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![]() | 風【かぜ(1)】 wind[C][U](◆形容詞を伴わないときは通例theを付ける);(そよ風)breeze[U][C];(強風)gale[C];(すき間風)draft[C] *涼しい風 a cool breeze / 一陣の風 a gust of wind / 風力8の風 a force‐eight gale *天気予報によると,あすは南風が吹くようだ The weather forecast says the wind will blow from the south tomorrow. *きのうは風が強かった There was a strong wind yesterday. *風が激しくなってきた[弱まってきた] The wind is 「picking up [subsiding]. *風がやんだ The wind has stopped. *風はたいしてなかった There was not much (of a) breeze. ◆*政界の新しい風(→勢力) a new political force / 彼の自転車はさっそうと風を切って走った He rode briskly on his bicycle. [複合語]追い風 a tailwind / 潮風 a sea breeze / つむじ風 a whirlwind / 向かい風 (a) headwind [慣用表現] *風が吹けば桶屋(おけや)がもうかる(→物事は意外なところに影響を及ぼすことがある) Things sometimes bring about most unexpected consequences. / 彼がアメリカの大学に入学したと風の便りに聞いた I heard from someone [People say,《口語的》A little bird told me] (that) he entered a university in the U.S. / おごってくれるなんてどういう風の吹き回し?(→何が私におごる気にさせたのか) Whatever made you treat me? / 肩で風を切って歩く [参照]⇒かた(1)[慣用表現] / どこ吹く風 [参照]⇒どこ[慣用表現] [ことわざ] *あしたはあしたの風が吹く [参照]⇒あした [関連語] *季節風 a seasonal wind / 逆風 an adverse wind / 木枯らし a wintry wind / 順風 a fair [following] wind / 台風 a typhoon / 竜巻 a tornado, a cyclone / 春一番 the first spring gale / 暴風雨 a storm [短歌] *秋来(き )ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる(藤原敏行) Has autumn arrived? My eyes are still uncertain, for I see no signs. But the rustle of the breeze thrills me with the sound of fall. |
出典:東京書籍「アドバンスドフェイバリット和英辞典」
![]() | 風景構成法 中井久夫の創案になる.①方法:はじめは箱庭療法への導入の適否を判定する資料としての意味あいもあったという.B5のケント紙にサインペンでまず枠を描く.枠なしの技法もある.川,山,田,道,家,木,人,草花,動物,岩・石・砂,その他つけ加えたいものの順に描く.次にクレヨンで色を付ける.最後に味わいつつ,絵についてすこし話す.診断の意味もあり精神内界の再構成の意味もある.患者は解釈を聞きたがるが,1枚の絵ですべてがわかるというものでもない.中井はP型(paranoid)とH型(hebephrenie)に分けている.解釈はこの程度が妥当であると思う.生活で観察される精神機能から推定される風景構成と,実際に描いた風景構成が著しく食い違うことがある.予想外に高く出る場合と,予想外に低く出る場合とがある.このあたりも診断的価値がある.風景構成法の難点は,絵の上手と下手とでは所見の意味が違ってくることである.人が線画になったとして,書き慣れていない,または下手であるということなのか,人間に対する態度の何かが反映されているのか,線画という所見だけからははっきりしたことはいえないだろう.この難点を解消する技術が求められる.②解釈:治療者は患者個人に特有のイメージシステムを理解し,それを前提として解釈する.例えばうさぎが描かれたとして,それは何を意味するのかと考える.その際に,昔の夢分析ハンドブックのように公式の当てはめになってはいけない.そのイメージはその人の心のどの層のどの部分から出てきたのか,その人の心に即して考察する必要がある.一般化しすぎることは危険であり,むしろ内容ではなく形式を解釈する態度が必要である.ロールシャッハの解釈に似ていると考えてもよい.