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五【いつ】


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[最終更新日:2006-12-11/JLogosid:704876280]
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ベネッセ国語辞典 電子特別編集版

『福武国語辞典』を元に編集した電子特別編集版。日々の仕事・生活の中で使われる言葉や意味、用法が重要な現代語を中心に約6万語を収録。文章を書く際に役立つよう用例を多く掲載するなど使いやすさを追求した国語辞典。

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五島(中世)

鎌倉期~戦国期に見える広域地名肥前国松浦郡のうち峰上に所領を譲った建保6年8月日の源披譲状案に「海夫〈五島党々〉」と見える(伊万里文書/鎌遺2395)峰上は伊万里氏の祖と考えられる人物で,現在の佐賀県伊万里市付近を本拠とした同氏が五島にも勢力を有していたことがわかる披の所領は上から留―勝へと譲られており,文永6年7月20日の源留譲状案には「海夫 五島太平戸党」,正中3年3月7日の源勝譲状案には「一所,当庄并五島の権公文職……一所,五島の海夫おほひらつの党」と見える(同前/平戸松浦家料)安貞2年7月3日の預所法眼某下文によれば,値賀五島公文所に対し,山代固を値賀五島惣追捕使に任じるよう沙汰している(山代文書/鎌遺3764)山代固は,小値賀【おぢか】島本主清原是包の姪清原三子と御厨執行直の間に生まれた囲の子で,前述の下文には,値賀五島惣追捕使・定使職は相伝の職であると固が述べたことが見える固の死後,娘の源氏と後家尼の間で遺領をめぐる相論が起こり,延応元年9月1日の六波羅探題北条重時同時盛連署書状では「宇野御厨内五島惣追捕使並定使職」について後家尼が在京の折申し述べたことが見え,幕府は後家尼の言い分を認め,固の遺領は後家尼一期の後,固の猶子である山代広に伝領されることになった(同前/鎌遺5470)建長2年9月5日の関東御教書によれば,五島惣追捕使・定使職を濫妨するとして山代広が宇野御厨地頭等を訴えているが(同前/遺7231),この両職は山代氏に相伝され,建武4年4月3日の足利直義安堵状で山代弘に安堵され(同前/南北朝遺911),同年5月28日に一色道猷施行状が出された(同前/南北朝遺959・960)弘は貞和6年3月20日,両職を嫡子「ちやうかめ」に譲っている(同前/南北朝遺2718)正応4年6月日の河棚住人秋丸恒安申状案には「五島西浦部内青方四郎殿」と見え,白魚時高にあてた永仁6年8月30日の肥前国守護代平岡為尚覆勘状写に「五島白魚田地弐町分」と見える(青方文書/鎌遺19777)青方氏は現在の上五島町内,白魚氏は若松町内を本拠とした豪族で,両氏やその同族は以後,自らの所領や所在等について記す場合に「肥前国五島内」といった表現を用いている(同前)正安2年7月5日かと考えられる近衛家本追加の文書には「肥前国五島内盛島前住人良全謀書事」とある(中世法制史料集1)文保2年12月9日の鎮西下知状案によれば,那智兵衛次郎入道跡が肥前国五島浦知行分河上社造営用途を弁済しないとして河上社雑掌に訴えられており,五島に河上社の所領が存在したことがわかる(実相院文書/佐賀県史料集成15)また,永仁6年9月2日の肥前国守護代平岡為尚書下案には盗人を五島に流すことが見え,幕府にとって五島は辺境の流刑の地とも考えられていたことがうかがえる(青方文書/鎌遺19791)南北朝の動乱期になると,観応3年2月1日の足利直冬充行状写には「五島内日島浦」の代わりとして「肥前国西浦三十町」以下の地頭職が伊東祐武に与えられたことが見え(伊東文書/南北朝遺3323),同年6月29日の足利直冬充行状写においても確認されている(士林証文所収伊東文書/同前3428)また,年未詳9月12日の沙弥宗願書状案によると,源清宗の五島所務が妨害されたことが知られる(青方文書/史料纂集)このように諸勢力の割拠する中で,五島の支配者として成長していったのは宇久氏であった宇久氏は元来宇久島に居住した鎌倉御家人であったが,永徳3年宇久覚が福江島の岐宿【きしく】へ移住,その子勝の時代に辰の口城へ移ったといい,この城を本拠としてやがて五島支配を確立,文禄元年朝鮮出兵に際し姓を五島に改め,以後近世大名五島氏として発展するのであるその後戦国期には,天正3年の島津家久の道中日記である「家久君上京日記」7月18日条に「九十九島を左の方ニ見て打過,右方にこたう(五島),