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「吾」の関連ワード⇒ ワンステップ ワンタッチ ワンダン 

吾【ご】

{人}
【1】自分...

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[最終更新日:2006-12-11/JLogosid:705017450]
関連項目: ワンステップ ワンタッチ ワンダン 


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→無料版JLogos【吾(ご)】

ベネッセ国語辞典 電子特別編集版

『福武国語辞典』を元に編集した電子特別編集版。日々の仕事・生活の中で使われる言葉や意味、用法が重要な現代語を中心に約6万語を収録。文章を書く際に役立つよう用例を多く掲載するなど使いやすさを追求した国語辞典。

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吾川郡

慶長5年関ケ原の戦に長宗我部氏は西軍に属して敗れ,除封となった

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

吾橋荘【あばしのしょう】
(中世)平安期~室町期に見える荘園名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

吾橋荘【あばしのしょう】
(中世)平安期~室町期に見える荘園名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

吾橋荘(中世)
平安期~室町期に見える荘園名長岡郡・土佐郡のうち「あがはし」ともいい,古代には「延喜式」に見える吾椅駅があったとされており,古くは吾橋山と見える初見は,安元2年12月3日の在家役免除状で「土佐国(ママ)北条吾橋山 奉免 長徳寺并王子殿四至」とあり(古文叢),長徳寺ならびに若一王子社の四至内の在家役を免除している長徳寺については,建武元年4月日の長徳寺院主宗賢申状に,「右当寺者吾橋山開発領主頼則・盛政等,去久安五年定置寺領四至堺,奉施入荒野以来云」とあり(同前),久安5年に当地の開発領主である頼則と盛政が菩提寺として吾橋山長徳寺を建立したことがわかるなお「編年紀事略」は「按ニ頼則盛政ハ永和弐年三月九日前信濃守ノ先祖ニシテ八木氏ノ人ト見エタリ」と記しており,本山の領主である八木氏の祖にあたる頼則・盛政によって当地の開発が進められたと考えられるまた「副進 三通 地主寄進状案〈久安・応保・安元此外文書等数通雖在略之〉」などと見え,久安5年に当地を荘園として寄進したことがうかがわれるが,弘安11年正月5日の熊野惣公文良懸(通カ)下知状に「自往代,為熊野権現之御懸地,経年序処」とあるところから(古文叢),紀伊熊野神社領であったと思われるいずれにしても鎌倉期には熊野神社が荘園領主であったが,嘉禎2年12月11日の土佐国留守所下文(同前)では,荘内の下永田にある白我社の供田3反の貢納の免除を国衙留守所が行っていると考えられるその後,寛元2年8月3日の土佐国守護所下文では若宮王子の修理田5反の万雑公事を守護が免除の形で寄進している(同前)また宝治元年12月日の地主小野某狩野寄進状によれば,久安5年に長徳寺建立に際して寄進された土地が荒廃して守護所の狩野となっていたが,これを再開発し改めて長徳寺に寄進する旨が記されており(同前),当荘域における守護勢力の浸透が知られる建長6年12月23日付の熊野社からのものと思われる某袖判禁制には「吾橋長得寺内乱入甲乙人等且致仕部等狼藉由事」と見え,熊野社の荘園支配が衰退しつつあることがうかがえる(同前)地頭の荘園侵食については,先の弘安11年の下知状では,地頭が荘内を荒らして牛馬や米穀を掠め取ったことに対し,熊野山は満山の衆議で近隣の山伏や先達を動員しているこれに対して正安2年3月18日の大須賀左衛門尉平某下知状(同前)では,熊野山は六波羅探題に訴えているが,特別に下文を得たわけではなく,地頭領であるから地頭の沙汰に従うよう下知されており,地頭の支配力の伸張がみられるさらに地頭の背後には守護の存在があり,徳治3年2月10日の左衛門尉某施行状では「吾橋山内長徳寺院主職」が守護代と考えられる大須賀殿の下知を受ける形で安堵されている(同前)しかし領家については,元弘3年11月13日の尊良親王令旨案によれば,尊良親王領となっていることがわかる(同前)また先に引用した建武元年の申状では,森郷北泉の地頭陰山孫五郎の押妨を受け,建武2年11月18日の沙弥某安堵状では,「地頭方仕部以下甲乙人」などによる押妨に対し,長徳寺領として安堵すべきことが認められている(同前)その後,観応2年2月18日の源某奉書および同4月25日の源某禁制では,長徳寺に対しそれぞれ祈祷と寺領の保護を命じており(同前),この発給者については足利尊氏とする説もあるが,細川一族のものとも考えられている(県史古代中世)いずれにしても武家による当荘の支配の進展がうかがわれ,応安7年12月15日の某袖判補任状では清高女が「吾橋庄内惣一職」に補任されており,信濃守八木が奉じている(古文叢)八木氏は永和2年3月9日の前信濃守八木某寄進状によって,当荘と推定される下地を寺領として寄進している(同前)八木氏は,前述したように開発領主の系譜を引き,長徳寺院主職と当荘の荘官を兼ねたが,その一族がやがて地頭として当荘の支配を行うに至ったものと思われるなお八木氏については「土佐日記」に「やぎ(八木)のやすのりといふひとありこのひと,くに(国)にかならずしもいひつかふものにあらざなり」とあり(古典大系),土佐国衙付近の土豪と考えられている(本山町史)四国山地に囲まれ,吉野川上流に汗見川および地蔵寺(森)川が合流する付近に位置し,現在の本山町寺家を中心として土佐町の一部を含む地域に比定されるが,荘域の詳細については不明...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