各個人の内部のイメージシステムを個人的意識,個人的無意識および集合的無意識に分類して考える.個人的無意識とは個体発生(生育歴)の途上で蓄えられたもので,集合的無意識とは系統発生の途上で蓄えられたものである.各アイテムがどの層から出現し,どの層の加工を受けたものかを考えることで,患者の病態レベルを推定できる可能性がある.逆に,絵画などで表現することによって,イメージシステムが次第に明らかになる面もある.治療に伴って変化もする.その変化を患者治療者で共に味わうことが大切である.風景構成法にも,陽性所見と陰性所見が含まれている.例えば,他の構成度は高いのに,人が線画になっている場合.また,家だけが色を塗られず放っておかれている場合.これらはいったん高度に構成されたものが部分的に解体したものと見なすことができるだろう.これは強いサインである.③治療的意義:自分を表現する手段として言葉とは別の経路を使うことにまず意義がある.つぎに治療者との関係も言葉を解したものとは別のものになる可能性がある.さらには「風景構成の再獲得により,世界連関を再獲得する」ことができれば治療的である.しかしこれが可能かどうかははっきりしない.「世界連関の再獲得は風景構成の再獲得につながる」ことは確かだと思うが.④観察自我:自分で描いた絵を下手だとか,不自然だとか評価できる場合も多い.この場合には,描く機能としての風景構成(世界連関)は失われているが,それを観察して評価する部分の風景構成は失われてはいないことになる.これはまた考えてみれば,体験自我と観察自我の分離を前提とした場合,観察自我は解体されずに保持されていることを示している.従って治療も観察自我と共同すること(治療同盟)が有効であることになる.... |
出典:丸善「こころの辞典」
![]() | 風景構成法 中井久夫の創案になる.①方法:はじめは箱庭療法への導入の適否を判定する資料としての意味あいもあったという.B5のケント紙にサインペンでまず枠を描く.枠なしの技法もある.川,山,田,道,家,木,人,草花,動物,岩・石・砂,その他つけ加えたいものの順に描く.次にクレヨンで色を付ける.最後に味わいつつ,絵についてすこし話す.診断の意味もあり精神内界の再構成の意味もある.患者は解釈を聞きたがるが,1枚の絵ですべてがわかるというものでもない.中井はP型(paranoid)とH型(hebephrenie)に分けている.解釈はこの程度が妥当であると思う.生活で観察される精神機能から推定される風景構成と,実際に描いた風景構成が著しく食い違うことがある.予想外に高く出る場合と,予想外に低く出る場合とがある.このあたりも診断的価値がある.風景構成法の難点は,絵の上手と下手とでは所見の意味が違ってくることである.人が線画になったとして,書き慣れていない,または下手であるということなのか,人間に対する態度の何かが反映されているのか,線画という所見だけからははっきりしたことはいえないだろう.この難点を解消する技術が求められる.②解釈:治療者は患者個人に特有のイメージシステムを理解し,それを前提として解釈する.例えばうさぎが描かれたとして,それは何を意味するのかと考える.その際に,昔の夢分析ハンドブックのように公式の当てはめになってはいけない.そのイメージはその人の心のどの層のどの部分から出てきたのか,その人の心に即して考察する必要がある.一般化しすぎることは危険であり,むしろ内容ではなく形式を解釈する態度が必要である.ロールシャッハの解釈に似ていると考えてもよい.各個人の内部のイメージシステムを個人的意識,個人的無意識および集合的無意識に分類して考える.個人的無意識とは個体発生(生育歴)の途上で蓄えられたもので,集合的無意識とは系統発生の途上で蓄えられたものである.各アイテムがどの層から出現し,どの層の加工を受けたものかを考えることで,患者の病態レベルを推定できる可能性がある.逆に,絵画などで表現することによって,イメージシステムが次第に明らかになる面もある.治療に伴って変化もする.その変化を患者治療者で共に味わうことが大切である.風景構成法にも,陽性所見と陰性所見が含まれている.例えば,他の構成度は高いのに,人が線画になっている場合.また,家だけが色を塗られず放っておかれている場合.これらはいったん高度に構成されたものが部分的に解体したものと見なすことができるだろう.これは強いサインである.③治療的意義:自分を表現する手段として言葉とは別の経路を使うことにまず意義がある.つぎに治療者との関係も言葉を解したものとは別のものになる可能性がある.さらには「風景構成の再獲得により,世界連関を再獲得する」ことができれば治療的である.しかしこれが可能かどうかははっきりしない.「世界連関の再獲得は風景構成の再獲得につながる」ことは確かだと思うが.④観察自我:自分で描いた絵を下手だとか,不自然だとか評価できる場合も多い.この場合には,描く機能としての風景構成(世界連関)は失われているが,それを観察して評価する部分の風景構成は失われてはいないことになる.これはまた考えてみれば,体験自我と観察自我の分離を前提とした場合,観察自我は解体されずに保持されていることを示している.従って治療も観察自我と共同すること(治療同盟)が有効であることになる.... |
