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![]() | 七日町①【なぬかまち】 (近世~近代)江戸期~現在の町名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 七日町①(近世~近代) 江戸期~現在の町名明治17年から一時期山形を冠称江戸期は山形城下のうち南は横町,北は旅籠【はたご】町,東裏小路は檜物町,西は香澄町木の実小路に接する最上義光の城下町割り以来の町で,街路は羽州街道「なのかまち」ともいい,7の日に市が立ったので町名となった寛永13年の領地目録(家世実紀)の高520石余,「寛文印知集」には「七日町村」と見える町内には元三日町・片町・長源寺町がある東部の片町は,当初片側だけ人家があり,年貢地であったところから町名となった元三日町は鳥居氏によって町の南部に移転される以前の三日町のあったところ長源寺町は最上氏の菩提寺光禅寺を三日町の南(鉄砲町)に移転させ,鳥居氏の菩提寺長源寺を建てたことにより名付けられた門前町長源寺門前は長源寺の支配を受け,山形城下33町のうちには入らない元禄年間の高412石余,田13町余・畑2町余,百姓26,自身番所2,辻番所3市日は7・17・27の日紅花【べにばな】の時期には約1か月にわたり花市が立った屋敷数97軒半(うち役屋敷82)家主70,借家・店借55,人数711(長源寺脇ともに)このうち元三日町は屋敷25・家主20,人数208ほかには長源寺脇に元奉公人屋敷5軒があり,七日町支配の年貢地であるうち1軒は鐘搗堂屋敷無年貢地家数7・家主7・人数22松岩寺門前は家数3・家主3・人数8本久寺門前片側町は人数36長源寺町は家数28・家主28・番所1(山形城下新古銘細記/山形市史資料40)「松の木枕」には軒数97当町の紅花の季節には京都から仲買商人がやって来て,その時分はわずか1か月の儲けが1年中の暮らしとなるため昼夜の境なくにぎわったとある(山形経済志料)「東講商人鑑」には最上名産玉紅槌屋勘右衛門,呉服御袈裟衣所足利屋新兵衛,薬種所高田屋弓太郎ほか3名が記されている寺院には朱印高1,760石をもつ時宗光明寺をはじめ曹洞宗光禅寺・同長源寺,浄土真宗専称寺,ほか6寺がある天保13年の村山石高帳および「旧高旧領」とも高565石余明治5年一部が小姓町の一部となる同年郵便所を七日町会所に設置学校では同5年光明寺に郷学校が創立され,同6年七日町学校と改称同11年には洋風2階建て,中央上部に時計塔をつけた建坪930坪の新校舎で山形師範学校が設立された校内には市内香澄小学校・七日町小学校・横町小学校を統合した南山小学校を模範小学校として設置し,師範学校生徒の実習校とした同19年には山形県尋常師範学校と改名同30年には県費支出の山形県師範学校として市街北部の馬見ケ崎川原に移転病院では村山郡天童村の豪商佐藤伊兵衛,蘭方医武田玄々による私立病院が明治6年に七日町小清水氏宅に移転して来て,済生館の前身である山形県公立病院が開院した同8年火災ののち旅籠町へ移転また,同9年小清水氏宅に警察仮出張所が置かれた明治11年の一覧全図では,反別41町8反余,戸数347・人口1,660同13年山形商工会議所設置同22年山形市の町名となる同29年山形第八十一国立銀行が民間会社に継承され両羽銀行と改称同44年七日町大通りから出火し,折からの西風にあおられて,県庁・市役所をはじめとする1,353戸を全焼した市北大火が発生した昭和26年の世帯数1,803・人口8,424昭和38年から同43年にかけての住居表示実施により,小姓町・香澄町・旅籠町・小白川町・緑町・地蔵町・諏訪町などの各一部を編入して1~5丁目が成立し,同時に一部が本町1~2丁目・緑町1~4丁目・小姓町などの各一部となる昭和44年から同49年にかけての土地改良事業により一部が島・沖町・梅野木前・西崎・菅原・豊原・砂塚などの各一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 七日市村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 七日市遺跡【なぬかいちいせき】 氷上郡春日町七日市・棚原・野村に所在... