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「南」の関連ワード⇒ ワンステップ ワンタッチ ワンダン 

南【なん】

{教}{常}
【1】方位の一つ...

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[最終更新日:2006-12-11/JLogosid:705264700]
関連項目: ワンステップ ワンタッチ ワンダン 


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→無料版JLogos【南(なん)】

ベネッセ国語辞典 電子特別編集版

『福武国語辞典』を元に編集した電子特別編集版。日々の仕事・生活の中で使われる言葉や意味、用法が重要な現代語を中心に約6万語を収録。文章を書く際に役立つよう用例を多く掲載するなど使いやすさを追求した国語辞典。

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南方村(近世)

 江戸期~明治22年の村名

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

南郷村(近代)
 明治22年~現在の東臼杵郡の自治体名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

南郷①【なんごう】
(中世)鎌倉期~戦国期に見える郷名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

南郷①(中世)
鎌倉期~戦国期に見える郷名阿蘇郡のうち「吾妻鏡」養和元年2月29日条に「南郷大宮司惟安」と見えるが,これは阿蘇大宮司惟泰のことで,当時大宮司家の本拠が当郷にあったことを示している次いで建久6年正月11日の北条時政下文(阿蘇文書/大日古13‐1)によると,阿蘇惟次が当郷を「往古屋敷」であると主張したため,「為別納,無懈怠,可済勤所当公事」と命じている正治2年12月14日の宇治惟泰譲状写(同前/大日古13‐2)では,先祖相伝の私領田畠の存在する「あそのこをりなんかうのうちのむらむらの事」として中村・下田・永野・世田・荒木・上久木野・下久木野・大野・柏・草部の10か村が新大宮司宇治惟次に譲与され,承久2年9月14日の北条義時下文(同前/大日古13‐1)で阿蘇大宮司職とともに前記の10か村が惟次に安堵されている同じく承久3年11月15日の北条義時下文(同前)によれば,当郷は公郷で毎年所当米80石を進済してきたが,この時「阿蘇社領内南郷」をもって御祈用途料所として寄進し,「地頭惟次朝臣沙汰」として懈怠しないよう命じているその後惟次は,元仁2年3月5日,新しく執権となった北条泰時からも安堵を受け(同前),嘉禄2年8月4日には,三男惟盛に,勢多村・横手村・健軍社の大宮司職・南郷内の用作料などを譲り(同前/大日古13‐2),安貞2年6月6日北条泰時がこれを惟盛に安堵し(同前/大日古13‐1),寛元元年5月16日には,新しく執権となった北条経時がこれを惟盛に安堵している(同前)また同年9月15日北条泰時は親父惟次の譲状に任せて,阿蘇大宮司職と前記10か村から永野・世田村を除いた8か村を宇治惟義に安堵(同前),文暦2年8月27日にも惟義の子亀熊丸(惟景)に同様に安堵(同前),寛元元年11月9日には,新しく執権となった北条経時が前記の8か村を亀熊丸に安堵している(同前)その後弘安10年3月23日の宇治惟景譲状写(同前/大日古13‐2)で,大宮司職および前記8か村が惟国に譲られ,同年10月13日北条為時がこれを安堵している(同前)このように,鎌倉期,当郷は北条氏の承認の下で阿蘇大宮司家が支配していたことが知られる鎌倉期,当郷が阿蘇社領として社役負担を行っていることを示す史料は,正慶元年9月2日の造営料釘等支配状写(同前/大日古13‐1)に見える阿蘇外輪山南麓で白川左岸にある岩坂の例にとどまり,南郷谷の中心部分には見出せない阿蘇谷のような恒常的な神事祭料田・人給田にあたるものはなく,年月日未詳の阿蘇社神事注文写(同前/大日古13‐2)によると,元弘年間に大宮司惟時が「南郷下田郷御年貢六石六斗八升」を11月20日の阿蘇社臨時祭の祭料として寄進され,御供米などに宛てられたことが知られるにすぎない南北朝期の暦応2年と推定される年未詳卯月21日付の九州探題(一色範氏)軍勢催促状(詫摩文書/県史料中世5)には