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「磐」の関連ワード⇒ ワンステップ ワンタッチ ワンダン 

磐【ばん】

{人}
【1】大きな岩...

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[最終更新日:2006-12-11/JLogosid:705304660]
関連項目: ワンステップ ワンタッチ ワンダン 


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→無料版JLogos【磐(ばん)】

ベネッセ国語辞典 電子特別編集版

『福武国語辞典』を元に編集した電子特別編集版。日々の仕事・生活の中で使われる言葉や意味、用法が重要な現代語を中心に約6万語を収録。文章を書く際に役立つよう用例を多く掲載するなど使いやすさを追求した国語辞典。

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磐余【いわれ】

(古代)大和期から見える地名

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

磐余【いわれ】
(古代)大和期から見える地名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

磐余(古代)
大和期から見える地名伊波礼・石村・石寸などとも書く天ノ香具山の東北麓にかつて存在した磐余池付近から西方へ及ぶ地域大和の平野部から宇陀の山間部への入口に位置する地名の語源については「屯聚【いわむ】」「石像【いわあれ】」「断崖・峡隘の要害地」を意味する外来語,「石根【いわね】」などの説がある①磐余邑・磐余村神武即位前紀戊午年9月戊辰条に「兄磯城の軍ありて,磐余邑に満【いわ】めり」と見える磐余の旧名は片居または片立と称したが,皇軍が虜を破るに至り,大軍が当地に充満したので地名を改めて「磐余」と称するとあり,また,磯城【しき】の八十梟帥が屯聚した場所なので「磐余邑」としたともある(神武即位前紀戊午年8月戊辰条)ちなみに神武天皇の和風謚号は神日本磐余彦天皇(神倭伊波礼毘古命)と称した(神武即位前紀・古事記神武段)雄略朝には,水間君が献上した養鳥人らを軽村と磐余村の2所に安置したとある(雄略紀10年10月辛酉条)坂上系図(続群7上)所引「姓氏録」逸文に「石村村主」と「石村忌寸」が見える②磐余神功皇后および履中・清寧・継体・用明・敏達各天皇の宮伝承地まず,神功皇后は磐余に都をつくり,若桜宮と称したとあり,稚桜宮で崩じたとも見える(神功紀摂政3年正月戊子条・同69年4月丁丑条)「延喜式」諸陵寮は磐余稚桜宮御宇神功皇后とし,「古語拾遺」は神功皇后の治世を履中天皇の「後稚桜朝」に対して「磐余稚桜朝」と記す「帝王編年記」は所在地を「十市郡磐余池里」に比定するが,神功皇后の実在性は乏しいと考えられている次に,伊邪本和気命(履中天皇)は伊波礼の若桜宮で天下を治めたと伝承される(古事記履中段)宮号の由来については,履中天皇が両岐船を「磐余市磯池」に浮かべて遊宴した時,膳臣余磯が酒を献じたすると,桜花がさかずきに落ち入ったので,物部長真胆連を遣わして桜花を求めさせたところ,掖上室山に得て献上した天皇はその希有なることを喜び宮号としたという(履中紀3年11月辛未条,姓氏録右京神別上若桜部造・和泉国神別若桜部造)「延喜式」神名上の城上郡35座のうちに若桜神社が見え,現在,桜井市谷と同市池之内字稚桜にそれぞれ若桜神社と称する神社がある磐余池と若桜の関係に注目するならば,後者が有力と考えられる(桜井市史上)次に白髪大倭根子命(清寧天皇)は「伊波礼の甕栗宮」で天下を治めたとあり(古事記清寧段),有司に命じて壇場を「磐余の甕栗」に設け,天皇即位し,宮を当地に定めたとも見える(清寧紀元年正月壬子条)「扶桑略記」が宮の所在地を添上郡に比定するのは誤り「帝王編年記」は清寧天皇の諱シラカから十市郡白香谷に比定,「大和志」は池内御厨子邑にありとする白香谷の位置は不明だが,現在の橿原【かしはら】市東池尻町に御厨子神社が残る次に,品太王(応神天皇)の5世の孫,袁本杼命(継体天皇)は伊波礼の玉穂宮で天下を治めたとされ(古事記継体