- JLogos検索辞書>
- 御とは
- amazon商品リンク
![]() | 御賀尾浦(中世) 鎌倉期から見える浦名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 御原郡 三原郡とも書いた... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 御井郡 天正15年の豊臣秀吉の九州仕置によって当郡は統一政権下に組み入れられ,秀吉は小早川秀包に筑後のうち3郡(三潴・山本・上妻)を与え,加えて当郡の一部(5か村)もその支配下に置いた... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 御岳村(近世) 江戸期~明治7年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 御津【みつ】 (古代~中世)奈良期から見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 御津(古代~中世) 奈良期から見える地名摂津国住吉郡・西成【にしなり】郡のうち御津村とも称し,三津とも書いた御津は,敷津とも同一といわれ(地名辞書),海浜地帯の広大な地域を指したものと思われる「古事記」仁徳天皇条に「大后豊楽したまはむと為て,御綱柏を採りに,木国に幸行でましし間に,天皇,八田若郎女と婚ひしたまひき」とあり,大后がそれを知って恨み怒って,その御綱柏を海に投げ棄てたために「其地を号して御津前と謂ふ」とある「万葉集」巻19の「天平五年に,入唐使に贈る歌一首」のうちに「難波に下り 住吉の 御津に船乗り」と詠まれており,「三津」と記されている当地は「古事記」仁徳天皇条などに見える「墨江の津」のことであるという(地名辞書)また「行基年譜」行基67歳条に,「呉坂院 在摂津国住吉郡御津」とあり,行基が天平6年,当地に呉坂院を造営したことがわかるなお「延喜式」巻40の造酒司によれば,供奉料などに「三津野柏廿四把」が規定されている難波津の海門である御津埼については,柿本人麻呂が「三津の崎波を恐み隠り江の舟公宣奴嶋尒」と詠み(万葉集巻3),天平5年に笠朝臣金村が入唐使に贈る歌を詠んだうちにも「夕されば 鶴が妻呼ぶ 難波潟 三津崎より 大船に」と見える(万葉集巻8)また「日本書紀」仁賢天皇6年条に「日鷹吉士,使に遣されて後に,女人有りて,難波の御津に居りて」とあり,この年に日鷹吉士が高麗に派遣された際,その従者である麁寸の妻が当地について嘆き悲しんだという同じく斉明天皇5年条によれば,坂合部連石布・津守連吉祥が,唐国に遣わされることになり「難波の三津浦より発す」といい,当地より遣唐使や高麗への使が出航していたまた「続日本紀」天平勝宝5年9月5日条に「摂津国御津村南風大吹,潮水暴溢,壊損盧舎一百十余区,漂没百姓五百六十余人」と見え,暴風と洪水により当地の多くの家屋と百姓が漂没した旨が記されており,この海浜にかなりの集落が形成されていた御津は大伴の御津・難波の御津ともよばれた「万葉集」巻1に「大伴の御津の浜なる忘れ貝家なる妹を忘れて思へや」,「古今集」に「をしてるやなにはの水(御津)にやくしほのからくも我はおいにける哉」,同じく「古今集」の詞書に「おほとものみつのはまべに」などと見え,さらに,当地には大伴氏が居住しており,雄惟郷の地であると推定される(地名辞書)また,摂津職の置かれた地ともいう(同前)「行基年譜」行基77歳条に「大福院,〈御津,二月八日起〉尼院 已上在摂津国西城(ママ)郡御津村」と見え,行基造営四十九院のうちである大福院・尼院が当地に建立されたことがわかる(続々群3)この大福院は,現在の南区三津寺町にある三津寺の前身であるまた「江家次第」巻12の斎王帰京次第の項に7日には「何禊所……三津浜〈下方〉,禊〈擬住吉〉三津浜禊」とあり,当地で禊を行っており,田蓑島と称された地という(地名辞書)同項にはさらに「大江御厨儲所」に帰ったのち,「給国司禄 三津寺諷誦〈綿五十屯 道師十屯〉」と見えるなお当地は平安期以降も多くの歌に詠まれ,「山家集」に「すぐる春しほのみつより船出して浪の花をやさきに立つらん」,「後鳥羽院御集」に「心あらん人の為とやかすむらんなにはのみつの春の明ほの」とあり(続群15下)とあり,このほかにも中世後期に至るまで当地名が見えるまた戦国期の石山合戦の際の両軍の陣を示した石山合戦両軍配陣図(大阪城天守閣蔵/府史)に「三津〈ナンバ・シキヅ・コウツ〉」とあり,川をはさんで,その地に「御津浜」が見え,中世後期には難波・敷津・高津を含む地域であることがわかる現在南区三津寺町に当地名を残すことから,少なくとも比定地は三津寺町を含め,南区高津町・難波新地町,浪速区難波中町・敷津西町・敷津東町を中心とする一帯に比定されるが,古くは,住吉区・住之江区の海浜地帯から南区・浪速区付近までも含んだ広大な地域を指したものと推定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 