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![]() | 重原荘(中世) 鎌倉期~戦国期に見える荘園名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 重富(中世) 鎌倉期から見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 重ノ木村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 重い【おもい(2)】 ①【荷物・体重など】heavy (⇔light) *この石は重すぎて簡単には動かせない This stone is too heavy to move easily. *重い荷物を持ち上げたときぎっくり腰になった When I lifted the heavy baggage, I strained my back. *隆志のほうが誠よりも5キロ重い Takashi is five kilograms heavier than Makoto. ②【程度】(問題・状況などが)serious, heavy ━━重く seriously, heavily *重い病気 a serious illness [disease] / 重い犯罪 a serious offense *重い税金が貧しい人たちを苦しめた The heavy taxes oppressed the poor. *この仕事への責任が彼に重くのしかかっている Responsibility for this work is pressing heavily on him. *事態を重く見た政府は閣僚会議を開いた The government took the situation seriously and held a Cabinet meeting. ③【気持ち】(気落ちした)depressed,《口語的》blue;(沈んだ)heavy *重い気持ちで with a heavy heart *私は試験のことで気が重かった I was depressed about [over] the exam. ④【人・動作】heavy *重い足取りで歩く walk with a heavy step [foot]; walk heavily ⑤【その他】 *きょうは頭が重い My head feels heavy today. *画像を入れるとデータが重くなる The file will 「get much larger [take longer to transmit] if you insert images.((英訳お願いします)) [慣用表現] *重い腰を上げる [参照]⇒こし(1)③... |
出典:東京書籍「アドバンスドフェイバリット和英辞典」
![]() | 重清村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 重要【じゅうよう(1)】 (重要性)importance[U],significance[U] ━━重要な important, significant;(不可欠な)vital, essential;(かぎを握る)key *人命救助が何よりも重要です Saving human lives is the most important thing.≒The most important thing is to save human lives. *彼は日本における農業の重要性を強調した He emphasized the importance of agriculture in Japan. *彼はその事実を重要視している He attaches importance to that fact.≒He makes much of that fact. *教育は政治にとって重要な要素である Education is an important element of government. *結果よりも過程のほうが重要だ The process is more important than the result. *自動車産業はこの市の経済にきわめて重要な役割を果たしている The automobile industry plays a vital [key] role in the economy of this city. ◆*重要な転機を迎える take a serious turn / 外見はそれほど重要ではない Appearance is not what really counts [matters]. / あした雨が降るかどうかは,私たちにとってとても重要だ It makes a great difference to us whether it rains [will rain] tomorrow. [複合語]重要参考人 a material witness / 重要書類 important papers / 重要人物 [参照]⇒じゅうようじんぶつ / 重要文化財 an important cultural property / 重要文書 an important document / 重要無形文化財 an important intangible cultural property... |
出典:東京書籍「アドバンスドフェイバリット和英辞典」