福田,永崎夜中に打過候」と見える(鹿児島県史料拾遺4)島津家の重臣上井覚兼の「上井覚兼日記」天正12年6月27日条には,五島の宇久純定から島原陣の戦勝を祝う使いが来たことが記され,天正13年4月24日条にも「五島宇久和州」(純玄)から使者の来たことが見え(古記録),「勝部兵右衛門聞書」は,天正14年7月27日に島津勢が筑前の岩屋の城を落としたことに対し,五島・壱岐【いき】・対馬から祝いの使者が来たことを記している(旧記雑録後編2)天正17年12月5日の豊臣秀吉内書案には「五島・平戸八幡者共,高麗之儀被聞召届候」と見える(志岐文書/熊本県史料中世編4)五島はまた,海賊の根拠地でもあった「魯山君日記」乙亥端宗3年(康正元年)4月壬午条に,海賊船は五島から発船していると記され(李朝実録之部2/日本史料集成),「成宗康靖大王実録」庚戌成宗21年(延徳2年)11月甲午条に「東辺出雲州・石見州,南海一岐,松浦五島・平戸,自余小島無知数,賊徒大多」とあり(同前4/同前),「中宗恭僖徽文昭武欽仁誠孝大王実録」辛丑中宗36年(天文10年)9月己酉条に「五島倭人……不無作賊之弊」と見える(同前6/同前)相良氏の記録「八代日記」天文24年4月25日条には,「五島ニヲイテセキ(関)船ト申候而,盗船,五島ウク殿ノ役人ナル(奈留)殿と云方ノ宿所悉破候て雑物云々」と見えるこのように海賊が盛んに活動したのは,当地が大陸との海上交通の要地であったためで,その関係史料には「五島」の名が数多くみられる日中関係においては,まず「太平記」に,文永の役の際,博多に押し寄せた元・高麗の大船団のため五島より東,博多の浦に至るまで海上が陸地になったかのようであったという(古典文学大系)「允澎入唐記」によれば,渡唐のため宝徳3年10月26日に京を出発した允澎の一行は,享徳2年3月19日に五島奈留浦へ至り,10月に渡海,翌年6月27日に五島へ帰帆したことが見える(日明勘合貿易史料)また,「戊子入明記」に文正2年3月28日付で「琉事……五島奈留海(安脱カ)寺〈三千斤〉」とある(新訂増補史籍集覧33)「図書編」日本国序には,「平戸之西為五島〈五山懸海相錯而生其中其奥可泊乃日本西境之尽処也〉」とあり,薩摩から1,500里,肥前から430里,平戸から250里,「五島至山口必由平戸」と記されている(文淵閣四庫全書子部276)「尋尊大僧正記」文明5年6月17日条に,渡唐船は風の関係から「春ハ肥前国大島小豆浦ヨリ船出之,五十里南也,秋ハ同国後唐ノ島ヨリ船出之,五十里北也」とあり(大乗院寺社雑事記5),永正2年5月4日条にも「自肥前国大島〈小豆浦〉,春船ハ進発,秋船ハ同国後唐(五島)ナルトヨリ進発,其間南北五十里也,春ハ南,秋ハ北ヨリ也」と見える(同前12)「義輝将軍記」弘治2年11月条所引「続善隣国宝記」には「義士蒋海胡節志李御陣桂自旧年十一月十一日来至五島」とある(後鑑)日朝関係においては,「世宗荘憲大王実録」戊辰世宗30年(文安5年)7月己丑条に五島に朝鮮人が漂流してきたことが見える(李朝実録之部2/日本史料集成)「海東諸国紀」には「肥前州……有五島〈或称五多島〉日本人 往中国者 待風之地」とあり,五島から朝鮮へ遣使した人物として「五島宇久守源勝」「五島悼大島大守源朝臣貞茂」「五島玉浦守源朝臣茂」「五島大守源貞」「五島日島太守藤原朝臣盛」の名が見える中でも源勝(宇久勝)は「居宇久島 総治五島」とあり,他の者は「源勝管下微者」と記されているまた,勝は「文宗恭順大王実録」辛未文宗元年(宝徳3年)正月癸亥条以後,しばしば遣使記事が見え,「世祖恵荘大王実録」乙亥世宗元年(康正元年)7月丁酉条に,五島宇久守は「雖小既掌五島,与志佐相等」と見える(同前)「世宗康靖大王実録」己亥世宗元年(応永26年)9月丙午朔条によれば,勝は先に1年に2船までの通交と定められたが,その後定数外の通交も例外的に認められていたことが知られ,甲午成宗5年2月甲申条には,五島に漂着した朝鮮の僧徒を五島守らが本国へ送り返そうと尽力したことが記されている同年12月壬午朔条によると,勝はかつて年に3船通交していたがこの時には2船に減らされており,もう1船の増加を望んでいたこと,五島内奈留島主は勝の親族であるが独立性が強かったこと,この時点で奈留島主は朝鮮への通交を許可されておらず切望していたことが知られ,これ以後,奈留島主源繁の遣使記事がみられるようになる丙申成宗7年7月丁卯条によれば,勝は漂流した僧侶を助け送り返したことにより,歳遣船を2船から3船に増やされた(以上,同前3/同前)その後,「中宗恭僖徽文昭武欽仁誠孝大王実録」庚子中宗35年(天文9年)9月丙午条には,前年に五島へ漂着した朝鮮の一行を宇久純定が送り返したことが見えるが,この時期対馬宗