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上古【じょうこ】
大昔...
[最終更新日:2006-12-11/JLogosid:705107950]
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![]() | 上古井村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 上古田村(近世) 江戸期~明治8年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 上古川村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 上古川村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 上古沢村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 上古川(近代) 明治22年~現在の大字名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 上古川村【かみふるかわむら】 (近世)江戸期~明治11年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 上古賀村【かみこがむら】 (近世)江戸期~明治9年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 上古川村(近世) 江戸期~明治11年の村名尾張国海西郡のうち木曽川下流左岸尾張藩領鵜多須代官所支配村高は,「天保郷帳」220石余,「旧高旧領」286石余「寛文覚書」によれば,概高は本田169石余・寛文6年高入の梶島新田16石余・午改新田56石余の合計241石余,反別15町余(田12町余・畑3町余),ほかに梶島新田見取場反別5町余,家数19・人数101,牛馬5,用悪水杁1「徇行記」によれば,全村蔵入地,戸数23・人数96,馬1,本田・梶島新田・午改新田のほか寛政7年高成の重兵衛新田43石余・反別4町余が見える重兵衛新田は,元和7年若原重兵衛が海東郡西条村から移住して開発したものという梶島新田はもと上立田村のうちであったが,寛文6年当村のうちとなったというまた,「農戸佐屋川傍ニ建ナラヘリ,村高ニ準シテハ佃力不足,下古川・大森村ヘ田地ヲ掟ルナリ……御普請人足又ハ日傭カセキナトシテ渡世ヲ送ルナリ」と記される寺社は,薬師堂・神明社明治11年森川村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 上古【しゃう-こ】 しゃう-こ【上古】(ショウ―)((後に「じゃうこ」ともいう))[1]遠い昔... |
出典:東京書籍「全訳古語辞典」
![]() | 上古賀村(近世) 江戸期~明治9年の村名筑後国竹野郡のうち耳納【みのう】山地中央部の北方,筑後川中流左岸に位置し,地形は筑後川の氾濫原はじめ柳川藩領(田中氏),元和6年からは久留米藩領寛文10年には伊部惣左衛門,正徳元年には本庄主計,寛保3年には伊部光右衛門がそれぞれ90石を知行(所付扣・給知高帳)諏訪組に属す村高は,「元禄国絵図」106石余,「在方諸覚書」180石,「天保郷帳」110石余,「旧高旧領」181石余宝暦年間頃の役高は653石,庄屋は末次村庄屋が兼任,久留米より5里半(在方諸覚書)寛政元年撫8斗2升,人数145人,馬8(筑後上三郡取調手鑑)嘉永元年頃の作柄は,「右三カ村(坂井・上古賀・末次村),田方大凡六俵半・粟六俵」(廻村書留)文化4年の耕地は畑田30町余・畑9町余(農政農民史料集)水利は大石・長野水道氏神を祀る天満宮,地蔵堂がある(寛延記)明治9年長栖村の一部となる現在の吉井町長栖の一部にあたる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」