304・817,同60年293・742... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 阿弥陀川村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 阿弥陀海道宿【あみだかいどうじゅく】 (近世)江戸期の甲州街道の宿場名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 阿弥陀寺【あみだじ】 下関市阿弥陀寺町にあった寺... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 阿弥陀海道宿(近世) 江戸期の甲州街道の宿場名都留【つる】郡のうち吉ケ久保村地内に宿場を形成「甲州道中宿村大概帳」によれば,宿高は84石余で,地子免許はなく,六尺給米・御蔵前入用は免除された江戸への里程は27里24町余,近隣の宿場へは下初狩宿へ1里18町,駒飼宿へ2里17町12間,鶴瀬宿へ2里30町,黒野田宿へ12町,宿往還は白野宿境から黒野田宿境まで長さ15町26間,宿内の町並みは東西4町28間余,天保14年の宿内人別272(男127・女145),宿内家数65,本陣は宿内の中町に1軒あり,建坪55坪,脇本陣も中町に1軒あり,建坪60坪,いずれも玄関・門構がなかった同年の旅籠屋は4軒あり,その規模別内訳は大はなく,中3軒・小1軒宿建人馬は25人・25疋,うち5人・5疋は囲人馬,人馬継立問屋場は字橋向に1か所あり,問屋1人・年寄4人・馬指1人がおり,人馬継立は白野宿・黒野田宿と合同で行われ,当宿は毎月16~22日の間を勤めた正徳元年に定められた駄賃・人足賃は,下初狩宿まで荷物1駄76文・乗掛荷人共76文・軽尻馬1疋49文・人足1人37文,駒飼宿まで荷物1駄139文・乗掛荷人共139文・軽尻馬1疋89文・人足1人67文,鶴瀬宿へ荷物1駄167文・乗掛荷人共167文・軽尻馬1疋111文・人足1人82文なお,天保14年には,同15年から5年間はこの駄賃・人足賃の4割5分増しとすることが決められた宿内の木賃銭は主人1人35文・召仕1人17文・馬1疋35文高札場は宿の中ほどに1か所あり,郷蔵はなかった黒野田宿までの間に村はなく,また一里塚や並木,立場もなかった宿の両側には家並みが続くが,そのほかは田畑で,裏は山林であった耕地は田より畑が多く,用水は笹子川を引き取って用い,流末は笹子川に落とす飲み水は川水を利用農業は五穀のほかにその時々の野菜を作り,農間に男は秣を刈り,また駄賃稼ぎを行い,女は絹・紬を織る旅籠屋のほかに食物を商う茶店があった笹子川の川幅は普通は8間ほどで,橋が架かっていたなお,助郷村は,大幡・中津森・薄原・加畑・真木・小形山・川茂・古川渡・平栗の9か村が出役した... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 阿弥陀【あみだ】 天川下流左岸,北部は高御位(たかみくら)山丘陵,南は伊保山丘陵・日笠山丘陵,古くからの山陽道沿い... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 阿弥陀【あみだ】 【江戸時代】{あみだくじ@阿弥陀籤(くじ)}〈阿弥陀籤(くじ)〉の省略... |
出典:東京書籍「語源海」
![]() | 阿弥陀川【あみだがわ】 阿弥陀川水系の本流,2級河川... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 阿弥陀川【あみだがわ】 阿弥陀川水系の本流,2級河川... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」