吾橋荘(中世)
平安期~室町期に見える荘園名長岡郡・土佐郡のうち「あがはし」ともいい,古代には「延喜式」に見える吾椅駅があったとされており,古くは吾橋山と見える初見は,安元2年12月3日の在家役免除状で「土佐国(ママ)北条吾橋山 奉免 長徳寺并王子殿四至」とあり(古文叢),長徳寺ならびに若一王子社の四至内の在家役を免除している長徳寺については,建武元年4月日の長徳寺院主宗賢申状に,「右当寺者吾橋山開発領主頼則・盛政等,去久安五年定置寺領四至堺,奉施入荒野以来云」とあり(同前),久安5年に当地の開発領主である頼則と盛政が菩提寺として吾橋山長徳寺を建立したことがわかるなお「編年紀事略」は「按ニ頼則盛政ハ永和弐年三月九日前信濃守ノ先祖ニシテ八木氏ノ人ト見エタリ」と記しており,本山の領主である八木氏の祖にあたる頼則・盛政によって当地の開発が進められたと考えられるまた「副進 三通 地主寄進状案〈久安・応保・安元此外文書等数通雖在略之〉」などと見え,久安5年に当地を荘園として寄進したことがうかがわれるが,弘安11年正月5日の熊野惣公文良懸(通カ)下知状に「自往代,為熊野権現之御懸地,経年序処」とあるところから(古文叢),紀伊熊野神社領であったと思われるいずれにしても鎌倉期には熊野神社が荘園領主であったが,嘉禎2年12月11日の土佐国留守所下文(同前)では,荘内の下永田にある白我社の供田3反の貢納の免除を国衙留守所が行っていると考えられるその後,寛元2年8月3日の土佐国守護所下文では若宮王子の修理田5反の万雑公事を守護が免除の形で寄進している(同前)また宝治元年12月日の地主小野某狩野寄進状によれば,久安5年に長徳寺建立に際して寄進された土地が荒廃して守護所の狩野となっていたが,これを再開発し改めて長徳寺に寄進する旨が記されており(同前),当荘域における守護勢力の浸透が知られる建長6年12月23日付の熊野社からのものと思われる某袖判禁制には「吾橋長得寺内乱入甲乙人等且致仕部等狼藉由事」と見え,熊野社の荘園支配が衰退しつつあることがうかがえる(同前)地頭の荘園侵食については,先の弘安11年の下知状では,地頭が荘内を荒らして牛馬や米穀を掠め取ったことに対し,熊野山は満山の衆議で近隣の山伏や先達を動員しているこれに対して正安2年3月18日の大須賀左衛門尉平某下知状(同前)では,熊野山は六波羅探題に訴えているが,特別に下文を得たわけではなく,地頭領であるから地頭の沙汰に従うよう下知されており,地頭の支配力の伸張がみられるさらに地頭の背後には守護の存在があり,徳治3年2月10日の左衛門尉某施行状では「吾橋山内長徳寺院主職」が守護代と考えられる大須賀殿の下知を受ける形で安堵されている(同前)しかし領家については,元弘3年11月13日の尊良親王令旨案によれば,尊良親王領となっていることがわかる(同前)また先に引用した建武元年の申状では,森郷北泉の地頭陰山孫五郎の押妨を受け,建武2年11月18日の沙弥某安堵状では,「地頭方仕部以下甲乙人」などによる押妨に対し,長徳寺領として安堵すべきことが認められている(同前)その後,観応2年2月18日の源某奉書および同4月25日の源某禁制では,長徳寺に対しそれぞれ祈祷と寺領の保護を命じており(同前),この発給者については足利尊氏とする説もあるが,細川一族のものとも考えられている(県史古代中世)いずれにしても武家による当荘の支配の進展がうかがわれ,応安7年12月15日の某袖判補任状では清高女が「吾橋庄内惣一職」に補任されており,信濃守八木が奉じている(古文叢)八木氏は永和2年3月9日の前信濃守八木某寄進状によって,当荘と推定される下地を寺領として寄進している(同前)八木氏は,前述したように開発領主の系譜を引き,長徳寺院主職と当荘の荘官を兼ねたが,その一族がやがて地頭として当荘の支配を行うに至ったものと思われるなお八木氏については「土佐日記」に「やぎ(八木)のやすのりといふひとありこのひと,くに(国)にかならずしもいひつかふものにあらざなり」とあり(古典大系),土佐国衙付近の土豪と考えられている(本山町史)四国山地に囲まれ,吉野川上流に汗見川および地蔵寺(森)川が合流する付近に位置し,現在の本山町寺家を中心として土佐町の一部を含む地域に比定されるが,荘域の詳細については不明...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