氏と五島宇久氏は極めて疎遠な関係にあったため,同年10月己卯条によれば,朝鮮側は五島からの使者を応対することで対馬の使者の感情を害さないように苦慮しており,10月壬午条には,五島の使者は対馬の使者に会うことを恐れ慶尚道ではなく全羅道を通って上京したことが見える(同前6/同前)欠年3月15日の宗将盛書状写には,昨冬高麗人が五島に漂着し宗氏へ引き渡されようとしたが,宗氏はこれを断わったことが見える(大永享禄之比御状并書状之跡付/朝鮮学報80)なお,現在玉之浦町に所在する大宝寺の鐘銘は,応安8年2月18日付で「大日本国関西路利肥前州州五島珠浦弥勒山大宝寺」とある(日本古鐘銘集成)ところで,五島には1566年(永禄9年)にアルメイダ修道士がはじめてキリスト教を伝えた1563年,50歳の領主宇久純定は病気治療のため,槙瀬浦にいたイエズス会のトルレス神父に医師の派遣を乞い,この時は1人の日本人キリシタンが五島に行って治療した領主は説教師の派遣を求め,1565年五島へポルトガル人が渡来したのを機に,翌年アルメイダらが派遣され,領主や一族の病気の手当てをしたことから次第に信用を得て,まず大値賀,ついで奥浦で信徒ができた(フロイス日本史9,1565年9月23日フェルナンデス書簡・1566年10月20日アルメイダ書簡/通信下)1568年には領主の23歳の庶子(宇久純尭)が受洗してルイスと称したが,彼は領内で信用があり,いずれ家督を嗣ぐと期待されていた(フロイス日本史9,1568年10月20日アルメイダ書簡/同前)彼の庇護下で五島の信者は定着したフロイスはその後の出来事として,五島では淡州(純定)が死去したのち,孫の右衛門大夫(純玄)が後継者となったが,反キリシタンの叔父に牛耳られ,その叔父の画策で淡州の庶子ルイス(純尭)と1年以上争い,ルイスらは長崎に亡命するが,のち島津氏の仲介で家臣半分と五島に帰った,と伝えている(フロイス日本史9)一方1579年(天正7年)12月10日カリヤン神父の書簡は,領主の父はキリシタンでイエズス会を庇護したが,その死後反キリシタンの人物が諸島を治め,領主は年少のため次第に信徒を迫害したので,多数の信徒が国外へ出た,と報じている(通信下)人名と年代に混乱があるが,現在では,純定の庶子ルイス純尭が1576年領主となり,3年後の1579年に没すると,純玄(純定の長男の子)が跡を嗣ぐが,純定の三男ルイス玄雅はこれと争って長崎へ亡命し,のち島津氏の仲介で和解して,1594年(文禄3年)純玄の死によって玄雅が跡を嗣いだとされている純玄は反キリシタン政策を取り,1582年(天正10年)の日本年報は「五島は異教の領主の治める数箇の島で,彼は平戸の領主に劣らぬキリシタンの迫害者である」と伝え(イエズス会日本年報上),1584年には,マニラから日本へ来たスペイン船が,五島と思われる島に着いた際入港を促されたが,島主が棄教者であったため,これを断るという一件もあった(西班牙国セビーヤ市インド文書館文書/大日料11‐7)宇久純玄はもともと重臣や貴人の入信を禁止していたが,豊臣秀吉のバテレン追放令後は次第に圧迫を強め,1590年(天正18年)には洗礼もキリシタンが葬式を出すことも厳禁し,翌年ついに宣教師を退去させてしまった(フロイス日本史11・12)この状態は次の玄雅の代が来るまで続いたところで,五島の当時の生活について,宣教師の報告は比較的豊富である1566年(永禄9年)フロイスは次のように述べている五島は魚と塩だけが豊富な所で,肥後と肥前の国はここから塩・魚油・干魚・塩魚の供給を受け,見返りに米・小麦・大麦・服地をもたらす狩猟がさかんな土地で,住民は一般に貧しい寺院が多く,住民は迷信深い(同前9)1568年(永禄11年)に滞在した神父も,この島は甚だ不毛で塩と魚類のほか産せず,他の一切は他国から来るので,これより貧しい地はないと思われるほど貧しく,何もかも欠乏している,と伝えている(1568年9月4日バラレッジョ書簡/通信下)主たる産業の製塩業についてフロイスは1593年(文禄2年)の記事に,「彼らは塩を火力で製造しており,大きい火の上に塩水を入れる大きい容器を置き,その下で火をたいて塩になるまで(塩水を)煮つめる」,また,塩のかま1基を数人で共有することもある,と記している(フロイス日本史12)1588年(天正16年)には戦争のため商人が出入りせず,異常な食料不足と物資欠乏がおこり,翌年は大きい台風に2度見舞われて,家屋の大半と塩焼竈が倒壊し,収穫が失われ,他所へ移転する者も出た(同前11)1593年(文禄2年)にも,五島は不毛でひどい貧困がみられた(同前12)なお,五島の称は,江戸期以降も使用され,五島を支配した宇久氏は五島氏を称し,近世大名となる