段),磐余の玉穂に都し,磐余玉穂宮で崩じたともある(継体紀20年9月己酉条・同25年2月丁未条)「常陸国風土記」行方郡条には,継体天皇を石村玉穂宮大八洲所馭天皇と表記する宮の位置は不明だが,継体天皇の子,勾大兄皇子と春日皇女の歌謡に「磐余の池」が詠まれているので(継体紀7年9月条),この付近と推定される(地名辞書)次に,敏達天皇の訳語田幸玉宮(古事記敏達段,敏達紀4年是歳条)について,「扶桑略記」「帝王編年記」「玉林抄」はいずれも十市郡磐余訳語田宮と表記するので,訳語田も磐余の範囲に含まれていたことになる現在の桜井市戒重付近に比定される(桜井町史・桜井市史上)次に,橘豊日命(用明天皇)は池辺宮で天下を治めたとあり(古事記用明段),磐余に宮をつくり,池辺双槻宮と称したともある(用明即位前紀)宮号は,磐余池のほとりに槻の木が並び立つ場所があったことに由来するかなお欽明天皇の子,穴穂部皇子は敏達天皇の殯宮を守る三輪君逆を殺そうとして物部守屋と兵を率いて磐余の池辺を囲んだとあり,蘇我馬子は磐余の池辺に行き,皇子をいさめたともある(用明紀元年5月条)「上宮聖徳法王帝説」(寧遺下)は伊波礼池辺宮治天下橘豊日天皇,「延喜式」諸陵寮は磐余池辺列槻宮御宇用明天皇と表記するまた,用明天皇陵は「石寸の掖上」と伝承されるが(古事記用明段),「磐余池上陵」ともあり(用明紀2年7月甲午条),掖上は池上の誤りで,池上はイケノヘと訓むこともできる「和名抄」に見える十市郡池上郷内に比定されるさらに,崇峻天皇の宮は倉椅柴垣宮(古事記崇峻段)または倉椅宮(崇峻即位前紀8月是月条)とあるが,「上宮聖徳法王帝説」には石寸神前宮の名も見えるすなわち法隆寺金堂の釈迦三尊像光背銘に記す「鬼前太后」は神前太后と同じで,穴穂部間人皇女を示し,皇女が同母弟の崇峻天皇石寸神前宮に居住していたからであると説明される「万葉集」にも,春日蔵首老の歌や弓削皇子に献呈された挽歌に泊瀬山や城上の道とともに「つのさはふ石村」が詠まれる(282・3324)磐余池は市師池とも称され,履中天皇や本牟智和気王が舟遊びをしたと伝承される磐余はかつて池が存在した現在の橿原市池尻町・桜井市池ノ内を中心とする地域③磐余道「万葉集」巻3に「つのさはふ磐余の道」と詠まれる(423)題詞によると,石田王が死去した時,山前王が哀傷して詠んだ歌という左注には柿本人麻呂の歌ともある「つのさはふ磐余も過ぎず泊瀬山」(282)も同じ道を示すか磐余道は,一般に「阿部の山田の前の道」(霊異記上1)や「山田道」(万葉集3276)を示し,その北半分を指すとされるなお,磐余池を通る古道と考え,天ノ香久山の東側を越える道とする説もある④磐余山「万葉集」巻13に弓削皇子へ献呈されたと思われる挽歌に「つのさはふ磐余の山」と詠まれる(3325)「延喜式」神名上の十市郡19座のうちに石村山口神社が見え,現在の桜井市谷に比定されるただし,旧社地は南方の字丸山の丘陵に所在したといわれる(桜井市史上)なお,現在の桜井市高田に山口神社があり,これを式内社に比定する説もある天平2年の大倭国正税帳(正倉院文書/寧遺上)十市郡条に,石村山口神戸の租稲811束のうち4束を祭神料に充てたとあり,「新抄格勅符抄」大同元年牒には,「石寸神」に対し神封2戸と定められている貞観元年「石寸山口神」は従五位下から従五位上に神階を昇叙され,風雨祈願のため「石村山口神」らに奉幣の使者が派遣された(三代実録貞観6年正月27日条・同9月8日条)大和六所山口神の1つで,「山の口に坐す皇神等の前に曰さく,飛鳥・石村・忍坂・長谷・畝火・耳無と御名は曰して」と見える(延喜式祈年祭・六月月次祝詞)祈雨神85座の1つでもある(延喜式臨時祭)現在の桜井市谷の南西部丘陵を磐余山と称し,当地に残る東光寺跡の山号も磐余山と号し,寺伝によれば崇峻天皇の頃に創建されたという「万葉集」に「つのさはふ磐余も過ぎず泊瀬山何時かも越えむ夜は更けにつつ」春日蔵首老(282),「麻裳よし城上の道ゆつのさはふ石村を見つつ」(同前3324),「つのさはふ 磐余の道を 朝さらず 行きけむ人の 思ひつつ 通ひけまくは」山前王(423),「つのさはふ石村の山に白たへにかかれる雲はわが大君かも」(3325)と詠まれる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

磐余(古代)
大和期から見える地名伊波礼・石村・石寸などとも書く天ノ香具山の東北麓にかつて存在した磐余池付近から西方へ及ぶ地域大和の平野部から宇陀の山間部への入口に位置する地名の語源については「屯聚【いわむ】」「石像【いわあれ】」「断崖・峡隘の要害地」を意味する外来語,「石根【いわね】」などの説がある①磐余邑・磐余村神武即位前紀戊午年9月戊辰条に「兄磯城の軍ありて,磐余邑に満【いわ】めり」と見える磐余の旧名は片居または片立と称したが,皇軍が虜を破るに至り,大軍が当地に充満したので地名を改めて「磐余」と称するとあり,また,磯城【しき】の八十梟帥が屯聚した場所なので「磐余邑」としたともある(神武即位前紀戊午年8月戊辰条)ちなみに神武天皇の和風謚号は神日本磐余彦天皇(神倭伊波礼毘古命)と称した(神武即位前紀・古事記神武段)雄略朝には,水間君が献上した養鳥人らを軽村と磐余村の2所に安置したとある(雄略紀10年10月辛酉条)坂上系図(続群7上)所引「姓氏録」逸文に「石村村主」と「石村忌寸」が見える②磐余神功皇后および履中・清寧・継体・用明・敏達各天皇の宮伝承地まず,神功皇后は磐余に都をつくり,若桜宮と称したとあり,稚桜宮で崩じたとも見える(神功紀摂政3年正月戊子条・同69年4月丁丑条)「延喜式」諸陵寮は磐余稚桜宮御宇神功皇后とし,「古語拾遺」は神功皇后の治世を履中天皇の「後稚桜朝」に対して「磐余稚桜朝」と記す「帝王編年記」は所在地を「十市郡磐余池里」に比定するが,神功皇后の実在性は乏しいと考えられている次に,伊邪本和気命(履中天皇)は伊波礼の若桜宮で天下を治めたと伝承される(古事記履中段)宮号の由来については,履中天皇が両岐船を「磐余市磯池」に浮かべて遊宴した時,膳臣余磯が酒を献じたすると,桜花がさかずきに落ち入ったので,物部長真胆連を遣わして桜花を求めさせたところ,掖上室山に得て献上した天皇はその希有なることを喜び宮号としたという(履中紀3年11月辛未条,姓氏録右京神別上若桜部造・和泉国神別若桜部造)「延喜式」神名上の城上郡35座のうちに若桜神社が見え,現在,桜井市谷と同市池之内字稚桜にそれぞれ若桜神社と称する神社がある磐余池と若桜の関係に注目するならば,後者が有力と考えられる(桜井市史上)次に白髪大倭根子命(清寧天皇)は「伊波礼の甕栗宮」で天下を治めたとあり(古事記清寧段),有司に命じて壇場を「磐余の甕栗」に設け,天皇即位し,宮を当地に定めたとも見える(清寧紀元年正月壬子条)「扶桑略記」が宮の所在地を添上郡に比定するのは誤り「帝王編年記」は清寧天皇の諱シラカから十市郡白香谷に比定,「大和志」は池内御厨子邑にありとする白香谷の位置は不明だが,現在の橿原【かしはら】市東池尻町に御厨子神社が残る次に,品太王(応神天皇)の5世の孫,袁本杼命(継体天皇)は伊波礼の玉穂宮で天下を治めたとされ(古事記継体段),磐余の玉穂に都し,磐余玉穂宮で崩じたともある(継体紀20年9月己酉条・同25年2月丁未条)「常陸国風土記」行方郡条には,継体天皇を石村玉穂宮大八洲所馭天皇と表記する宮の位置は不明だが,継体天皇の子,勾大兄皇子と春日皇女の歌謡に「磐余の池」が詠まれているので(継体紀7年9月条),この付近と推定される(地