吾妻郡
源頼朝より少し遅れて挙兵した木曽義仲は,治承4年10月13日亡父義賢の縁故を頼り上野国多胡荘に入部した(吾妻鏡/国史大系)...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

吾川山荘【あがわやまのしょう】
(中世)南北朝期~室町期に見える荘園名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

吾川山荘(中世)
南北朝期~室町期に見える荘園名吾川郡のうち貞和3年11月15日の年紀を有する日下【くさか】村小村神社(現日高村)の棟札に「為吾河山別苻山横河山以下……所役国衙徴下被加修理事先例也」とある(木屑)また同様の旨を記した仁治元年10月19日付の棟札も存在し(同前),立荘の経緯については不明であるが,古くから別符山・横河山などとともに国衙の諸役を勤仕する地であったことがうかがわれる暦応3年12月19日の細川皇海預置状には「土佐国吾河山預所職事,為兵糧䉼所々預置也」と見え(佐伯文書/拾遺),南北朝期には当地域一帯が武士の侵食を受けており,北朝にくみした堅田又三郎に兵糧料所として預け置かれていることがわかるまた文和3年2月晦日の三浦道祐寄進状案には,「土佐国吾川山庄内上谷川村事」と見え,三浦下野守道祐は当荘内の上谷川(上八川)村を「美作国西高田床(庄)内甘波村并安名」の替地として春屋妙葩に寄進されている(吸江寺文書/拾遺)三浦道祐は妙葩と関係が深く,妙葩の師夢窓疎石の天竜寺造営にも関わっていることなどから妙葩への寄進が行われたと考えられるその後,永徳2年12月15日の春屋妙葩管領寺院目録宝幢寺の項に「土佐国吾川山地頭職」と見え,当荘の地頭職を妙葩は自らの管領する宝幢寺に寄進している(鹿王院文書/神奈川県史古代中世資料編3下)なお応永18年3月17日の将軍安堵状及宝幢寺鹿王院目録にも同様の記載があるが,永享7年5月16日の宝幢寺鹿王院領目録には「土佐国吾川山地頭領家一円」と見え,当荘の地頭職のみならず領家職も宝幢寺領となっており(同前),至徳元年11月3日の太政官牒では「吾河山内小河村地頭職等事」と記され,伊勢神宮の役夫工米などの諸役や段銭を免除されている(鹿王院文書/東大史料編纂所架蔵写真版)また同年卯月2日付の春屋妙葩書状に「当年〈至徳之甲子〉今年貢之内拾貫文為吸江修理奉加申候……吾川山之内吸江庵分〈桃木谷〉厳密可渡吸江候也」とあり,さらに応永4年5月14日の某施行状から三浦道祐が妙葩に寄進した時点で当荘のうちの桃木谷分が吸江庵領となっていることがわかるただし同文書には「庄主違乱」「不可有庄主綺」などと見え,宝幢寺から任命された僧が荘内の管理にあたっており,吸江庵分の違乱が起きていた旨が見えるなお寛正4年6月日の吸江庵定書には桃木谷について「一,普明国師(妙葩)之御位牌可安祖堂依桃木山一名御寄進也」とある(吸江寺文書/古文叢)その後,文明10年5月28日の将軍家御判御教書(鹿王院文書/大日料8‐10)では,宝幢寺領荘園を寺家に返付すべき旨が命ぜられているが,このうちに当荘名が見え,戦国期には当荘の領有をめぐって問題が生じていたことがわかるなお大永7年10月11日の年紀を有する貴船神社の棟札には「土州吾河山下分神谷村貴船社」と見える当荘は,上谷川村・小川村・桃木谷(山)などを含み,天正17年の下分七名地検帳および同18年の小川村々地検帳・後山小川村地検帳・津賀才地検帳・片岡本村地検帳・片岡地検帳などに見える村々にあたるものと思われ,現在の吾北【ごほく】村を中心に,吾川村および伊野町の各一部を含む地域に比定される...

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吾雀荘(中世)
 平安末期~戦国期に見える荘園名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

吾妻郡
天正18年徳川家康の関東入部により利根郡沼田に真田信幸が封じられ,その所領の一部が当郡内にも設定された...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

吾妻郡
「日本書紀」景行天皇40年是歳条に,「則ち甲斐より北,武蔵・上野を転歴りて,西碓日坂に逮ります...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

西暦2025年(平成37年)
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