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

五島藩【ごとうはん】
(近世)江戸期の藩名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

五島藩(近世)
江戸期の藩名福江藩ともいう肥前国松浦郡福江島の福江に居城を置いた外様藩藩主は五島氏で,柳間詰天正15年宇久純玄が豊臣秀吉から旧領1万5,000石余を安堵されたことが藩のおこりである純玄は文禄元年に姓を五島氏に改称したことから,五島藩と称されるようになる以後,藩主として玄雅・盛利・盛次・盛勝・盛暢・盛佳・盛道・盛運・盛繁・盛成・盛徳と継承して明治維新に至る初代純玄は,戦国期に宇久島から五島列島の中通島・久賀島・福江島などに進出したために,所領関係が複雑な構造をとることとなって,近世期になっても平戸松浦氏と複雑に入組む地域が生じた五島氏の主たる所領は福江島・久賀島・奈留島・宇久島と中通島の南西部一帯および中通島の二方領・三方領である二方領・三方領とは年貢を松浦氏と二分・三分する地域のことである関ケ原の戦では2代玄雅が静観したことで旧領を安堵された五島列島全体は東シナ海で囲繞され,列島中には山岳が多いため生業は漁業であり,漁業と海の支配権をめぐって中世以来松浦党の一員としての在地土豪が割拠し,兵農分離を困難にしていた慶長17年3月玄雅の後継者となった盛利は,兵農分離策として福江城下に家臣を居住させる「福江直り」を政策化することとなったが,大坂冬の陣,同19年8月福江江川城焼失などによって一時中止せざるをえなかった盛利は石田浜に江川城の仮城を築き,また元和3年9月に領知朱印状で1万5,530石・55か村の領地を得,「福江直り」を実施していったが,元和5年前藩主玄雅の孫大浜主水による事件が起き,再度の一時中止となった大浜主水事件は,同7年に幕府裁決によって盛利の勝利となって,領主権の確立が急がれることとなり,「福江直り」に着手された寛永10年代までに家臣の福江城下居住をほぼ完了し,家臣の知行高を確定した家臣総数177名,総知行高9,225石,蔵入地5,095石で,家臣は家老330石以下とし,その8割は40石以下の構成とした一方,領内総検地を施行し,百姓を給地・蔵入・寺・浜・竈百姓に確定した浜百姓は専業漁民,竈百姓は塩業に従事する百姓である幕府から課された重大な任務は異国船警備番役で,代わりに参勤交代が免除されたほどである異国船遠見番所は福江島に三井楽【みいらく】泊の他に3か所,黄島,奈留島,中通島の奈良尾福見の他2か所,新番岳,宇久島の合計11か所が置かれ,また島廻定番として東・西南・北目島廻と,のち富江領廻りが定番化され,さらに在郷番として本山村(12番),岐宿【きしく】村(21番),玉之浦(20番)が設置され,常備番が詰めるというように厳重化された(五島編年史)寛永19年藩主盛利が退隠し,長子盛次が継嗣して五島氏で初めて長子相続制がとられ,盛次は藩政確立策を打ち出していった正保2年には国絵図の作製を行い,全田畑高1万5,530石(田7,878石・畑7,251石)と塩竈運上高375石,獵成25石を確立した実高は万治2年では表高を約4,000石上回ったまた慶安4年家臣序列を改め,譜代重臣を取りつぶした蔵入高が9,386石,給地高6,615石とし,蔵入地は高生産地帯の宇久島・福江島の南西部,魚目・奈留地域として財政確立を目指したこの家臣序列が幕末まで続いた海岸防御体制では,特に城下に一番町・二番町・三番町を設けて弓衆・鉄砲衆・長柄衆を居住させていった盛次が急逝すると,幼少の盛勝の後見役に叔父盛清が就任した盛清は後見役の条件として3,000石を得て以後5年間藩政を牛耳ったが,万治3年12月盛勝が成人すると,幕府は全五島領知高の5分の1を分知して旗本領として独立させることとした分知作業は進展しなかったが,幕府の仲介で寛文元年に決定した五島盛清は居所を富江と定め,3,000石は現有高で分割し,水主・船・山浮所務は3,000石に応じて分割することとなった盛清は富江・田尾・椛島・青方・魚目・宇久・小浜・神之浦・飯良村の3,664石,浮所務銀19貫673匁,百姓301人前,水主176人前を領有し,五島列島の一等の平野地域のみならず,五島第一の漁場玉之浦と魚目村を獲得したこの魚目村の漁場問題から捕鯨業をめぐって有川村と漁場境争論が展開されることになったこの旗本五島氏の知行地は,富江領と称されるこの結果,「寛文朱印留」に見える当藩の朱印高は1万2,530石余,村数56か村(ただし,16か村は塩竈運上高)となり,その村名は福江村・籠淵村・奥浦村・六方村・久賀村・蕨村・崎山村・赤島村・本山村・堤村・野々切村・大浜村・黄島村・玉浦村・大宝村・荒川村・小川村・小川幾山【おがわいつくやま】村・島山村・浜畔村・貝津村・柏村・牛浦村・嵯峨島村・鬼(岐)宿村・河原村・白石村・唐船浦村・幾山村・奈留村・船廻村・大串村・相浦村・夏井村・庵三郎村・日島村・浦内村・若松村・宿浦村・土井浦村・有川村・供栖(友住)村・大田村・太(鯛)浦村・高(神)浦村・江浜村・赤尾村・小河原村・平村・太田江村・飯良村・木場村・手羅(寺)島村・見加農(三日ノ)浦村之内・荒川村之内・今里村之内とある藩では領内支配のために村々を掛と呼ぶ広域行政単位にまとめ,はじめ14,のち13の掛に区分したこの掛の編成は,福江掛が福江・籠淵・奥浦・六方の4か村,久賀掛が久賀・蕨の2か村,崎山掛が崎山・赤島の2か村,本山掛が本山・堤・野々切の3か村,大浜掛が大浜・黄島の2か村,玉之浦掛が玉之浦・大宝・荒川・小川・小川幾山・島山・中須の7か村,三井楽掛が三井楽・浜之畔・貝津・柏・牛之浦・嵯峨島の6か村,岐宿掛が岐宿・川原・白石・唐船浦・幾山の5か村,奈留島掛が奈留・船廻・大串・相之浦・夏井・庵三郎の6か村,東掛が奈良尾・岩瀬浦の2か村,日之島掛が日之島・浦之内の2か村,若松掛が若松・宿之浦・土井之浦の3か村,有川掛が有川・供栖(友住)・太田・鯛之浦・神之浦・江之浜・赤尾・小川原の8か村,宇久島掛が平・太田江・飯良・木場・寺島の5か村であるのち日之島掛と若松掛は合併して西掛となる荒川村・今里村・三日ノ浦村は平戸藩との相給(二方領)であったこの各掛には代官が設置され,また若松・東・有川・宇久島掛には押役を置いて統制した山地には山掛と牧司,各村に庄屋・小頭,漁村には戸主【べんざし】,竈村には竈司を設置した(五島福江旧藩役其外規則)家臣は上士・中士・下士・中小姓・小馬廻・陸小姓・歩行・足軽・中間・郷士・小人・行者・六尺・犬遣である役職は家老・側役・小姓・中小姓・江戸証人・長崎聞役・大目付・陸