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遠【えん】

{教}{常}
【1】とおい...

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[最終更新日:2006-12-11/JLogosid:704901040]
関連項目: ワンステップ ワンタッチ ワンダン 


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ベネッセ国語辞典 電子特別編集版

『福武国語辞典』を元に編集した電子特別編集版。日々の仕事・生活の中で使われる言葉や意味、用法が重要な現代語を中心に約6万語を収録。文章を書く際に役立つよう用例を多く掲載するなど使いやすさを追求した国語辞典。

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遠野保【とおののほ】

(中世)南北朝期~室町期に見える保名

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

遠野保(中世)
南北朝期~室町期に見える保名保の領域は現在の遠野市域とほぼ一致する「日本後紀」弘仁2年12月13日条で「遠閉伊」と呼ばれた地にあたるか(遠野市史)ただし,保の成立は平泉藤原氏の時期か閉伊【へい】・稗貫・和賀・江刺,いずれかの郡から分離・独立したものとみられる建武元年8月陸奥国司北畠顕家は「面懸左衛門以下輩」の横領を退けて遠野保を阿曽沼朝綱に沙汰付けよと命じた命令をうけたのは南部又二郎(師行)遠野保の回復を訴えたのは朝綱の代人,朝兼である(遠野南部文書建武元年8月3日陸奥国宣)「面懸」は「角懸」の誤記か(地名辞書・遠野市史)とするならば,江刺郡の角懸から郡境の山を越えて侵略がなされたということになるこの面(角)懸氏は江刺郡地頭葛西氏の配下か阿曽沼または小山の家臣とする説の根拠は乏しい阿曽沼氏の遠野保領有は南北朝中期の観応年間においても確認される「小山文書」観応元年8月20日藤原秀親譲状に,「一所 陸奥国遠野保地頭職事」「一所 同国江刺郡内角懸郷半分地頭職事」とあるこの藤原秀親は阿曽沼氏である(小山市史研究1・小山市史史料編中世解説)これを小山氏とする通説は訂正を要する秀親譲状の冒頭には,「一所 下野国阿曽郡内阿曽沼郷地頭職事」とあり,阿曽沼氏本貫の地(本領)を示しているそして,武蔵・相模・信濃・陸奥・常陸・備中などの諸国所領が列記された後に,「一所 鎌倉屋地二所〈法花堂前車小路〉事」とあるこの時期における阿曽沼氏の活動の中心舞台が鎌倉・下野方面であったことが知られる秀親の譲状が下野国守護小山氏の手中に入ったのも,阿曽沼氏の本領が同国にあったればこそである(同前)奥州をはじめとする諸国所領の管理には所務代官(一族・家臣)が派遣されていたとみられるさらにまた,秀親譲状に遠野保とならんで江刺郡角懸郷が見えるのは,建武年間に敵対した角懸氏の所領(半分)が没収されて阿曽沼氏に宛行われたことによるか南北朝期における阿曽沼氏の遠野保領有は鎌倉期にまで淵源を溯らせることができよう文治5年奥州合戦の結果,阿曽沼四郎広綱が遠野保地頭職に補任されて以来,鎌倉期を通じて終始一貫,阿曽沼氏が当保の地頭であったと考えられる阿曽沼氏は下野国阿曽(安蘇)郡阿曽沼郷を本貫とする御家人浅沼とも記す「閉伊郡遠野保」を賜った民部丞四郎広綱は横田護摩堂山に城を築き,次男又二郎親綱を名代として派遣したそれに従う家臣は高屋八郎・宇夫方二郎らであったと伝える親綱はやがて父の譲りを得て正式の領主となる親綱を「遠野領主の祖」とする所以である(県史2-94頁)建武年間の朝綱,観応年間の秀親らはいずれも広綱―親綱の後継者に他ならない室町後期,明応年間の檀那職売券には,「奥州藤野浅沼之一