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「恒」の関連ワード⇒ ワンステップ ワンタッチ ワンダン 

恒【こう】

{常}
つね...

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[最終更新日:2006-12-11/JLogosid:705018390]
関連項目: ワンステップ ワンタッチ ワンダン 


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ベネッセ国語辞典 電子特別編集版

『福武国語辞典』を元に編集した電子特別編集版。日々の仕事・生活の中で使われる言葉や意味、用法が重要な現代語を中心に約6万語を収録。文章を書く際に役立つよう用例を多く掲載するなど使いやすさを追求した国語辞典。

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恒久村(近世)

 江戸期~明治22年の村名

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

恒枝保【つねえだのほ】
(中世)平安末期~戦国期に見える保名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

恒枝保(中世)
平安末期~戦国期に見える保名若狭国遠敷【おにゆう】郡のうち主要な耕地は北川と松永川の合流点付近にあった大治元年3月,のちに太良荘となる地の開発者平師季から次男の隆清に譲与された地は「松永保内恒枝名」と称され,遠敷郡の東郷・西郷に散在していた(東寺百合文書ぬ)隆清の孫雲厳から所領を譲与されたと称する宮川乗蓮は,嘉禄2年5月8日の雲厳譲状(偽文書)でこの所領を「恒枝保・太良保」と並記しており(同前ア),鎌倉期には恒枝名が松永保から自立して保と称せられるようになったことが推察される弘長3年2月に「恒枝領家」が知られることから,この頃までに荘園化していたらしい(明通寺文書/小浜市史社寺文書編)地頭は若狭忠季であったが,承久の乱で京方となったため若狭に逃げ下っていた忠季の次男兵衛次郎に恒枝保や太良荘などの田地の一部が割き与えられた(東寺百合文書フ・リ)若狭氏はこののち,正安4年に若狭忠兼が国内所領14か所を北条氏得宗家に没収されるまで当保の地頭であったと考えられる公文職は雲厳から聟の椙若康清に譲与されていたが,文応~文永年間頃宮川乗蓮が領家に取り入って公文職を与えられたため(同前フ),椙若妙蓮と争いになった(同前ア)また,文応元年~文永3年の間の守護代高橋右衛門尉が乗蓮と公文職を中分したと見え,高橋は当保内に作分1町8反を持ち,太良荘農民に出作させていた(同前は)正安4年地頭若狭忠兼が改易され,得宗が恒枝保と太良荘の地頭となった時の検注において,以前に若狭兵衛次郎に割き与えられていた恒枝保3町の地は太良荘田とされたため(同前ゑ),この地をめぐって恒枝保と太良荘はのちのちまで争うことになった文永2年11月の若狭国惣田数帳案によると,当保は西郷に5町1反30歩,志万郷に18町9反110歩の耕地を有し,元亨年間頃の朱注によって,領家は文永9年没の後嵯峨院の遺骨を納める嵯峨法華堂,地頭は得宗であることが知られる(京府東寺百合文書ユ)嘉元4年6月の昭慶門院(亀山天皇皇女熹子)領目録にも室町院領恒枝保の領家として「後嵯峨院法華堂禅衆」と記されている(竹内文平氏所蔵文書)鎌倉後期の公文職は井口二郎入道跡を恒枝五郎が伝領したと前記朱注は伝えているが,この恒枝五郎とは椙若氏の系譜を引く人物で,保内の小字名清水を苗字としていた公文恒枝(清水)氏は得宗被官で,保の給主となっていた塩飽右近入道の圧迫を受けていたが,幕府滅亡後は領家後嵯峨院法華堂から30年間中絶していた本名田の支配を認められ,建武元年から清水信康が太良荘に組み入れられた田地の返還を求める訴訟を起こしている(東寺百合文書ゑ)この訴訟は保の新地頭と称される藤井幸熊丸の時勝訴し,貞和5年3月足利直義下知状によって恒枝保領として認められた(教王護国寺文書)しかし,太良荘側では馬上免,恒枝保側では堀田と称するこの地についてもあきらめず,延文5年3月には国衙税所代の海部忠泰から恒枝保の田数や年貢(70~80石と算定されている)の情報を得たり,太良荘公文禅勝の持っていた大田文(若狭国惣田数帳案)を京都に送らせて訴訟の準備をしている(東寺百合文書ハ・フ)この係争地については,文永7年・正安4年・延文5年などの坪付が伝わっており,小字名として河屋尻・清水・椙本・町縄手・榎木坪・まきのもと・こはら・ミつとりなどが知られる(同前ゑ・ハ)このうち「こはら」は康永元年11月の宗清寄進状にも「恒枝保内一楽名小原五反」として見える(明通寺文書/小浜市史社寺文書編)貞治3~5年恒枝保は「むとうの御つほね」が支配していたが,室町初期には守護一色氏の内方が支配し,代官には一色氏家臣石川氏が任じられていた(東寺百合文書リ)永享5年7月4日の足利義教御判御教書に南禅寺語心院領として見える(尊経閣文庫所蔵南禅寺慈聖院文書)また,寛正5年の「京城万寿禅寺記」(群書24)には京都五山の1つ万寿寺の寺領として若狭国「恒抜庄」があったことを記すが,これは恒枝の誤記と考えられる室町幕府政所代の蜷川知薀は富田郷の楽音寺に恒枝寄進畠5反を預けていたが,寛正6年8月11日に知薀の子親元はこれを安堵している(親元日記)戦国期の天文17年3月16日内藤元康・吉廉は神宮寺に「恒枝横田宮下地」1反120歩を寄進しているが(神宮寺文書/小浜市史社寺文書編),この横田宮は江戸期の東市場【といちば】村の小字横田にあった宮で,のち場所を移して同村の日吉神社となった...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