目付と各奉行(蔵・狩・木屋・船・網・山・町組2奉行)・宗門改役・牧司・新屋(勘定方)・大家御蔵役がみられる安永年間の城下町は町奉行・町乙名・紺屋乙名・町年寄・散司・小頭,御船元(水主町・戸楽・丸木町)は御船元奉行・御船頭・大船頭・小船頭・小頭・定水夫,足軽町(1番町・2番町・3番町)は者頭・小頭・目付,小人・新小人町は小人支配・小人小頭,職人町は御木屋奉行・大工棟梁・鍛冶棟梁・棟梁脇・小頭の支配があり,在町では有川町乙名と宇久町乙名がみられるまた農漁民は総数1,123人前(1人前10石)で,給知・蔵入・寺・浜・竈百姓に分かれ,各々の役に応じた年貢と公事・夫役負担が決められた夫役では,例えば蔵入百姓は年間28日間の出夫と普請夫・木座夫・伝馬口付夫と江戸歩銀・馬飼草が賦課されるように,中世期の万雑公事的負担であった町人も役銀と家別銀・人別銀のほかに,水主役として大坂・長崎行きが賦課されていた有川湾をめぐる捕鯨問題は本藩と富江領との間で海境争論へと発展していた有川湾では寛文年間直前には有川村側に10組,魚目村側に8組で捕鯨されるほど盛業で大きな利潤をあげたので,寛文元年の分知に伴う有川湾沖合いの入会権問題は,両者の財政問題のみならず,村民の生活にかかわる重大問題であった争論は分知直後から生起し,まさに血みどろの激烈な争いであった両村民の死活をかけた訴訟合戦となり,二転三転し,その解決をみたのは元禄3年の幕府の裁決であった争論の様子は今日「海境絵図文書」や「鯨組式法定」などとして多く残されているほどである解決後の捕鯨の状況は,元禄4年の山田茂兵衛組は38本捕獲して銀24貫の純利益を得,また同13年の有川地組の累積利潤は銀417貫に達し,藩に対し勢美鯨1本につき1貫800匁の運上を納入するほどであったしかし,享保年間には累積利銀もなくなり,赤字経営となった藩財政は延宝年間から悪化し,延宝3年には領内検地,新地改めと人別改めを施行するとともに農村に奉公人制を公認せざるをえなかったまた各村々から産物を強制的に徴発したりもした元禄年間には江戸・京都・大坂商人からの融資も途絶え,そのため長崎商人伊藤小兵衛から借銀し,その代償として彼を長崎屋敷の御用商人に任命し,また地元商人から融資を受け,彼らに漁業特権の家督権を付与する状況であった宝永年間にはついに家臣からの上知策をとるとともに幕府から2,000両を借用し,その返還には農民から高役銀を徴収するに至った領民に対しては領内総検地をなすとともに,享保年間には初めて厳密な人別改めを施行して人身把握と年貢・公役銀の増徴策をとった今日,その様子は「人附帳」として残されているが,実に些細を極めていた農民の貧窮化はさらに拍車がかかり,中層農民でも手許に残るのは2~3石程度で,下層農民は子女を奉公に出し,その些少の給銀で生活を支える状況となった宝暦13年藩政上最大の悪政といわれる三年奉公制を施行したこれは百姓・町人・職人・丸木の次女以下で15歳になると3年間奉公する制度で,なかには抱主の私的隷属下に置かれ,また結婚を禁止されるなどの生活が展開されることとなったまた荒廃した農村の復興策として安永元年には大村領からの移民を求め,彼らは「居着百姓」と称された彼らの多くはキリシタンであったその数は明治初年には3,500人であったといわれている当時の藩主盛運は人別改めや財政回復策をとったので「福の神」と称されたが,幕府の寛政改革の影響を被ったため再度財政困窮となって地元捕鯨業者山田茂右衛門に資金援助をうけ,彼を蔵元寄合席として藩政に登用させた寛政9年五島で初めて百姓一揆が起こる状況となって,義倉制度も打ち出された文化年間に入り,異国船が相次いで長崎に接近し,ついにフェートン号事件が起きたため,幕府は海岸防備の強化と厳重な番役体制を要求した当藩は領内の鉄砲調査を行わせ,鰯運上金をもって武器作製費に充当し,塩硝問屋を設け,越後流兵学者藤原友衛をロシア船打払掛に任命するとともに,石田城築城の許可を幕府に求めたまた風俗の是正,上下の倫理観の確立,富国強兵,目安箱の設置,知行高の是正,才能主義の役席体制をとらざるをえなかった一方では殖産政策をとるとともに領内に献銀を求めたため,いわゆる「金あげ侍」も出現するはめとなった文政4年には従来の学舎を拡大して藩校育英館を設置し,文武振興策とした富江領でも藩校成章館が設置された天保年間に入ると「五穀熟せず海漁これなし,年増に蔵元差支え」と語るほどで,江戸・大坂での借銀は金1万両,銀で約600貫に達し,打開策として藤原友衛が献策した有川産物会所設置が画策されたそれは,運用の元金は宇久島3,000石を百姓名義の担保として銀200貫を借用し,うち100貫をもって有川産物方で運用し,苧を購入して捕鯨組に卸し,また捕鯨組に先納銀させ,さらに酒・塩を販売して利潤78貫を得て借銀を返済するという,鯨を中心とする国産方仕法であったこの仕法は一時的には成功したが,山田蘇作事件で天保13年に中止し,家臣の禄高改正をもって藩政改革を施行していった異国船の海岸接近問題から領内は攘夷思想が高揚し,農民にも防備体制を命じて操練を行わせ,海防隊の編成と15歳以上の男子には鉄砲・鳶口・山刀等を準備させた嘉永2年には石田城築城に着工し,家臣の軍備のために藩札3万両を発行し,城付軍資金3,000両を準備していった慶応3年10月藩主盛徳へ上京が命じられたが,病気で上京しえず,翌4年8月に上京した盛徳は攘夷を強化する財政措置に五島一円の所領を願出たため,富江領3,000石が再び当藩領となったこの状況を知った富江領民は騒然となり,竹槍を持った一揆行動をするとともに,上京して反対運動を繰り広げた新政府は長崎府の井上聞多(馨)を派遣して鎮撫に当たった結果,最終的には富江五島氏に後志国(北海道)に1,000石を与え,富江領は福江藩に吸収されたその間明治2年6月藩主五島盛徳が知藩事に任命された明治初年の「藩制一覧」によれば,草高2万2,360石余,貢租収入は正租が米8,485石余・金80両余,雑税が金1万3,574両余,戸数1万1,892,うち士族316・卒族285,人口6万2,294「旧高旧領」での所領は,松浦郡内高2万3,092石余・14か村(福江村・崎山村・大浜村・本山村・岐宿村・三井楽村・玉之浦村・久賀島村・奈留島村・日之島村・若松村・奈良尾村・有川村・宇久島村)また,ほかに旧旗本五島氏知行(富江領)として高2,394石余・4か村(富江村・魚目村・青方村・神浦村)が見えるなお,この富江領は明治3年8月長崎府に編入した同4年7月廃藩置県により当藩領は福江県となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