「阿蘇前大宮司惟時以下凶徒,打入阿蘇南郷候之間」とあり,阿蘇惟時が当郷に進出していたことが知られる次いで興国2年と推定される年未詳9月15日付の阿蘇惟時宛五条頼元書状写(阿蘇文書/大日古13‐2)では,惟時からの「南郷城」における戦況の報告をめで,同年と推定される年未詳同月5日付の恵良惟澄宛征西大将軍宮令旨写(同前)では「南郷」における惟澄の軍忠を賞している正平3年9月日の恵良惟澄軍忠状(同前/大日古13‐1)によれば,延元元年8月18日の唐河合戦に先懸し,次いで「南郷城」に攻め寄せ,一色頼行の代官三村又次郎を追い落とし,興国元年12月20日の小鳥合戦以降,市下入道道恵が阿蘇惟時の一族を誘って「南郷城」に立てこもった際,これを攻め,豊後・肥後の援兵とも戦ったことを述べている前記興国2年の戦いは後者にあたるものと考えられる興国3年6月20日の後村上天皇綸旨写(同前/大日古13‐2)では,阿蘇社領「南郷内野尻・二子石両村」を阿蘇惟時に安堵している暦応4年と推定される年未詳8月9日付の左衛門尉師景書状写(同前)では,阿蘇大宮司坂梨子孫熊丸が「南郷之御敵為退治発向之間」に,大宮司職と所領などを弟乙房に譲ることを申し出,これが承認された旨が伝えられている下って延文6年卯月5日の阿蘇惟村寄進状写(同前)によれば,「南郷御霊」に豊後国井田郷の得分物のうち12貫文が布施料として寄進された正平18年閏正月25日の阿蘇社造営料木納帳(同前/大日古13‐1)には「一,なんかうの御分」として,長野・鳥子・岩坂・下田・高森・村山・市下・高崎・二子石・早奈良などの地名が見える同19年7月10日の恵良惟澄譲状写(同前/大日古13‐2)では,「阿蘇社領南郷村々」などが庶子別当丸に譲られているなお天授4年2月4日の阿蘇山衆徒公物下行帳(西巌殿寺文書/県史料中世1)には「壱貫六百廿文 南郷雑掌料足」と見える下って文安5年9月18日の阿蘇下宮神体注文写(阿蘇文書/大日古13‐2)によれば,「阿そ十二しやの御神たい南郷にてつくり申候ときの事」とあり,一の宮から九の宮までの奇数の宮の神体が当郷で造られたことが知られるまた応永12年12月13日の大江政家大般若供米送文案(西巌殿寺文書/県史料中世1)には「南郷之内竹崎大般若供米之事」とあり,本来7斗納めるべきであるが,洪水のため残る現作田から1斗6升を納めるよう定められているこれに関連して,同29年11月30日の阿蘇山衆徒等起請文写(阿蘇文書/大日古13‐2)では,「一所 大般若供米」の註として「是ハ南郷市下・二子石・高森・竹崎・村山ヨリノ沙汰」とある下って戦国期の延徳2年10月15日の年紀を有する西野宮鐘銘(日本古鐘銘集成)には「大日本国鎮西肥後州阿蘇之南郷西宮御宝前謹奉施入」とあり,阿蘇三社の大宮司宇治惟憲が,大願主下田能続とともに鋳造したものと思われる文明4年11月26日の阿蘇山本堂造営棟別料足請取日記写(阿蘇文書/大日古13‐2)には「南郷之御使,実門房,原常陸守,彼両人より請取申候料足四十四貫五十文」と見える文明6年と推定される年未詳閏5月21日付の小陣惟長奉書(西巌殿寺文書/県史料中世1)によると,日向国の高知尾馬原十郎は,阿蘇惟忠が本堂造営料として奉納した鐘を25貫文で買い,その代金を「南郷小牟田」で受け取り,「南郷光照寺」に預けたという同16年8月28日の阿蘇十二社同霜宮最花米注文(阿蘇文書/大日古13‐1)によると,「三御宮同霜御宮同前」のうちとして,「南郷之分」があり,「たかもりやむら」「ふゆの」「おくほ」「かきの木」「かミもり」「下もり」「つる」「北はやし」「ミなミ林」「いしハら」「くわ原」などの小地名が記され,そのあとに村山・色見・市下・竹崎・白川・二子石・片山・久木野・中村・下田・長野など当郷の主な地域にあたる地名が記載されている下って,天文19年と推定される3月8日付の大友義鎮書状(北里文書/県史料中世1)には「入田親子ら其外彼寄合之者共,如南郷罷越之由候」とあり,入田父子が当郷に亡命したことが知られる天正18年7月27日の加藤清正宛行状(小代文書/県史料中世4)によると,「南郷之内千石之替地」として「山鹿郡小坂村千石」が小代親泰に宛行われている阿蘇山火口丘南側の火口原と,外輪山の東麓から南麓にかけての阿蘇郡南部の総称で,現在の西原村・長陽村・久木野村・白水村・高森町・蘇陽町のほか,菊池郡大津町・上益城【かみましき】郡清和村の一部を含む地域に比定される...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