恒冨郷【つねとみのごう】
(中世)鎌倉期~室町期に見える郷名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

恒冨郷(中世)
鎌倉期~室町期に見える郷名常陸国吉田郡のうち「和名抄」に見える芳賀郷にほぼあたる嘉元田文に「恒冨 四十四丁一段」と見え(所三男氏所蔵文書),暦応3年11月30日の恒冨村々公田注文写では55町6反275歩(帳計55町7反35歩)の田積をもつ(吉田薬王院文書/県史料中世Ⅱ)年月日未詳の吉田社神事次第写に「恒冨七ケ郷」(吉田神社文書/県史料中世Ⅱ),また暦応3年の公田注文写では,大羽・栗崎・塩崎・六反田・石河・森戸・遠厩【とおまえ】・大串・矢田・入野【いの】の10か村に分立しているが,本来は1個の名田であったと考えられるまた康永2年書写の鹿島神宮領田数注文案に「平戸十一丁一段〈貞応二年相伝太神領恒冨〉」と見え,大串に隣接する鹿島社領平戸郷も恒冨に含まれていた時期があったらしい(鹿島神宮文書/県史料中世Ⅰ)平安末期,吉田盛幹の次男家幹は,郷内の石川を苗字の地とし,その六男高幹は,恒冨郷の地頭となり,恒冨を苗字とした(常陸大掾伝記・石川系図/続群6上,薬王院別当系図/吉田薬王院文書)延応元年3月4日の関東下知状写によれば,建保6年,高幹は,「恒冨郷内真実穴林村」を吉田神宮寺(吉田薬王院)に寄進している(吉田薬王院文書/県史料中世Ⅱ)高幹の妻本間局が北条時広の乳母となったのを機に(石川系図),当郷は北条氏の所領となり,時広の娘を通じてその子大仏宗宣に伝領され,宗宣は,「恒冨之内六段田村地蔵堂」(現六地蔵寺)に料田・屋敷一所を寄進している(六地蔵寺文書/県史料中世Ⅱ)弘安9年閏12月8日,吉田社神官行事長経の重訴状により,「恒冨四ケ郷吉田給主等中」に吉田社造営役并神役神物等を沙汰すべきことを命じたのも宗宣と思われる(吉田神社文書/県史料中世Ⅱ)延文3年10月23日,大掾高幹の代官左衛門尉右貞は,大仏宗宣の寄進の旨に任せて料田・屋敷を地蔵堂に安堵している(六地蔵寺文書/県史料中世Ⅱ)年月日未詳の吉田社神事次第写に「四月五日膝差御祭〈従恒冨七ケ郷役〉従同塩崎〈大禰宜分納之〉」「東宮之御神事 四月五日恒冨七郷膝着」「右大臣御祭之事三月廿七日従恒冨七ケ郷役」と見え,吉田社の神事には7か郷が編成されていた(吉田神社文書/県史料中世Ⅱ)康永3年の塩崎田数并得分物注文写に,田数9町120歩(帳計9町3反),新田9反のほかに「此外新田未及検注」とあるように引き続き開発が進められており,同4年の目録写の「恒冨大葉郷」内には「山さきし水村」が新たに成立している(吉田薬王院文書/県史料中世Ⅱ)恒冨のうち「東やたの内田さいけ,しほのさき宮方の田」などは,康暦2年,石川氏幹から宣幹に,応永15年,俊幹から久幹に譲与され(石川氏文書/県史料中世Ⅱ),また同9年,吉田社大禰宜恒成は,「恒冨郷塩崎村内大禰宜恒成知行分三段」を,塩崎の長福寺へ寄進している(常陸遺文/大日料7-5)「恒冨」の地名は,永享10年8月28日,六段田村地蔵堂の住持宥範譲状の「吉田郡恒冨郷内六段田村地蔵堂」を最後に見えなくなる(六地蔵寺文書/県史料中世Ⅱ)現在の水戸市大場町・栗崎町・塩崎町・東前【とうまえ】町・六反田町・森戸町・大串町・入野町・石川・谷田,茨城町上石崎字マミ穴周辺を含む地域に比定されるなお,「水府地理温故録」に「恒冨郷〈石川,大場,大串の辺に見えたり〉」として富に「ズミ」と訓じているなど「恒冨」は「つねずみ」に変わるとする説もある(県史市町村編Ⅰ)...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