出典:丸善「こころの辞典」
![]() | 風本浦【かざもとうら】 (中世)南北朝期~戦国期に見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 風本浦(中世) 南北朝期~戦国期に見える地名壱岐【いき】国壱岐郡のうち「老松堂日本行録」永楽18年(応永27年)3月2日条に「一岐島干沙毛梁」とあり,当地は「かざもと」と呼ばれていたと思われるこの条によれば,干沙毛梁の西の島に回礼使を祀った石窟があったという「海東諸国紀」には壱岐十四浦の1つとして「風本浦〈倭訓間沙毛都于羅〉」とある同書の「一岐島之図」には「自訓羅串,至此四十八里」と見え,対馬の船越浦から風本浦まで48里と記され,東の「世渡浦」や南の「毛都伊浦」への航路も記入されている風本浦は,古代より駅家の地であり,壱岐の北の玄関口として重要な港である「島井家記録」元亀元年5月21日条によれば,「壱岐カザモトヨリ諸品積送ル」と見え,博多の商人島井宗叱(室)が当地より荷物を送り,また同書によれば,天正19年6月大坂城に登城した島井宗叱(室)は,朝鮮出兵を企図する豊臣秀吉・徳川家康に,朝鮮までの里程を「肥前名護屋より壱岐カサモトへ拾六里,夫より豊崎浦・鰐浦へ弐十三里,同所より釜山浦迄四十八里とハ申候へ共,此間之道程ハ短く覚申候,名護屋より釜山浦迄,日本行程百弐拾三里ニハ短可有御座奉存候」と述べたという(福岡県史資料6)風本浦は,秀吉の朝鮮出兵の中継基地となり,文禄元年3月から行われた文禄の役にあたり,「朝鮮日々記」は「諸国ノ家陣トシテ名護屋ヨリ廿里,平渡ヨリ八十八里ノ渡海ヲシテ,先壱岐ノ風モトニ着ク,内島ノ浦々ニ大船小船イク千万ソウカズハシレス」と記している(改訂史籍集覧25)また,文禄の役に参加した大名のうち,伊達氏については「伊達日記」に文禄元年正月「廿二日追手舟政宗御舟ハ壱岐ノ風本ト申所迄御着舟ニ候,二月原田左馬助・富塚近江渡海申サレ候,是モ日ヨリ無之風本ニ居申サレ候,浅野弾正殿御父子ノ船,伊達上野・石川大和・片倉小十郎・白石若狭舟風本迄参,中途ニ舟相懸リ,翌日日和ヨク弾正殿御舟ヲハジメ何レモ対馬助府中迄御出候,政宗公ハ弾正殿御舟通候由被聞召,御舟ヲ被出候ヘドモ風悪ク又風本ヘ御モドリ,四五日御逗留候而漸対馬御着候」とある(群書21)また,文禄の役に参加した島津氏の家臣大島忠泰は,文禄2年8月18日肥前名護屋の沖へ着き,翌19日風に乗り20日早朝に当地に着いたとある(旧記雑録後編2)また,慶長の役に際しても,慶長2年と推定される2月10日の相良頼兄言上状によれば,頼兄が風本で加藤清正に参会し,清正の指南により壱岐に滞留していると東喜兵衛尉に報じている(相良家文書2/大日古)慶長3年3月晦日の浅野幸長高麗陣雑事覚書によれば,幸長は3月20日風本を出発し,翌21日肥前名護屋に着いている(浅野家文書1/同前)朝鮮渡海にあたって,順風であれば肥前名護屋から1日で風本に着き,さらに風本から1日で対馬に着くのが普通であったまた,当地は朝鮮出兵の中継基地としてにぎわったものと思われるまた,天正20年頃と推定される4月24日の豊臣秀吉朱印状によれば,秀吉は細川忠興に風本の御座所普請を命じており,当地には秀吉の御座所を中心とする城郭が築かれた(細川文書/熊本県文化財調査報告29)また,文禄年間から慶長初年と推定される12月20日の寺沢正成書状によれば,有浦大和守などに対し,岡本の城の番が命ぜられている(有浦文書/佐賀県史料集成19)現在の勝本町勝本浦に比定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 風邪【かぜ(2)】 cold[C][U],common cold[C];(インフルエンザ)《公式的》influenza[U],《口語的》flu[U] *かぜをひく catch [get] (a) cold / かぜをひいている have a cold / ひどい[軽い]かぜ a bad [slight] cold / かぜをひきやすい susceptible to colds / かぜをひき直す catch another cold *由美はかぜで3日間学校を休んでいる Yumi has been absent from school for three days because of a cold. *彼女は弟からかぜをうつされた She caught a cold from her brother. *今年のかぜはしつこい This year's colds are stubborn [hard to shake off]. *かぜをこじらせるといけないから出かけちゃだめよ Don't go out. It'll make your cold worse. *学校でかぜがはやっている The flu is spreading [going around] in our school. *かぜは万病の元 A cold can develop into all kinds of diseases. *かぜの諸症状には発熱,鼻水,のどの痛みなどがある The symptoms of a common cold include a fever, a runny nose, and a sore throat. ![]() *「今夜のパーティー,来る?」