![]() | 重安名【しげやすみょう】 (中世)鎌倉期~戦国期に見える名(みよう)の名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 重枝名【しげえだみょう】 (中世)鎌倉期に見える名田名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 重久名(中世) 鎌倉期から見える名田名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 重枝名(中世) 鎌倉期に見える名田名大隅国曽於【そお】郡のうち建久8年の大隅国図田帳には,曽野(曽於)郡の国方公田81町のうちに「重枝廿丁 郡司藤原篤守所知」とあり,この内3町が大隅正八幡宮の佃として寄進されている曽野郡司藤原篤守(篤遠)は税所氏で,税所氏系図によれば,篤守の先祖である篤貞・篤近・篤房らは「重枝曽於野大夫」あるいは「重枝曽於野次郎大夫」と称しているまた,天福2年3月16日「しけえた」田地曳文の端裏書には「曽乃郡司殿曳文」と見え(台明寺文書/旧記雑録),嘉禎2年2月日の竜泉房玄栄田地寄進状によれば,故長寿房安覚忌日僧供料田として台明寺衆集院に寄進された「囎唹郡重枝名内字堀切田六段」は,故長寿房安覚が「重枝先名主囎唹郡司篤盛之手」から買得したものだったという(同前)さらに,文永9年10月25日関東下知状には正八幡宮が税所氏による「噌於郡重枝・重富名……以下講経免田」の押領を訴えていることが見えるが,「当国御家人税所介義〈祐字有憚〉為惣領仁之上,帯本主状」といわれている(同前)このように当名は曽於郡司である税所(藤原)一族の所領で,その仮名【けみよう】によって名づけられたものであろう当名内には先引史料にも見えるように,正八幡宮領や台明寺領が含まれているが,台明寺領としては「堀切田六段」のほか,正応4年11月の台明寺田地注文には「倉原三段〈重枝名〉」,「山下五段重枝名」のほか,忌日田として「小禄二段〈重枝名,相善房寄進,十五日田,本証文ニハ雖令停止万雑公事,於今者自本(重枝)名依被催促,諸公事勤仕之〉」や「北迫三段〈重枝名,橋口入道忌日,公事同小禄〉」,三昧田として「菅生六段重枝名,本証文ニハ雖令停止万雑公事,自今年始警固用途,依被苛責弁之」などが見える(同前)これらの寺社領は寛元元年9月日の大隅守護代定重寄進状に「堀切陸段・須加尾陸段・倉原参段」などが,「件料田,本領主御家人重代相伝所領也」とあるように,多くは元来,税所氏一族が知行していたものを,寄進や買得によって寺社領となったものであろう(同前)当名内の台明寺領のうち,山下は国分市台明寺小字山下に,堀切・菅生(須加尾)は同市上小川小字堀切と重久小字須川ないし須川原に比定することができ,当名は国分市内各所に散在していたと考えられるなお,承久3年12月日の藤原篤吉売券は「曽野郡内宣枝内,すかうの南六反」を売却したもので,篤吉も仮名宣枝を称しているが(同前),これが先引の台明寺田地注文にいう「菅生六段」であることは,嘉禎2年11月日の僧覚尋寄進状に「曽野郡菅生 南六段重枝内」とある(同前)ことからみて明白であるから,「宣枝」は重枝の誤読とすべきであろう... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 重安名(中世) 鎌倉期~戦国期に見える名【みよう】の名豊後国国東【くにさき】郡田染【たしぶ】荘のうち古文書に見える重安名内の地羽広田【はひろだ】は現在の豊後高田市田染地区大字相原にあり,吉松・石丸・おやま・いたやその・つるのいけ(鶴の池)などは大字嶺崎に,日のの田地は大字蕗【ふき】に,くろくさ(黒草)・きくやま(菊山)・こくそさこ等は大字真中に比定される以上によって見ると,この名は大字相原・蕗・嶺崎・真中に跨っていたことは疑いなく,相当広範囲の散在名であったことになる同荘永正名・末次名・糸永名と名田が交錯していたらしい文永8年3月15日の大宮司宇佐公氏下文に,「可早任当知行旨,忝能重以下舎弟等安堵領掌,当庄内重安名田畠等事」とあるのが初見(到津文書/大友史料2)この名の本主は妙覚で,子能重らに譲与して大宮司から安堵されたもの能重は吉重ともあり,御馬所検校で法名信戒,田染定基・忠基の外祖に当たる田染氏はこの外祖信戒から当名を相伝したその後尾崎行信や藤原氏女の手に帰したが,神領興行法にしたがって田染忠基が返付を要求したところ,糸永名地頭曽禰崎通定(道西)が祖父慶増が文永11年に拝領したと号して異議を申した重安名田が糸永名中に散在したことが一因で,鎮西探題は「名内有名之由,道西申之条,非普通之儀」として通定の要求を姧曲として退け,忠基に交付させた(永弘文書/大友史料4)ただし藤原氏女・尾崎行信らは打ち渡しを承知しなかった南北朝期になって田染定基は,武家の仁に属して放埒をした理由で,建武5年6月宮寺僉議によって重安名(宮成知行分を除く)・恒任名・永正名・小手則名・末次名は欠所され,由緒ありとして田部氏女に与えられた(到津文書/大友史料6)ただし長野馬次郎神主・田染秀基・倉成修理亮や田原一族が打ち渡しを拒否し,特に田原直平・貞治・直広らは城郭を構えて反抗した(同前)田部氏女は養子香志田内重に所領を譲ったが,延文5年8月22日内重は,田染其阿(宣秀改秀基)が社家の赦免を得たため,恒任・永正名および末次名の一部を其阿に去渡した(永弘文書/大友史料7)応永2年壬7月13日重安・恒任・永正・小手則・末次名などを譲った藤原直重は香志田氏で(矢治文書/大友史料8),のち直重が罪科され所領は公領として点定され,応永29年番長永弘光世の歎願で重安・末次両名は下宮御炊殿に御菜免料所として寄進された(永弘文書/大友史料9)以後「重安・末次両名」と併移され,御菜免として永弘氏が相伝知行することになる戦国期(天正8年か)10月7日の田原親家書状案に,「平名・田淵名・重安名,彼三ケ名被致進止」とあるのが終見(永弘文書/大友史料25)... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」