恒富保(中世)
 鎌倉期~戦国期に見える保名...

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恒富村【つねとみむら】
(中世)鎌倉期~戦国期に見える村名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

恒富村(中世)
鎌倉期~戦国期に見える村名摂津国川辺郡橘御園のうち室町期以降は広田社領時友名・友行名などと同様に名田として形成されたと推測できる村落同村の史料上の初見は,箕面勝尾寺文書の嘉元2年12月17日の鎌倉期の日付が確認できる浄土寺門跡寄進米上日記并請取状にあり,「一石四升一合 恒富村分」と記されている(箕面市史史料編)次いで室町期に入り,「西宮社参記」応永16年6月には「廿日,天晴天未曙之時分神崎ニ着,自恒富沙汰人等迎馬共⊏⊐天明之時分恒富ニ着……自若王寺⊏⊐招請之方方向」とある(宮内庁書陵部蔵/西宮市史4)神崎に着いた伯家一行を迎えたのが恒富の沙汰人であり,夜明けから日が昇る時間までに陸路で恒富についたことになる「後鑑」宝徳2年6月3日条に「広田南宮両社社領摂津(国)塩富(恒富か)并難波北内・葺屋庄地頭職・樋口等事…」とあり,知行地をめぐる競望を止め,社領として回復させる命令を発している(大系)「忠富王記」や「伯家五代記」などによると明応~文亀年間では,恒富・難波・蘆屋の各社郷は広田社領で伯家の領有する処であるから(西宮市史),「塩富」は垣富の誤記と同じく恒富の誤りといえる恒富村を知る上で,「親元日記別録」文明13年10月25日条を見ると,「広田社領摂州橘御園内地頭恒富代官職事,令契約前田兵庫助候処,十余年不遂算用,過分号有借銭,可預御糺明云々」とある(政所賦酩引付/続大成)さらに下って「細川両家記」には天文18年8月の伊丹城攻めに関連して「八月廿四日より対城こしらへ,東方は森本に池田衆,南は垣富・前田城に淡路国衆,西は御影(願)塚に三好方衆,乾は小屋城に小川式部丞籠られたり」とある(群書20)恒富を大正5年当時の字界図に見える大字東難波字常止【つねとめ】とする説があり,常止のすぐ南西に大字西難波字東前田・字西前田がある「大徳寺文書」広徳寺田地目録では本役方として「一丁三反六…前田,一丁四反…野地,四反…野地,一反小…東野,六百六十六文 マサリ 已上前田殿出之」と記されている(大日古)同目録は年紀を欠くが戦国期ころと考えられるので,前田殿の本役分が前田・野地・東野にあったと理解できる以上から恒富代官職前田兵庫助は前田殿の一族で前記の西長洲から大物・杭瀬に至る西長洲内の前田城に居を構えていた土豪層と推定してみることもできる...

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恒安村(中世)
 戦国期に見える村名...

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恒見(近代)
 明治22年~現在の大字名...

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恒任名【つねとうみょう】
(中世)鎌倉期~戦国期に見える名(みよう)の名...

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