族一円,但,此一族者,自下野国出候也」と見える(米良文書明応5年9月11日妙慶売券など)藤野浅沼,すなわち遠野阿曽沼の一族が紀州熊野まで参詣の足を伸ばしていたこと,ならびに浅沼一族が下野国出身であることが,この時期においても天下周知の事実であったことが知られる(遠野阿曽沼氏の系譜は県史2-95・253頁,3-414頁)戦国大名阿曽沼氏の領国となったのは遠野保内の12郷に大槌・釜石などの海岸部を加えた地域であったいわゆる遠野十二郷とは,達曽部【たつそべ】・田瀬・鱒沢・小友・綾織・宮守の下六郷に,上六郷(郷名不詳)を加えたものである(阿曽沼興廃記)大槌・釜石方面が阿曽沼領となったのは,遠綱の建武年間より以降のこととされる遠綱の次男某は初めて大槌城主となり,遠野次郎または大槌次郎と称したと伝える南北朝初期のことかそののち,大槌氏は阿曽沼一族の雄として勢力をふるい戦国末期まで及んだ(大槌氏の系譜は県史2-419頁)戦国大名としての阿曽沼氏の歩みは参河守光綱の永享~嘉吉・文安のころから始まっていたものとみられる葛西勢の侵攻に対して近隣の領主らを動員,これを撃退したという光綱の事蹟が知られる(阿曽沼氏家系)綾織村谷内不動堂の文安5年棟札にも,「大檀那藤原朝臣三河守沙弥禅頭(光綱の法名)」「嫡子左馬頭守親」らの名前が見える光綱の次男,治部少輔守綱は鱒沢氏の祖となり,三男,孫三郎守儀は同族の阿曽沼(宇夫方)小二郎安綱の婿養子となった(県史3-266頁)そして,戦国期の天正7年には,美濃の織田信長のもとに雪白の鷹を献上して奥州に遠野孫二郎ありと内外に知られるほどになった遠野孫二郎とは阿曽沼刑部少輔広郷その人である(県史3-415頁)横田護摩堂山から南方,鍋倉山の新城に本拠地を移したのも広郷の時という(阿曽沼興廃記)だが,その領国経営の内実は,大槌・鱒沢・宇夫方・附馬牛などの同族諸家の統制に苦しむような状態であった葛西晴胤の出兵要請を阿曽沼宗家とは別個に受け取った鱒沢長門守に象徴されるように(同前),これら同族諸家の独立性には並々ならぬものがあったこれら同族諸家の一揆的な結束を突き崩して,阿曽沼宗家の専制的権力を確立することは至難の業であったこれらの同族諸家の連合政権としての性格を脱し得なかったものとみられる対外的にみても,南部・葛西の両超大国の間にあって,独立を維持することは容易なことではなかった天正18年豊臣秀吉の奥州仕置によって遠野領は没収となり,阿曽沼氏は南部の傘下に属して,かろうじて独立を保つこととなったしかし,慶長5年には,南部方と結んだ鱒沢・上野・平清水ら有力家臣による叛乱が起こり,広郷の子息,孫三郎広長は気仙世田米に亡命することになった(阿曽沼興廃記)阿曽沼氏は没落の最後の瞬間に至るまで,一族・家臣の統制に苦しんだのであった天正20年横田・板沢の城が破却されることになった「横田 山城破 信直抱 代官九中左馬助 唐之供」「板沢 山城破 浅沼藤次郎持分」と記されている(諸城破却書上)この両城の破却は遠野保における中世的世界の終末を示す象徴的な事件であったただし,増沢城のみ例外的に破却を免れた「増沢 山城 浅沼忠次郎持分」となる(同前)増沢(浅沼)・南部両氏の密接な関係によるものかなお,遠野保の地名にかわって,遠野郡とする通称が戦国期に見られるたとえば,天正16年7月17日葛西晴信の書状(南部信直宛)に,「彼是用所子細等も候聞,遠野郡ニ於テ,申シ談ジシメ,万鬱ノ儀,互ニ申合スベシ」とあった(県史3-625頁)そして天正20年諸城破却書上の時点では,遠野の諸城は「閉伊郡之内」とする注記が行われるにいたった...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

遠流【おんる】
(現)⇒をんる
花合わせに用いる花札は花カルタともいい、十二か月にあてた植物を描いた各月四枚、計四十八枚の札から成る...

