- JLogos検索辞書>
- 午とは
- amazon商品リンク
![]() | 午後【ごご】 (正午から夕方まで)afternoon[U][C];(正午から真夜中の0時までの時刻)p.m., P.M.(◆ラテン語で「正午の後」を意味するpost meridiemの略.時刻を表す数字の後に付けて用いる) *午後早く[遅く]に in the early [late] afternoon / 日曜の午後に on Sunday afternoon / きょう[あす,きのう]の午後に this [tomorrow, yesterday] afternoon *午後には雨もあがるだろう The rain will stop in the afternoon. *私は午後ずっと本を読んでいた I was reading a book all afternoon. *その店は午前11時から午後8時まであいている The shop is open from 11 a.m. to 8 p.m. *私は午後6時55分発の福岡行きの便を予約した I made a reservation on the flight for Fukuoka leaving at 6:55 p.m. |
出典:東京書籍「アドバンスドフェイバリット和英辞典」
![]() | 午王ノ内村【ごおうのうちむら】 (近世)江戸期の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 午王ノ内村(近世) 江戸期の村名周防【すおう】国玖珂【くが】郡須通村のうち島田川の支流中山川の中流域に位置し,一部の低地を除き丘陵地に立地する地名の由来は,「午王壺ヲ埋置タル所」から起こったという(享保増補村記)隣接の萩藩領上久原村にも同じ地名があり,「注進案」では,同所午王ノ内の由来は,昔二井寺山の寺領であったところ「貢物皆済之受取書牛王の裏ニ認,里民之与へられ」たことによるという岩国藩領玖珂組に属す寛永20年に玖珂本郷村から分村して成立村高は寛永20年に201石余,寛文12年も201石余,元禄17年に203石余蔵入地と給領地は,同年には12石余と189石余(享保増補村記)享保13年の家数30,享保11年の人数173,うち男97・女76,小名に馬路・山手・井手原・畑ケ迫・小野(木野)がある(同前)元禄8年,吉川広紀は古刹二井寺の大坊極楽寺,槙本坊・修善坊を造営し,旧来からの中谷坊と上久原の尾崎坊を合わせて5坊に再興,寺領60石を寄附した二井寺は,天平16年玖珂郡大領秦皆足の草創で,往古24坊を数え,のち後白河法皇が18坊を再建(寺社由来・二井寺山由来記)周防国を代表する六部の寺(塩尻)であった享保9年の「御所務算用状」には,当村の村高は用田村とともに須通村に含まれた明治7年須通村から分離,ともに分離した用田と合併して用田村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 午起【うまおこし】 (近代)昭和43年~現在の四日市市の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 午北【うまきた】 長良(ながら)川左岸に位置する... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 午房平村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 午木【うまき】 (中世)戦国期に見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 午木(中世) 戦国期に見える地名小豆【しようど】島草加部荘のうち安田大川の左岸に開けた地西は宮山により海と遮断されているが,もとは宮山の北側まで海岸線が入り込んでいたようである東は平地が広がっており,田が多く開けている北は川を隔てて安田に接し,南は苗羽【のうま】に接する明応9年正月の利貞名外五名田畠塩浜等日記(赤松家文書/新編香川叢書)に,「久末名塩浜坪在所之事」として記載が見える同史料によると,田畑は少数であり,大部分が塩田である久末名の塩浜は午木に集中し35を数え,28石余の生産があった当地から隣接の安田にかけて塩浜が多く開かれていた江戸期の苗羽村のうち現在苗羽のうちに馬木の集落がある... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 午【うま】 ((平安時代以降「むま」とも書く))[1]十二支の七番目... |
出典:東京書籍「全訳古語辞典」
![]() | 午南新田(近世) 江戸期~明治30年の新田村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 午南【うまみなみ】 木曽川と長良(ながら)川の合流地点付近に位置する... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」