南方村(近世)
 江戸期~明治22年の村名...

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南郷(中世)
 鎌倉期~戦国期に見える郷名...

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南郷【なんごう】
(中世)鎌倉期から見える地名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

南郷(中世)
鎌倉期から見える地名日向国諸県【もろかた】郡のうち建久8年6月の「日向国図田帳写」に島津荘一円荘のうちとして「南中郷」200町と見えるこの南中郷は,東大史料編纂所所蔵「長谷場文書」の建久図田帳に見える島津荘本荘分の「南郷」157町4反余と同一の地名を指しているとみられ,南郷は島津荘日向方の一円荘に属していたと推定される諸県郡内で,地頭は島津忠久忠久は,建仁3年の比企氏の乱にかかわり,島津荘大隅・日向方の地頭職を失い,これらは北条氏のもとに移った承元2年3月3日地頭所下文案によれば,地頭は南郷沙汰人に対して女房千代松母堂の屋敷の安堵を行っているさらに,建暦3年4月,僧智恵は「南郷内門貫山薗」を押領されたため,地頭笠氏に訴え,地頭所はこれを安堵したさらに,寛喜3年9月20日,智恵は「門木山」の薗を覚成房俊実に譲り,俊実は,天福2年3月18日,これを石根丸殿の女房の子息に売却している鎌倉末期,正和元年8月の応長元年地頭御得分米結解状によると,南郷末弘名は現作田が1町2丈中あり,除田が3反1丈中設定され,年貢収納対象の応輸田は7反1丈であったこのうち,地頭の用作分が中で,定田は7反中であり,損田が2反余あったため,現実の得田は5反余と計上されているこの南郷末弘名には将軍家への供料米が設定され,この結解状は公文所で処理されており,北条氏公文所に関係するものとみられるこのころまで,南郷末弘名を確保していた伴宗兼は,南郷末弘名を,正和2年5月7日,門貫次郎左衛門尉に20貫文で売却しているその後,平馬顕阿の手にあった南郷末弘名は,顕阿から音阿に移り,音阿は,正中2年10月8日,息子の盛貞に譲っていることが知られる(以上,長谷場文書)建武元年7月の島津荘謀反人交名(諏訪文書/旧記雑録前1)は,「島津庄日向方南郷」の北条高時一族の規矩高政に同意した反建武政権方の野辺盛忠等32名を書きあげたものだが,この中には,北条高時の家人布施四郎兄弟や北条守時の家人救仁郷源太が見え,日向国内の領主が北条氏に組織されていたことがわかるその後,野辺盛忠は肝付兼重方となり,日向南朝方勢力に入るが,これらの追討を担った北朝方の畠山直顕は,建武5年7月7日,肝付兼重追討の軍に加わった大隅の禰寝清成に対して「島津庄日向方南郷地頭職」を宛行っている(禰寝文書/南北朝遺1197)この間の事情について,暦応2年8月27日禰寝清通軍忠状(禰寝文書/同前1389)・暦応2年8月30日禰寝清種軍忠状(池端文書/同前1394)によれば,禰寝氏は,建武3年12月に日向国国大将畠山直顕が肝付兼重退治のため三俣院に軍勢を発して以来北朝方の軍勢に加わり,建武5年7月には,畠山直顕の南郷への軍勢発向に加わり,肝付兼重与党平山式部少輔のたてこもる大和田城を攻略し,暦応2年4月13日に落城させている大和田城とは,大岩田城のことで,都城を指しているとみられる暦応4年7月23日・12月20日畠山直顕軍忠状(禰寝文書・池端文書/日向古文書集成)には,直顕の日向での功績として「南郷大和城」を落城させた城として三俣院と財部城とともに記しているこうしたなかで,暦応2年12月25日,隆増は「南郷石永図合田内」の田を15貫文で長谷場氏に売却しており,石永図合