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![]() | 肥後国 文治元年2月平家は滅び,肥後にも鎌倉幕府の支配が及ぶことになった |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 肥後国 天正15年6月,豊臣秀吉は島津氏の服属によって九州を手中にし,6月2日佐々成政を肥後の新領主に任命した... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 肥土山村(近世) 江戸期~明治23年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 肥前国 平安中期・末期には,荘園が成立し,国衙領の郡郷の再編が行われ,肥前の荘園公領体制が形を整える... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 肥前国 律令制下の国で西海道に属する... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 肥前国 「肥前国風土記」によれば,肥前国は11郡・70郷・187里からなり,駅【うまや】18所・烽【とぶひ】20所・城1所・僧寺2所であった... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 肥土荘【ひとのしょう】 (中世)平安末期~室町期に見える荘園名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 肥土荘【ひとのしょう】 (中世)平安末期~室町期に見える荘園名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 肥土荘(中世) 平安末期~室町期に見える荘園名小豆【しようど】島のうち荘域は島の西部一帯で,島最大の伝法川が,荘の中央を北東から南西に蛇行している川の右岸に皇踏山,左岸に大麻山があり,両山系に挟まれるように平地が奥へのびている東は池田荘に,北は尾美荘に接し,南・西は海に面する石清水八幡宮領治承2年6月12日の石清水八幡宮寺所司等宛て後白河院々庁下文(石清水文書2/大日古)には,このころ善法寺流の祖成清と田中流の慶清との間に領有に関する相論のあったことを記しているすなわち,成清の側は,光清・任清・厳清と代々別当に相承され来たったことを主張し,一方,慶清の側は,当荘がそもそも少別当禅基の「相伝之私領」であって,その死後,命禅から慶清門徒に相承されたものであると反駁したこの訴訟は慶清側が勝訴したのであるが,慶清の主張を是とすれば,当荘の成立は禅基の没年たる応保元年をさしてさかのぼらぬ時期と推定される元暦2年正月9日には源頼朝より八幡宮寺領として御封会米200石が安堵されている(石清水文書1/大日古)領家は慶清法印弘安6年伊喜末地頭高橋入道支配下の百姓が荘内へ乱入し相論となる公文紀左衛門尉家能が上洛して六波羅探題へ訴訟これ以後肥土荘荘域を明確化した紀氏旧記(大日料1-11)に「肥土荘分〈東限槻峰,号赤木峰,又云月出峰,西限大谷下藤,南限蒲生長岫,北限長峰〉」とあるのがこれを示しているその後,13世紀末から14世紀初頭にかけて下地中分が行われ,荘域が限定されたと考えられる(榊葉集徳治3年7月15日条/続群12上)元亨元年神宮寺の善法寺尚清が愛染明王堂を再建してこれを後宇多上皇の勅願寺となした時,当荘は料所となり(石清水八幡宮末社記/続群2上),以後善法寺領として室町期まで続いている(石清水八幡宮文書)宮寺縁事抄(石清水文書)には,神事用途の所出に関して当荘よりの「御白塩」の奉仕が義務付けられ,当荘は「八幡宮御白塩地」(紀氏旧記)として特質づけられていた南北朝期になると佐々木信胤によって小豆島は支配され,当荘は押領されるその後細川師氏に信胤が降伏した後は,師氏・顕氏が知行し,信胤は当荘の領家職を帯したその後細川頼之が統治すると,矢野備後守橘遠村に領家職を帯し,高橋三郎左衛門尉顕光を預所として当荘にあたった応永元年当荘と草加部荘の領家職は3分の1を矢野徳久が知行し,その代官は中殿であった3分の2は長興寺造営料であり,これを管理するための当荘荘主として僧永了都寺禅師を置いた応永18年の石清水八幡宮寺平等王院領の中に肥土荘が見えるが(石清水八幡宮文書),すでにこの時期には細川氏の知行地となっており,石清水八幡宮領としての肥土荘は解体していたといえよう当荘内に鎮座する淵崎八幡神社は,もと肥土荘八幡宮であり,京都石清水八幡宮の別宮である平安末期に肥土荘が置かれると,時期を同じくして勧請されたと推定される当荘の人々の信仰を集め,また土豪たちの修築がたびたび行われるなど荘内の中心神社であった荘域は,現在の土庄【とのしよう】町の中央部から西部にかけての地域で,北は皇踏山,西は土庄町大谷付近,南は池田町蒲生付近,東は肥土山を含む地域に比定できる現在の淵崎・大鐸【おおぬで】・黒岩・土庄地区である現在地名の肥土山にその名残がある... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 肥土荘(中世) 平安末期~室町期に見える荘園名小豆【しようど】島のうち荘域は島の西部一帯で,島最大の伝法川が,荘の中央を北東から南西に蛇行している川の右岸に皇踏山,左岸に大麻山があり,両山系に挟まれるように平地が奥へのびている東は池田荘に,北は尾美荘に接し,南・西は海に面する石清水八幡宮領治承2年6月12日の石清水八幡宮寺所司等宛て後白河院々庁下文(石清水文書2/大日古)には,このころ善法寺流の祖成清と田中流の慶清との間に領有に関する相論のあったことを記しているすなわち,成清の側は,光清・任清・厳清と代々別当に相承され来たったことを主張し,一方,慶清の側は,当荘がそもそも少別当禅基の「相伝之私領」であって,その死後,命禅から慶清門徒に相承されたものであると反駁したこの訴訟は慶清側が勝訴したのであるが,慶清の主張を是とすれば,当荘の成立は禅基の没年たる応保元年をさしてさかのぼらぬ時期と推定される元暦2年正月9日には源頼朝より八幡宮寺領として御封会米200石が安堵されている(石清水文書1/大日古)領家は慶清法印弘安6年伊喜末地頭高橋入道支配下の百姓が荘内へ乱入し相論となる公文紀左衛門尉家能が上洛して六波羅探題へ訴訟これ以後肥土荘荘域を明確化した紀氏旧記(大日料1-11)に「肥土荘分〈東限槻峰,号赤木峰,又云月出峰,西限大谷下藤,南限蒲生長岫,北限長峰〉」とあるのがこれを示しているその後,13世紀末から14世紀初頭にかけて下地中分が行われ,荘域が限定されたと考えられる(榊葉集徳治3年7月15日条/続群12上)元亨元年神宮寺の善法寺尚清が愛染明王堂を再建してこれを後宇多上皇の勅願寺となした時,当荘は料所となり(石清水八幡宮末社記/続群2上),以後善法寺領として室町期まで続いている(石清水八幡宮文書)宮寺縁事抄(石清水文書)には,神事用途の所出に関して当荘よりの「御白塩」の奉仕が義務付けられ,当荘は「八幡宮御白塩地」(紀氏旧記)として特質づけられていた南北朝期になると佐々木信胤によって小豆島は支配され,当荘は押領されるその後細川師氏に信胤が降伏した後は,師氏・顕氏が知行し,信胤は当荘の領家職を帯したその後細川頼之が統治すると,矢野備後守橘遠村に領家職を帯し,高橋三郎左衛門尉顕光を預所として当荘にあたった応永元年当荘と草加部荘の領家職は3分の1を矢野徳久が知行し,その代官は中殿であった3分の2は長興寺造営料であり,これを管理するための当荘荘主として僧永了都寺禅師を置いた応永18年の石清水八幡宮寺平等王院領の中に肥土荘が見えるが(石清水八幡宮文書),すでにこの時期には細川氏の知行地となっており,石清水八幡宮領としての肥土荘は解体していたといえよう当荘内に鎮座する淵崎八幡神社は,もと肥土荘八幡宮であり,京都石清水八幡宮の別宮である平安末期に肥土荘が置かれると,時期を同じくして勧請されたと推定される当荘の人々の信仰を集め,また土豪たちの修築がたびたび行われるなど荘内の中心神社であった荘域は,現在の土庄【とのしよう】町の中央部から西部にかけての地域で,北は皇踏山,西は土庄町大谷付近,南は池田町蒲生付近,東は肥土山を含む地域に比定できる現在の淵崎・大鐸【おおぬで】・黒岩・土庄地区である現在地名の肥土山にその名残がある... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 肥前国 天正15年北上する島津義久を討伐するため豊臣秀吉が九州出兵を行い,戦後の処置として基肄・養父両郡が小早川隆景に宛行われたが,慶長4年宗義智の所領になった... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」