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- 権現とは
権現【ごんげん】
仏・菩薩(ぼさつ)が衆生(しゆ
[最終更新日:2006-12-11/JLogosid:705046220]
関連項目:
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![]() | 権現堂村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 権現岳城【ごんげんだけじょう】 戦国期の城郭名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 権現山【ごんげんやま】 吉原山・吉原山祇山・大山祇山ともいう(中郡誌稿)... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 権現堂村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 権現岳城【ごんげんだけじょう】 (中世)鎌倉期~戦国末期に見える城名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 権現堂【ごんげんどう】 (中世)鎌倉期に見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 権現山【ごんげんやま】 横浜市神奈川区幸ケ谷にある小山... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 権現崎【ごんげんざき】 権現岬(ごんげんみさき)ともいう... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 権現岳城(中世) 鎌倉期~戦国末期に見える城名豊後国大分郡阿南荘のうち現在の大分川の支流芹川の右岸,大分川との合流点から約1km上流の大分郡庄内町大字竜原【たつはる】猿渡に所在した通称は城山大友庶子家狭間【はざま】氏が拠った狭間氏初代直重は,大友2代親秀の四男として生れ,文永の役に出陣,恩賞として挾間村を賜り,以後代々挾間村に居を構えた(狭間家譜/県史料26)狭間氏は,「弘安図田帳」によると,阿南荘地頭職を大友惣領家とともに帯し,また松富名35町の地頭職を帯している(大友史料3)系図によると,初代直重が阿南郷竜原村権現岳に城を構えたと見えるが,裏付ける史料はないおそらく後世の作為によるものであろう17代狭間山城守鎮秀が,天正14年島津軍襲来の時,権現岳に籠城して攻守節を全うした(狭間文書/県史料26)「豊後国志」には,天正の役の時,狭間鎮秀が拠り,支城を燕鳥岳に構え,平松・向井の二子をして守らしめた島津軍は新納氏を大将にして数千で攻略したがついに落とし得なかったまた,天正14年の薩兵侵入に当たり,狭間鎮秀が初めて砦を構えたともある(庄内町二十年のあゆみ)... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 権現堂(中世) 鎌倉期に見える地名豊後国大野郡大野荘志賀村南方に属す大野川の支流である平井川の谷の南岸で,大字上尾塚の字仲江の南西に当たる権現堂があったところから起こった地名であろう権現堂屋敷とも見える正安3年正月24日の詫磨秀治和与状に,「件佃秀治(詫磨)分六段半内,於中江田壱段・権現堂弐段半者」とあるのが初見権現堂と中江田には領家佃があり,南方地頭志賀泰朝の所領内であったが,詫磨秀治が正安2年の志賀村北方の中分の際,これを北方板井迫名の内と称し,横領した志賀泰朝は領家との検注相論があり,それに対する幕府下知状に背いたため南方地頭職を没官されたその愁訴のため在鎌倉中に,秀治から横領されたものであるしかし正安3年正月24日,秀治は和与状により,横領分6反半のうち,中江田1反,権現堂2反半を泰朝に返却した志賀村南方では,正和3年に分け直し一円中分が行われたが,その時,この部分は領家方分となったただし権現堂2反半・中江田4反は,惣堺を越えて,東方地頭分中に散在したことになっている元徳2年3月5日の鎮西下知状まで,この地名が見える(志賀文書)... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 権現下郭【ごんげんしたぐるわ】 (近世)江戸期~明治初年の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」