内の地は2町と薗2か所があり,鹿児島郡司で本来的には南郷に土地の手がかりをもたない長谷場氏が南郷内に土地集積を始めたことがわかるまた,暦応3年7月13日,門貫貞阿は南郷末弘名の水田1町3反と門貫薗付の水田2反などを長谷場久純に譲り,同年8月6日,門貫貞命は,父の貞阿譲状の上にたって,領家御米の弁済は長谷場氏が行い,御公事が貞命にかかることは停止されることを長谷場氏と契約しているさらに,門貫貞阿は,同年8月19日,先に長谷場久純に譲った地を売却している長谷場氏は,諸県郡南郷の地に足場を固めたといえようこうしたなかで,島津荘領家一乗院は,康永4年3月16日,留守所下文を長谷場久純に対して発し,「島津庄日向方南郷門貫・末貞両名」を安堵し,さらに,長谷場幸純には「島津庄日向方南郷中野助法橋隆増跡」の石永図合内の地を安堵しており,島津荘領家は長谷場氏を末端に連なるものとして公認したことが認められる(以上,長谷場文書/南北朝遺1460・1551・1560・1572・2103・2104)南北朝後期になり,永和2年8月4日,室町幕府は,その意向にそぐわない島津伊久と氏久の治罸を九州探題今川了俊に命じたが,この頃とみられる8月13日相良前頼書状(禰寝文書/九州史料叢書19)は,「南郷并庄内合戦」が薩・隅・日3か国での合戦の要となることを禰寝氏に伝えている今川満範は,この年7月28日,前頼が真幸方面に進んだことを伝えており(同前),庄内が都城市庄内を指すと考えられることから,南郷は島津荘日向方南郷の可能性が強い室町期の島津氏の武将山田聖宏は,このことについて,都城には島津氏一族の北郷讃岐守,椛山美濃守が,庄内南郷の内の都城を確保し,相良氏をはじめとする一揆衆は都城へ迫ったこうしたなかで,永和2年の10月から12月,島津氏久は志布志から進入し,「南郷之内西城寺」の天下峰に陣をしいたと伝える(山田聖栄自記/鹿児島県史料集7)西城寺・天下峰は都城市梅北の西生寺(廃寺),天ケ峰を指していることからも,都城市庄内・南郷地域が,島津氏および九州探題の掌握すべき重要拠点であったとわかるこの南郷にある益貫村神柱宮は,島津荘の開発とかかわっているが,大永6年9月24日の勧進僧のいうところでは,益貫村神柱宮は平季基の住居であり勧請されて神柱宮ができ,永正13年には新納忠武が再建したあと,戦乱で荒れたため,この年,勧進を行い再興を企てたと記しているさらに,天文4年4月29日神柱宮再興棟札によれば,「島津御庄惣鎮守神柱宮」の宝殿が,檀越の藤原忠重・忠勝の手で行われたことが知られ,島津荘開発拠点として尊崇をあつめたことがうかがえる(旧記雑録前2)戦国期の永禄5年3月2日坪付(北郷文書/日向古文書集成)は,南郷内中薗門に関するものだが,2町の地に門の名頭用の地1反余が設定され,赤坂の神田を耕作したことがわかり,戦国末の頃,この地の農民も門に編成されていた南郷は現在の都城市梅北を中心とする地域である...

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南方村(近世)
 江戸期~明治22年の村名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

南勢【なんせい】
三重県の地域区分の1つ...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

南坂梨郷【みなみさかなしのごう】
(中世)南北朝期~戦国期に見える郷名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

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