五戸村(近世)
 江戸期~明治22年の村名...

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五戸通【ごのへどおり】
(近世)江戸期の盛岡藩の通名...

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五戸通(近世)
江戸期の盛岡藩の通名同藩の郷村支配のための地方行政区域の1つ三戸郡・北郡のうち「邦内郷村志」では五戸県と見える奥入瀬【おいらせ】川・五戸川流域に位置し,西部は奥羽山脈の山地をなし,東は太平洋に面する当通の設置年代は未詳であるが,「邦内貢賦記」の天和2年のものと推定される記事に当通の名が記載されていることから,この頃までにはすでに存在したと考えられる「岩手県史」5では,寛文6年~天和3年の総検地実施過程で確定されていったものと推定している「邦内貢賦記」によれば,所属の村は上市川・下市川・切谷内・大森・百石・吉田・犬落瀬・大坂・小平・伝法寺・藤島・沢田・大不動・米田・五戸・又重・中市・石沢・兎内・七崎・志戸岸・豊間内・野沢・扇田・浅水・手倉橋・西越・折茂の計28か村,惣高は6,709石余,うち2,904石余の諸役御免(ただし物成は上納),平均年貢率は2割6分余,年貢収納米は1,745石余(内大豆380駄),ほかに15か村の金目高636石余,年貢金517匁,諸役上納物に正月御礼金,同御立木,同ヘリナシ,五月御礼金,御立木,イモホド代,江戸御供夫,詰夫,御材木金,御小者金,御馬買衆御入方代,粒荏,麻糸,御鷹餌犬があった「邦内郷村志」によると,所属村は三戸郡浅水・五戸・兎内・大森・扇田・豊間内・志戸岸・楢崎・切谷内・上市川・手倉橋・西越・石沢・又重・中市・戸来・北郡伝法寺・藤島・相坂・下市川・百石・下田・下吉田・上吉田・犬落瀬・折茂・米田・切田・沢田・滝沢・大不動・奥瀬の計32か村,総高は1万4,170石余で,うち寺社給地800石余,安永9年の戸数4,041,寛政9年の馬数8,328「本枝村付並位村」では,享和3年の村数37(三戸郡18・北郡19),家数2,795「天保8年御蔵給所書上帳」では村数36,総高は1万4,359石余で,うち御蔵高4,915石余・御免地高108石余・給所高9,336余慶安3年の五戸通御役高書上帳(五戸録/五戸町誌)では三戸郡18か村・北郡18か村の合計36か村,ほかに北郡に無高の天ケ森村1か村があるとしている通内の下級行政区域としては,七戸通には御町通などの通が知られているが,五戸通については不明慶安3年の御年貢米御帳(同前)には五戸通と六戸通を区別して記載している代官所は五戸村に置かれた代官の設置年代は不明であるが,慶安5年の御支配帳には,後年の五戸通の行政区域に浅水御代官として山口金右衛門・江柄五郎兵衛,五戸御代官として木村杢助・摂待忠兵衛がみえており(岩手県史),江戸初期には五戸通地域に両代官が配置されていたことが知られるなお,五戸代官の木村氏は江戸初期より延宝7年に盛岡へ移住するまで,五戸代官を世襲しており(参考諸家系図,盛岡市中央公民館所蔵),五戸代官所そのものも木村氏の居館であった五戸館に築造されたものであった石高は,慶応3年の「五戸通御代官所惣高部分一ケ村限仕付不仕付古荒川欠高書上帳」(五戸録/五戸町誌)によれば,総高1万7,529石余,うち1斗余は又重野守給高預地,127石余は川欠,646余は古荒,788石余は不仕付,1万6,266石余は仕付となっており,ほかに3石余の下田覚左衛門領の天ケ森村(無高)があったまた蔵入高・給所高の割合は,5,336石余が蔵入高,9,748石余が給所高,800石余が寺社高,215石余が与力高で,ほかに3石余の下田氏領天ケ森村(無高)となっていた(五戸通御役高書上帳/五戸町誌)給所高と与力高のうち,五戸通の在地給人の数は,慶応3年には給人81・役医2・与力23・同心12の合計118人であった(五戸通御給人御役医御与力座順帳/五戸録)蔵入地平均税率と年貢高は,慶応3年の御年貢米御帳(五戸録/五戸町誌)によると,豊間内・志戸岸・七崎・扇田・野沢・浅水・手倉橋・西越の8か村が高883石余・引合(年貢率)3割8厘6毛・年貢高272石余,又重・中市・石沢・兎内・五戸の5か村が高2,444石余・引合3割5分7厘6毛・年貢高874石余,大森・切谷内・上市川・下市川・百石・下田・上吉田・下吉田・犬落瀬・折茂・相坂・藤嶋・切田・沢田・滝沢・米田・伝法寺・小平・柳町・鶴喰の20か村は高2,195石余・引合2割6分3毛・年貢高571石余となっている雑税高は,慶応3年の御定役御金銭并諸御礼金銭御勘定帳(同前)によれば,金186両余・銭3,159貫余であった雑税の種類としては,慶応3年には,御小者金・詰夫金・材木柾代・御舫金・御礼金・立木指付・薯蕷百連代・麻糸代・走夫銭・粒荏代・定番銭・筵菰代・御鷹餌鳥銭・鶏黒尾代・給所本舫があった(御領分中御定役御金銭高百石当定目/五戸録)五戸通を統轄していた代官所の職制は,天保年間頃には代官2人・下役2人・牛馬役2人・木崎野又重野御用懸(人数不明)・御側大豆御用懸3人のほか,蔵奉行2人であった(公国史)具体的職務を慶応3年の書上(五戸録)でみれば,海防掛・牛馬役・為御登大豆御用掛・御物書・諸御役(北地御運穀御用掛・御備米御用掛・諸木植立奉行・硝石製法御用掛・非常備穀運穀御用掛・備荒倉御運穀御用掛・西廻御用銅駄送御用掛・五戸通新田納送御用掛)があって,給人が任用されていたまた馬肝入があり,町方諸役付では硝石買入方・上町検断・下町検断・宿老・五戸村肝入・定番・目明・御蔵番があった(五戸録)牛馬役・大豆掛は当地の特産にかかわるものであるこれらが幕末期の当代官所の職制のすべてを示したものかは不明だが,代官の下に五戸給人が職務を分担し,これを町役人・村役人が支えていたことが知られるまた五戸通には大肝入も所在していた文化~文政年間には大肝入として田中助四郎がいた(五戸町誌)大肝入の管轄や職権については不明なことが多いが,安政3年の五戸通地震被害訴状(内史略)には五戸町方から浅水村・下市川村・百石村の御蔵入地,さらに下田村の給所地までその訴状に連署していることから,五戸通全体の村々を管轄していたように推測される主な農産物は元禄7年の五戸御蔵の請取払勘定目録(五戸町誌)によれば,米・大豆・粟・稗などであった米は稲作北限地としての風土的条件から生産力は低く,大豆などの畑作物や馬産が振興した特に大豆は藩の専売品として重視され,御登せ大豆として大坂や江戸へ運ばれた普通は野辺地から積み出されたが,時期によっては市川湊または八戸湊から積み出されることもあった天保10年に野辺地へ集荷された大豆の石数は,五戸通では2,500石であったが(野坂家文書),同年には市川湊からも1,300石積み出されている(三浦家文書/倉石村史)また八戸湊から積み出された例では元禄9年に422駄が送られている(諸取払勘定目録/倉石村誌)藩営牧場としては又重野と木崎野があり,宝暦5年には又重野に86疋,木崎野に112疋が放牧されていた(奥隅馬誌)特産物は,「邦内郷村志」によれば鮭(披・塩引)・鰯メ粕・紫紺,文政4年の南部盛岡藩御領分産物書上帳(郷土史叢3)では市川村の鮭・鱸・鱒・北寄・鰯・鰯油,諸村の紫根・蒼朮・桔梗・白朮があったなかでも鮭は「市川の鮭」として知られ,初鮭は藩主に献上されるのが習わしであったまた大半が丘陵山地となっていることから山林業も振興した延享4年の五戸御代官所御山帳(日本林制史資料)によれば,当通の248か山のうち,65か山が留山とされ,森林保護が図られていた享保17年から文久4年にかけては,西越・手倉橋・豊間内・七崎・扇田・浅水の6か村では99か所に植林が行われ,杉2万2,723本・松2,400本・栗1,000本が植林されている稲作北限地としての当地方には飢饉が頻発した特に悲惨だったのは天明3年の飢饉で,「篤焉家訓」(盛岡市中央公民館蔵)によれば,「福岡より田名部迄,青田にて食物これ無く,人馬飢死莫大也なかんづく五戸通もつとも猫・人馬死候を食し候者多し哀むべし」とある飢饉が続くと百姓一揆も激発した五戸通の百姓一揆は寛政7年と天保5年,嘉永6年が知られているなかでも規模が大きく,要求も強硬だったのは嘉永年間の一揆であるこの一揆は三閉伊一揆に呼応して起きたもので,嘉永6年7月11日に五戸白山平に「五戸一万三千石三拾三郷百姓共家別に壱人宛」(万覚控帳/倉石村史),合計4,000人が集まった要求は御用金の免除,別段買上大豆の中止,夫伝馬負担の軽減など17か条にわたるものであった一揆勢は「夫々郷印を立て,諸人物云ふ事苗代時の蛙の如し」(同前)の勢いで,五戸代官所を見限り古城のある三戸代官所へ強訴したこの結果,11か条の免許を藩から獲得して一揆は成功をみた災害のうち,安政3年7月の地震被害をみると,五戸通では代官所の建物・武器蔵・米穀蔵の壁の欠落,大豆蔵の大破,相坂村の大豆蔵の大破などのほか,五戸町中の新田通13軒,下田村の6軒,浅水村の1軒が潰れ,下市川村では津波にて子供3人・牛1疋水死,百石村では馬9疋死亡,市川浦では前浜・北浜通で納屋・網・諸道具が多数流失をみている(内史略)寺院は五戸村に高雲寺・専念寺・浅水村に完福寺,戸来村に長泉寺,又重村に儒童寺,中市村に願福寺などがあり,神社は各村々にあってそれぞれ崇敬をうけていたまた,藩の修験の組織としては戸来村に五戸年行事の多門院が所在した本山派に属し,当通を含めて「陸奥国南部三戸・六戸・七戸之内六拾七箇村」(貞享4年年行事職補任状/多門院文書)を支配していた明治初年の「国誌」によれば,青森県第7大区1・2・3小区および第8大区4・5・7小区に属している現在の三戸郡新郷村・倉石村・五戸町,上北郡十和田湖町・六戸町・下田町・百石町および八戸市・十和田市の各一部にあたる...

