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- 出京とは
出京【しゅっきょう】
- 名・自サ変
【1】都を出て地方へ行くこと...
[最終更新日:2006-12-11/JLogosid:705100390]
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![]() | 出京町(近世) 江戸期~明治22年の町名江戸期は熊本城下京町出京町懸の町人町の一町で,明治12年熊本区の町名となるなお藩は城下町統制のため懸制度をとり,出京町は一町で一懸を構成している城下北端部京町口の外,豊前街道の両側に帯のように細長く町域を形成成立の年代は明らかでないが,加藤清正が熊本城を築く時,城内の町屋を移転したのが京町であるといい,その東西にできた柳川小路・宇土【うと】小路は慶長5~6年には成立しているので,出京町はその後の成立と考えられる細川氏入国時,寛永9年の肥後御入国宿割帳(県立図書館蔵文書/肥後細川家侍帳)には出京町の名が見え,8戸の宿割が行われていることから,加藤家の代に成立していたことは明らかである細川忠利入国後の寛永16年には,京町と出京町の間に非常に備えた空堀が掘られ,ここを出京町構口ととなえ,辻番所が置かれた惣月行事記録抜書(熊本大学蔵文書/熊本藩町政史料)によれば,重大な通行者がある時は出京町内田屋脇と稗田口と光永寺前に町内押口を構えたという町域について,「肥後国誌」には3丁ありとのみ記すが,宝暦年間頃の肥後国中寺社御家人名附(熊本近世史料叢書)には上町・中町・下町と具体的にあげており,文化11年の肥後国郷村帳(県立図書館蔵文書)では上ノ丁・下ノ丁・新出京町と記されているなお幕末頃と推定される府中案内道矩(同前)は,当町を南から1丁目・2丁目・3丁目と記し,のちには1~3丁目の呼称が普通になったものと思われるこのうち新出京町は,正徳元年飽田郡五町・池田両手永から岩立村内への移住により出小屋ができ,天明9年1月城下町に編入され,寛政に改元後の5月に町名が付いたという先の惣月行事記録抜書を見ると,元文4年の触によって五町・池田両手永支配の出小屋では,沓・草鞋・煎茶・木の実の類の商売だけが許されていたことがわかる出京町の産物は,享和元年の御府中小路町々并産物等之名(県立図書館蔵文書)によれば三星燧・紅粉卸・手毬・羽子板・破魔矢・弓・水嚢・綿帽子・琉球芋などがあげられているまた宝暦年間頃の出京町は,城下町出火の際に9人の鳶の者を含めて39人の人数を出すよう定められており,同10年には藤崎宮祭礼入目銀のうち31匁8分1厘を割賦されている天明年間になると出京町は衰亡したらしく,同5年取立てのための大相撲興行が許されている惣月行事記録抜書によれば,同6年の出京町表口の間数は376間,同8年では374間とある天明~寛政年間頃の出京町の別当は,荒木市三郎が役儀御免となり,古閑市三郎が当分別当となっているその後穀物問屋の岡本家がこの地で栄え,町別当を勤めた明治6年いったん旧城下町を離れて飽田郡に属したが,同12年区制施行に際し,熊本区に編入されたなお当町は明治10年の西南戦争で政府軍・薩摩軍の交戦地の1つとなった同22年出町と改称 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」