御供所町【ごぶしょちょう】 (近世~近代)江戸期~現在の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 御供所町(近世~近代) 江戸期~現在の町名江戸期は丸亀城下の1町丸亀平野の北部,土器川河口部の西側河畔に位置し,埋立地を挟んで瀬戸内海に面する丸亀城の北にあたる東西に細長い町で,「西讃府志」には「北平山ヨリ東ニ続キ東川口ニ至ル二町二十間」とある生駒氏による築城にともない,慶長6年当時土居村に属した当地に水夫として宇多津御供所(現坂出【さかいで】市御供所町)の浦人を移住させて成立(三浦漁夫旧記)旧地の地名をそのまま当地名とした地名の由来は,讃留霊王の大魚退治の際,水夫役を勤めた浦人が供御の魚を奉った所の意から起こったという(西讃府志)また,崇徳上皇の讃岐配流に同行した御供の侍人が定住した所の意だとする伝承もある(讃岐中戸の漁業)同時に成立した西平山・北平山とともに三浦とよばれ,生駒・山崎・京極氏時代にわたり加子浦として発展,城下の大年寄の下で庄屋が町政を担当した元禄9年定の庄屋給は300目,畑2反8畝(古法便覧)城下で最も早く成立した町の1つで,万治年間の城下図によれば,生駒氏時代からの町である古町として城下の北東端海岸部に位置し,東側は東汐入川に面している東汐入川は丸亀城外堀とつながれ,城下の防衛線とされたため,当町には船溜の東川口と御供所橋入口の2か所に番所が置かれた加子役は三浦280軒のうち当町85軒・年1,530人分が本役として課せられた(同前)加子役負担のため間役銀・棒役は免除されたが,生駒氏時代から三浦で干鯛1,000枚・馬鮫子150腹を献じた山崎氏時代以降は代銀として間島網代御運上銀400匁が課せられ,またほかに船役銀1端に付3匁宛があった(同前)「西讃府志」によれば,戸数180・人口766(男426・女342,ママ),船数83(80石3・一挺船80),寺院は真言宗真光寺,神祠は意美酒祠真光寺は慶長6年の移住時に宇多津御供所より移された文禄年間の朝鮮出兵および元和年間の大坂の陣での出役により,明暦元年山崎氏より畑8町6反4畝が三浦水夫280人に下賜され,加子地をもった江戸期を通じて浦人の多くが漁業に従事,丸亀藩漁業の中心地となった領海外漁場にも盛んに進出し,承応3年には塩飽【しわく】島との漁場争論に大坂町奉行所の判決が下され,また寛保3年には高松藩領林田沖入漁に関して船1隻に付10匁の運上を支払う約定がなされている江戸後期,金毘羅参詣の隆盛も手伝って商家も増加した明治11年には丸亀町の1町となり,同18年まで東組に所属同23年市制町村制施行により丸亀町の1町となり,同32年市制実施にともなって丸亀市御供所町となる幕末期~明治期漁業人口は増大し,網を使用した瀬戸内漁業が発展,次第に朝鮮近海へも出漁するようになった明治以降も丸亀漁業の中心的役割を果たした明治期には魚市場も開かれ,明治36年には丸亀漁業組合が設置された昭和24年丸亀市漁協となる明治29年設置された丸亀税務管理局は,同35年愛媛県を加えて四国の各税務署を管轄する丸亀税務監督局に発展した同42年には丸亀酒造組合が発足大正6年に丸亀酒造となった明治4年の町の広さ,5,667坪余同21年の戸数321・人口1,426(うち旧士族167),職業別人口は漁業591・商業345・農業204・工業20・雑業266(丸亀市史)昭和期に入る頃まで,町を横断する道(国道,県道を経て,現在は市道)を挟んで北側海岸部に漁家,南側に商家と明確な区域割がなされていたという(瀬戸中戸の漁業)大正期より北側海岸部の埋立てが進み,町域が拡大するとともに,北方に富士見町が成立し,海岸からは遠ざかって細い入江(東汐入川河口部)を残すのみとなった昭和27年の世帯数・人口は532・2,303同55年北平山町と境界変更し,1~2丁目となる同年の世帯数・人口は,1丁目が217・627(男295・女332),2丁目299・945(男442・女503)... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 御救仕組【おすくいしくみ】 ■14 抵抗勢力に内緒で突如断行された「御救仕組」…斬新でユニークな藩政改革もわずか2年で挫折 第10代福岡藩主・黒田斉清は、1833年、引退を家中へ表明するとともに、藩政改革宣言をした... |
出典:日本実業出版「日本史の雑学事典」
![]() | 御供所村(近世) 江戸期~明治21年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 御船城【みふねじょう】 中世の丘城... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」