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[最終更新日:2006-12-11/JLogosid:704925550]
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貝塚町(近世) 江戸期の町名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
貝塚【かいづか】 古くは海塚とも書いた... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
貝塚村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
貝塚村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
貝塚(中世) 室町期から見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
貝塚村【かいづかむら】 (近世)江戸期~明治12年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
貝塚村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
貝塚村(近世) 江戸期~明治12年の村名県東部,荒川左岸の大宮台地上に位置する地名は原始時代の住居址である貝塚があることによるという(地名誌)足立【あだち】郡差扇【さしおうぎ】領のうち古くは高鼻荘に属したというはじめ幕府領,元和9年旗本山内氏の知行,元禄2年幕府領,明和2年一部が旗本松平氏の知行となり,同4年幕府領は川越【かわごえ】藩領,のち天保13年川越藩領は再び幕府領となり,幕末に至る検地は元禄7年村高は「田園簿」で61石余,うち田8石余・畑52石余,「元禄郷帳」59石余,「天保郷帳」60石余村の規模は東西5町・南北8町化政期の家数10軒鎮守は稲荷社神社はほかに愛宕社村内の薬師堂の本尊は行基の作と伝える高札場は村の中央部小名は向ひ山・向ひ原・中原明治4年埼玉県に所属同9年の戸数15・人口71,馬1物産は鶏・鶏卵・米・大麦など飛地が峯岸・辻・宝来・平方4村の間と峯岸村など入会の地にある同12年北足立郡西貝塚村と改称... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
貝塚市【かいづか】 【由来】「海塚」と呼ばれていた地に、16世紀後半、一向宗の自治都市である寺内町が建設され、以来「貝塚」の名が広まった... |
出典:東洋経済新報社「都市データパック(市章)」
貝塚村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
貝塚町(近代) 明治22年~昭和18年の自治体名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」