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![]() | 粟田口(古代) 平安期から見える地名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 粟田部村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 粟田村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 粟井神社【あわいじんじゃ】 観音寺市粟井町にある神社... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 粟井荘(中世) 鎌倉期~戦国期に見える荘園名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 粟倉荘【あわくらのしょう】 (中世)平安末期~南北朝期に見える荘園名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 粟倉荘【あわくらのしょう】 (中世)平安末期~南北朝期に見える荘園名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 粟倉荘(中世) 平安末期~南北朝期に見える荘園名美作国英多【あいだ】郡のうち栗倉荘・青倉荘とも見える「中右記」元永2年7月14日条(大成)によると,因幡守宗成の下向の途次に,「美作粟倉殿下御庄」と見え,摂関家領であったことが分かるまた,寛元4年に成立した「執政所抄」の12月条には,28日に冷泉院御忌日事の記事があり,素紙経5部を出すなかに「二部 粟倉」とある(続群10上)また,建長5年10月21日の近衛家所領目録(近衛家文書)に,荘務本所進退の荘園の一つとして,「美作国 栗(粟カ)倉庄〈丹後局 親重女〉」と見え,これに「冷泉院領内」の注記があるところから,11世紀はじめには三条天皇の皇女冷泉院宮の所領であったが,その後,摂関家領として近衛家に伝領され,丹後局(親重女)が給主となっていたものと考えられるまた正応3年の宝帳布所進諸荘目録(同前/鎌遺17513)にも,宝帳布を所進する荘園として「二段 粟倉」と見えるしかし,南北朝期に入ると,摂関家領としての実体は失われたらしく,建武3年11月26日の足利尊氏寄進状(本圀寺文書/広島県史古代中世資料編5)に「寄附……美作国青柳庄 粟倉庄」と見え,本圀寺造営のために足利尊氏によって寄進された22か所の1つであったまた,興国元年10月17日の後村上天皇綸旨案(伯耆志二/南北朝遺中国四国1)では「美作国青倉庄地頭職」を勲功の賞として相見宗国に宛行っている貞治元年卯月15日の年紀を有する日吉山王鐘銘(岡山県金石史/日本古鐘銘集成)には「別当粟倉庄 吉田村宝妙禅寺」と見え,当荘域に吉田村(現東粟倉村吉田)を含んでいたことが知られるまた同2年2月日の播磨国矢野荘公田分学衆方年貢并雑穀等算用状(教王護国寺文書1)に「作州栗(粟カ)倉城々誘人夫拾人催促力者雑事〈七月十日十日役〉」と見え,当地に赤松氏方の城が築かれ,その人夫役が矢野荘(現兵庫県相生市)に懸けられていたことが分かる応永21年6月12日の足利義持御判御教書案(県史未収仁和寺御経蔵文書)には,「美作国粟倉讃甘事,為料所々預置赤松筑前入道性貞也」とみえ,幕府御料所となっていた当社が,足利義持から赤松貞範に預けおかれているこれをうけて同月20日には,これを施行する室町幕府管領細川満元施行状(同前)が,同月23日には美作国守護赤松義則遵行状(同前)が出されている下って天文14年2月吉日の檀那村付帳(肥塚家文書)には「一,〈西〉あわくらの内かけ石」「一,あわくらの内しほたにの」「一,あわくらの内いノへ内」「同所なかす村一ゑん」「西あわくらの内さかね名」などと見え,当地内に播磨国広峰社の檀那村があったまた「西あわくら」などと見えることから,この頃には東西に分かれていたものと推定されるまた弘治2年の志水左京亮宛赤松晴政預状(志水文書/福崎町史)には,「粟倉庄内岩倉寺分事,為兵粮料所預置訖」とみえ,志水左京亮に預けおかれている現在の英田郡東粟倉村・西粟倉村付近に比定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 粟倉荘(中世) 平安末期~南北朝期に見える荘園名美作国英多【あいだ】郡のうち栗倉荘・青倉荘とも見える「中右記」元永2年7月14日条(大成)によると,因幡守宗成の下向の途次に,「美作粟倉殿下御庄」と見え,摂関家領であったことが分かるまた,寛元4年に成立した「執政所抄」の12月条には,28日に冷泉院御忌日事の記事があり,素紙経5部を出すなかに「二部 粟倉」とある(続群10上)また,建長5年10月21日の近衛家所領目録(近衛家文書)に,荘務本所進退の荘園の一つとして,「美作国 栗(粟カ)倉庄〈丹後局 親重女〉」と見え,これに「冷泉院領内」の注記があるところから,11世紀はじめには三条天皇の皇女冷泉院宮の所領であったが,その後,摂関家領として近衛家に伝領され,丹後局(親重女)が給主となっていたものと考えられるまた正応3年の宝帳布所進諸荘目録(同前/鎌遺17513)にも,宝帳布を所進する荘園として「二段 粟倉」と見えるしかし,南北朝期に入ると,摂関家領としての実体は失われたらしく,建武3年11月26日の足利尊氏寄進状(本圀寺文書/広島県史古代中世資料編5)に「寄附……美作国青柳庄 粟倉庄」と見え,本圀寺造営のために足利尊氏によって寄進された22か所の1つであったまた,興国元年10月17日の後村上天皇綸旨案(伯耆志二/南北朝遺中国四国1)では「美作国青倉庄地頭職」を勲功の賞として相見宗国に宛行っている貞治元年卯月15日の年紀を有する日吉山王鐘銘(岡山県金石史/日本古鐘銘集成)には「別当粟倉庄 吉田村宝妙禅寺」と見え,当荘域に吉田村(現東粟倉村吉田)を含んでいたことが知られるまた同2年2月日の播磨国矢野荘公田分学衆方年貢并雑穀等算用状(教王護国寺文書1)に「作州栗(粟カ)倉城々誘人夫拾人催促力者雑事〈七月十日十日役〉」と見え,当地に赤松氏方の城が築かれ,その人夫役が矢野荘(現兵庫県相生市)に懸けられていたことが分かる応永21年6月12日の足利義持御判御教書案(県史未収仁和寺御経蔵文書)には,「美作国粟倉讃甘事,為料所々預置赤松筑前入道性貞也」とみえ,幕府御料所となっていた当社が,足利義持から赤松貞範に預けおかれているこれをうけて同月20日には,これを施行する室町幕府管領細川満元施行状(同前)が,同月23日には美作国守護赤松義則遵行状(同前)が出されている下って天文14年2月吉日の檀那村付帳(肥塚家文書)には「一,〈西〉あわくらの内かけ石」「一,あわくらの内しほたにの」「一,あわくらの内いノへ内」「同所なかす村一ゑん」「西あわくらの内さかね名」などと見え,当地内に播磨国広峰社の檀那村があったまた「西あわくら」などと見えることから,この頃には東西に分かれていたものと推定されるまた弘治2年の志水左京亮宛赤松晴政預状(志水文書/福崎町史)には,「粟倉庄内岩倉寺分事,為兵粮料所預置訖」とみえ,志水左京亮に預けおかれている現在の英田郡東粟倉村・西粟倉村付近に比定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 粟野名村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 粟田神社【あわたじんじゃ】 京都市東山区粟田口鍛冶町にある神社... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」