「いや,やめとく.かぜぎみなんだ」 “Are you coming to the party tonight?” “I don't think so. I have a touch of a cold.” [複合語]かぜ薬 cold medicine / かぜ声 (しわがれ声)a hoarse voice;(鼻声)a nasal voice / 夏かぜ a summer cold / のどかぜ a sore throat / 鼻かぜ a head cold(◆×a nose cold) [関連語] *くしゃみ a sneeze / せき a cough / 鼻詰まり the sniffles / 鼻水 (watery) mucus,《口語的》snot... |
出典:東京書籍「アドバンスドフェイバリット和英辞典」
![]() | 風早郷【かざはやのごう】 (古代)平安期に見える郷名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 風早郷(古代) 平安期に見える郷名「和名抄」安芸国高田郡七郷の1つ現在の高田郡向原町のうち坂・長田・保垣・有留などが郷域と推定される「和名抄」には「風速」とあり,道円本・高山寺本ともに訓は「加佐波也」治暦元年10月3日に伴利重が丹治部近恒に「風早郷柏木」の私領田を,延久元年5月10日には間人岡武が丹治部近恒に「風早郷柴治村」の私領田をそれぞれ沽却している(野坂文書)近恒は国衙の書生で,三田郷の郷務を分掌する公文預の地位にあったこののち,近恒は三田・風早両郷にわたって11町6反120歩の土地を集積し,長治3年2月24日付で郡司藤原頼成にそれらの土地を沽却している(徴古雑抄)風早郷に隣接する三田郷を本拠地とする藤原氏は,これ以前,承保3年2月10日に風早郷本垣中千原村の私領田を書生凡貞行から買得しており(野坂文書),この頃から,かつてこの郷を拠点として高田郡大領の地位にあった凡氏から藤原氏に本領主の地位が転換していったのであろうそして,承暦2年9月2日の安芸国司庁宣によって,藤原頼方は正式に風早郷郷司職に補任され,さらにその1か月後の10月3日の譲状で嫡子頼成に対し,三田・風早を譲渡しており,国司源俊輔から証判を得ている(御判物帖)応徳2年3月16日の高田郡司藤原頼方所領畠立券文には,帆垣村・中村・久志奈木村・上原村・大江村・大寺村・阿佐牟田村・平村・有見村などの村名が見える嘉保2年8月15日藤原頼成は高田郡七郷のすべてにわたる合計319町の畠地の相伝領知を国守藤原有俊から認められているが,風早郷は45町であった(新出厳島文書)頼成は嘉保3年12月26日には三田・風早・麻原・甲立4郷の郡司職(郷司職)に補任され,のち永長2年3月5日には粟屋・船木郷の郷司職にも補任されたこうして藤原氏は本居地の三田郷以外に,高田郡の5郷の郷司職を兼任し,高田郡全体に土地を領有することになったしかし,天仁3年3月10日頼成が子息成孝に譲与しえたのは三田・風早両郷のみであった(御判物帖)大治2年3月の安芸国高田郡司解では藤原成孝先祖伝来の所領田畠や桑・栗などが列挙されており,平村・大江村・田口村・小曹司村・和田村・竹田村・本垣村・長田村などの村名が見える(新出厳島文書)成孝は譲与を受けてから29年後の保延5年に至ってようやく「可執行郷務」という留守所符を得た(徴古雑抄)同年6月,成孝は三田・風早両郷の私領田畠などを中原師長に譲り,下司に補任せられんことを請うている(浅野忠允氏旧蔵厳島文書)仁平元年3月には成孝は養子源頼信に三田・風早両郷を譲っている(巻子本厳島文書)さらに,源頼信は仁安2年6月15日,三田・風早両郷の田畠・栗林などに関する相伝文書を厳島神社神主佐伯景弘に譲与した(新出厳島文書)こののち,安元2年7月に安芸国司藤原保房により高田郡七郷が厳島社領として認められ,神主佐伯景弘が地頭に補任されることになった(御判物帖・新出厳島文書)そして寿永元年3月には景弘から嫡子景信へ風早郷を含む7郷が譲渡されている(新出厳島文書)... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 風早郡 当郡の領主ははじめ来島城主(野間郡)来島通総が1万4,000石を支配したが,慶長5年豊後国(大分県)森へ転封... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 風姿花伝【ふうしかでん】 作者・成立 作者は世阿弥ぜあみ(一三六三?~一四四三?)... |
出典:東京書籍「全訳古語辞典」
![]() | 風間浦村【かざまうらむら】 (近代)明治22年~現在の下北郡の自治体名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」