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出典:東京書籍「全訳古語辞典」

遠賀郡
寛文4年幕命により御牧郡を改称して成立...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

遠賀郡
明治11年~現在の郡名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

遠賀荘【おんがのしょう】
(中世)南北朝期~戦国期に見える荘園名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

遠石荘(中世)
 平安末期~戦国期に見える荘園名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

遠賀荘(中世)
南北朝期~戦国期に見える荘園名筑前国御牧【みまき】郡(遠賀郡)のうち「訂正宗像大宮司系譜」によれば,文治5年源平合戦の軍忠の賞として宗像大宮司氏国は源頼朝より遠賀荘の地頭職を与えられたというが,にわかに信じがたい(宗像郡誌中巻)下って,嘉禎4年7月10日の将軍家政所下文案によれば,源(香月)助経は父定経より遠賀新荘の内の香月郷の地頭職を譲られ,これを将軍頼経によって安堵されている(麻生文書/鎌遺5270)この香月郷は香月氏の根拠地で勝木荘という名称も見えることから,遠賀新荘は遠賀荘と別個のものであると考えられるしかし鎌倉期には遠賀荘が存在し,それに対して新荘の名が付けられていたことは確実である遠賀荘が確実に見えるのは南北朝期以降である,観応2年11月2日の足利尊氏袖判下文によれば,足利尊氏は足利直冬を奉じて敵対した少弐頼尚の所領の遠賀荘・宗像【むなかた】西郷・豊前黒田荘を没収し,勲功の賞として大友氏泰に宛行っている(大友文書/南北朝遺3652)一方,翌年の正平7年正月16日,少弐宗祥は亡父少弐貞経(頼尚の父)の本領注文を幕府に提出したが,これに対して尊氏は義詮にこの件を処理するように命じている(筑紫古書追加/大日料6‐16)この注文の中に筑前国の守護職に付属した所領として「遠賀庄 宗像西郷 夜須庄 原田庄」が見えるが,すでに遠賀荘・宗像西郷は大友氏の所領となっており,さらに文和3年2月12日には,幕府は当時九州にあった一色直氏をして,観応2年11月および同年12月の下文に従って,遠賀荘以下の頼尚の闕所地を大友氏泰の弟の氏時に与えている(大友文書/大日料6‐18)ところで,室町期の文明10年8月日の仁和寺知行目録に「一結 遠賀荘」とあり,当荘が仁和寺領であったことを推測させる下って,戦国期の天文22年(21年か)8月の日付をもつ宗像御代寺社武家知行帳によれば,遠賀之衆として支配下の90名の歴名とおよそ240町余の田積が書かれてあるこの遠賀之衆とあるのは天正13年の分限帳と比べれば明らかなように遠賀荘衆のことである(神道大系神社編宗像)永禄3年2月の瓜生益定の遠賀荘山田郷惣田数辻注文によれば,当荘内の山田郷は田数71町2段小あった(宗像神社文書/県史1‐下)この年,前年に筑前国等の守護を兼ねた大友氏に攻められて大島に退いていた宗像大宮司氏貞は,遠賀荘・赤間荘以下の旧領を回復し支配下においたが,遠賀荘には「限芦屋津広渡村」という注記が付されている(宗像記追考/宗像郡誌中巻)また同年3月に氏貞は,遠賀荘天野郷内の給地計5町6反余を竹井重頼の馳走に対し加恩地として領知せしめ,社武役等を勤仕することを命じている(竹井文書/県史1‐下)さらに氏貞は永禄年間に遠賀荘の検見を行うことを命じている(新撰宗像記考証/宗像郡誌中巻)これらのことからして,少なくとも永禄年間以前に遠賀荘は宗像氏の支配下にあったことは明らかであるが,前代とのつながりは明らかではない宗像氏の遠賀荘支配は天正年間にもうかがわれ,同3年宗像大宮司氏貞は吉田彦三郎に対し,遠賀荘吉木郷1町7反を含む父の知行の相続を安堵している(新撰宗像記考証/宗像郡誌中巻)天正10年の遠賀荘御米注進状によれば,貢租高60石2斗5升のうち41石8斗2升6合が同地の高蔵宮年中御神米にあてられ,残り18石4斗2升4合が社納されている(嶺家文書/県史1‐下)また同13年の宗像大宮司分限帳には遠賀荘衆として89名の歴名とおよそ579町6反の所領が書きあげられている(宗像郡誌下巻)遠賀荘の荘域は少なくとも宗像大宮司支配時については,その荘内に天(手)野郷・山田郷・吉木郷を含み,芦屋津・広渡村を限りとするところから,現在の岡垣町の手野・吉木・高倉・山田を含み,一部芦屋町・遠賀町に及ぶ範囲であったと推定される...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