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五所川原村(近世)
 江戸期~明治22年の村名...

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五箇村(近世)
 江戸期~明治7年の村名...

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五町田村(近世)
 江戸期~明治22年の村名...

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五郎兵衛新田村(近世)
 江戸期~明治22年の村名...

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五町村(近世)
 江戸期~明治22年の村名...

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┗ 高齢者を狙った詐欺犯罪の手法。オレオレ詐欺の一種とされる場

高輪ゲートウェイ
┗JR東日本が2020年に新設する駅名。田町駅と品川駅の間、東

不用品回収
┗ 部屋の片付けや老前整理・生前整理・遺品整理等で、業者が家庭

所有者不明土地
┗ 永年相続登記(不動産の名義変更)が行われずに、登記簿上で所

遺言控除
┗ 有効な遺言書による相続となった場合、相続税の基礎控除額に上

今日を知る

今日の記念日

『遠山の金さんの日、ミニチュアの日』

1840(天保11)年のこの日、遠山の金さんこと遠山左衛門尉景元が北町奉行に任命されました。

今日の暦

月齢:2

月齢:2
月名(旧歴日):二日月/繊月(せんげつ)

・2025年(年/蛇)
・3月(弥生/March)
・2日
・日
・Sunday
・仏滅

二十四節気:「雨水<
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・font>12日「
啓蟄<
・a>」まで<
・font>3日


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