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 七日市藩【なのかいちはん】 (近世)江戸期の藩名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 七日市藩(近世) 江戸期の藩名甘楽【かんら】郡七日市に居所を構えた外様小藩元和2年金沢藩主前田利家の五男利孝が大坂冬・夏両陣の戦功によって甘楽郡内で1万石に封ぜられ,七日市に陣屋を造営して入部した前田氏は利孝から利意・利広・利慶・利英・利理・利尚・利見・利以・利和・利豁と11代・250余年在封して明治維新を迎える歴代藩主は駿府加番・大坂加番などを務めた藩領は寛文4年の「寛文朱印留」に上野【こうずけ】国甘楽郡内18か村・1万石とあり,天保5年には1万3,210石余となる当藩は宗家金沢藩の庇護下にあり,家臣団は立藩時に金沢藩から随従した家臣を中心に構成され,正徳6年には士分115人・足軽44人・小者87人・六尺9人・手廻10人・厩者12人の計277人であった藩財政も金沢藩から援助を受けることが多く,嘉永2年金沢藩への藩政依託問題も起きた収納は田方のみであるが,天保3年定納高8,052俵に対し,諸引が21%余にあたる1,761俵に及んだため,6,291俵にとどまった貢租収納の低下は藩財政を窮迫化し,明治2年藩債は4万417両に及んだ藩領の人口は,享保年間に1万余人といわれるが,のち減少した藩は藩領の人口増加をめざし,文化13年豪農層の醵出金から貧窮農民に育児手当を支給する生育講を発足させ,出産・養育・縁組・貧窮者の措置などに及ぶ民政条目を布達したまた,藩内では文化9年藩主利和と前藩主で養父の利以との間で紛争があり,宗家金沢藩の怒りを解くために須藤岡之進夫妻が自刃するという事件が起きている天保元年シーボルト事件に連座して永牢となった稲部市五郎が当藩お預りとなった維新期には元治元年武田耕雲斎が率いる水戸浪士の陣屋地通過,慶応2年藩主利豁と対立する横尾鬼角らの永蟄居,同4年上野西部を襲った世直し一揆勢の侵入などの諸事件にほんろうされたが,同年東山道総督府下に入って,会津藩討伐戦の戸倉・沼田両戦に出兵した維新期の藩領は,「旧高旧領」に甘楽郡内21か村・1万3,197石とある明治4年7月廃藩置県により七日市県となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 七日町②【なぬかまち】 (近世~近代)江戸期~昭和41年の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 七日町②(近世~近代) 江戸期~昭和41年の町名明治9~22年鶴岡を冠称江戸期は鶴ケ岡城下のうち明治22年鶴岡町,大正13年からは鶴岡市の町名城下南部に位置する慶長年間は内川の左岸を占めていたが元和8年酒井家入部後,元和9年に内川の右岸に町割りされた町人町(大泉紀年)町名は最上家時代山形城下の町名をとったもの(北窓雑記)江戸初期の「庄内往来」には七日町道者と記され,町内は出羽三山の道者で賑わっていた旅籠屋が多く文政8年の七日町人別帳に旅籠屋17・下旅籠屋26・飯盛女106とあり,「東講商人鑑」には,東講商人定宿伊勢屋藤右衛門の名が見える駄賃馬も多く延宝2年の当町馬数之覚では鶴ケ岡城下町中で第2位の15頭を記す江戸中期の酒屋数并酒造米員数之覚書(鶴岡市史)によると酒屋16軒とある天和2年の町割家数人数書上帳(県史17)によれば,家数95軒・人数541元禄7年の川上記(鶴岡市史)では家数127軒・人数760(うち男423・女337)町の北方に万治3年より時鐘を有する真言宗柳福寺がある(明治21年焼失)境内での達磨市は有名である明治11年の一覧全図によれば,反別2町3反余,戸数103・人口522明治13年寺小路の一部と光明寺小路を合併寺小路にあった日蓮宗本住寺・曹洞宗宝林寺が当町に所属光明寺小路は当町の北側にあり,浄土真宗光明寺と4戸の家があった戸数・人口は明治16年124・780(朝暘学校沿革誌),同43年117・784うち男354・女430(西田川郡統計表)世帯・人口は昭和6年169・793うち男335・女458(市教育会第二回郷土調査)昭和35年238・916(市統計情報)昭和41年本町2丁目・三光町の各一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 七日市村(近世) 江戸期~明治8年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 七日市場村【なのかいちばむら】 (近世)江戸期~明治7年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 七日市村(中世) 戦国期から見える村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」