遠敷郡
平氏の勢力を追い,源頼朝の御家人となった遠敷郡の武士としては,稲庭時定・同時通,和久里時継,島時康,木崎基定,国富志則家,丹生出羽房雲厳,宮河頼定,宮河武者所後家藤原氏,虫生頼基,包枝頼時,井口家清,椙若貞通,瓜生清正,安賀上座永厳,安賀時景,鳥羽定範が知られる(京府東寺百合文書ホ)...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

遠慮【えんりょ】
①【控えめ】reserve[U]
━━遠慮する
(ためらう)hesitate(自);(控えめである)be reserved
[参照]⇒ぶえんりょ
*何でも遠慮なく質問してください Don't hesitate to ask me any questions.
*彼は遠慮深い He is reserved.
*君の弱点は他人に遠慮しすぎることだ Your weakness is that you are too reserved towards others.
*彼女には何でも遠慮なく話せる I can tell her anything without reservation. / 彼は遠慮がちに金を貸してほしいと頼んできた He hesitantly asked me to lend him some money. / 遠慮なく言わせてもらえば,君は集中力に欠けるときがある Let me be quite blunt (with you); you sometimes lack concentration. / この問題についての遠慮のない意見をいただきたいと思います We'd like to have your candid opinion on this issue. / 遠慮なくケーキを召し上がってください Please help yourself to the cake. / いつでも遠慮なく電話をしてください Feel free to call me any time.
[会話]
*「こちらにコーヒーを用意してありますので,どうぞご遠慮なく」「ありがとう」 “Please feel free to help yourself to coffee here.” “Thank you.”
[会話]
*「ちょっとおじゃましてもいいかしら」「遠慮しないで(→かしこまらずに)入って」 “May I have some of your time?” “Sure. Come on in. Don't stand on ceremony.”
②【差し控えること】
*おたばこ[携帯電話の使用]はご遠慮ください Please refrain from smoking [using cellular phones].
*ご好意はありがたいのですが,体調が悪いので遠慮させていただきます Thank you for your kind offer, but I'll have to decline it because I'm not feeling very well.(◆declineは「…を丁寧に断る」の意味)
[会話]
*「飲み物はいかがですか」「いや,遠慮しておきます」 “Will you have a drink?” “No, thanks. I'd rather not.”
[慣用表現]
*彼らは彼の最新作を遠慮会釈なくけなした They criticized his latest work mercilessly....

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出典:東京書籍「アドバンスドフェイバリット和英辞典」

遠敷(中世)
 南北朝期から見える地名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

西暦2025年(平成37年)
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