名辞書)次に,敏達天皇の訳語田幸玉宮(古事記敏達段,敏達紀4年是歳条)について,「扶桑略記」「帝王編年記」「玉林抄」はいずれも十市郡磐余訳語田宮と表記するので,訳語田も磐余の範囲に含まれていたことになる現在の桜井市戒重付近に比定される(桜井町史・桜井市史上)次に,橘豊日命(用明天皇)は池辺宮で天下を治めたとあり(古事記用明段),磐余に宮をつくり,池辺双槻宮と称したともある(用明即位前紀)宮号は,磐余池のほとりに槻の木が並び立つ場所があったことに由来するかなお欽明天皇の子,穴穂部皇子は敏達天皇の殯宮を守る三輪君逆を殺そうとして物部守屋と兵を率いて磐余の池辺を囲んだとあり,蘇我馬子は磐余の池辺に行き,皇子をいさめたともある(用明紀元年5月条)「上宮聖徳法王帝説」(寧遺下)は伊波礼池辺宮治天下橘豊日天皇,「延喜式」諸陵寮は磐余池辺列槻宮御宇用明天皇と表記するまた,用明天皇陵は「石寸の掖上」と伝承されるが(古事記用明段),「磐余池上陵」ともあり(用明紀2年7月甲午条),掖上は池上の誤りで,池上はイケノヘと訓むこともできる「和名抄」に見える十市郡池上郷内に比定されるさらに,崇峻天皇の宮は倉椅柴垣宮(古事記崇峻段)または倉椅宮(崇峻即位前紀8月是月条)とあるが,「上宮聖徳法王帝説」には石寸神前宮の名も見えるすなわち法隆寺金堂の釈迦三尊像光背銘に記す「鬼前太后」は神前太后と同じで,穴穂部間人皇女を示し,皇女が同母弟の崇峻天皇石寸神前宮に居住していたからであると説明される「万葉集」にも,春日蔵首老の歌や弓削皇子に献呈された挽歌に泊瀬山や城上の道とともに「つのさはふ石村」が詠まれる(282・3324)磐余池は市師池とも称され,履中天皇や本牟智和気王が舟遊びをしたと伝承される磐余はかつて池が存在した現在の橿原市池尻町・桜井市池ノ内を中心とする地域③磐余道「万葉集」巻3に「つのさはふ磐余の道」と詠まれる(423)題詞によると,石田王が死去した時,山前王が哀傷して詠んだ歌という左注には柿本人麻呂の歌ともある「つのさはふ磐余も過ぎず泊瀬山」(282)も同じ道を示すか磐余道は,一般に「阿部の山田の前の道」(霊異記上1)や「山田道」(万葉集3276)を示し,その北半分を指すとされるなお,磐余池を通る古道と考え,天ノ香久山の東側を越える道とする説もある④磐余山「万葉集」巻13に弓削皇子へ献呈されたと思われる挽歌に「つのさはふ磐余の山」と詠まれる(3325)「延喜式」神名上の十市郡19座のうちに石村山口神社が見え,現在の桜井市谷に比定されるただし,旧社地は南方の字丸山の丘陵に所在したといわれる(桜井市史上)なお,現在の桜井市高田に山口神社があり,これを式内社に比定する説もある天平2年の大倭国正税帳(正倉院文書/寧遺上)十市郡条に,石村山口神戸の租稲811束のうち4束を祭神料に充てたとあり,「新抄格勅符抄」大同元年牒には,「石寸神」に対し神封2戸と定められている貞観元年「石寸山口神」は従五位下から従五位上に神階を昇叙され,風雨祈願のため「石村山口神」らに奉幣の使者が派遣された(三代実録貞観6年正月27日条・同9月8日条)大和六所山口神の1つで,「山の口に坐す皇神等の前に曰さく,飛鳥・石村・忍坂・長谷・畝火・耳無と御名は曰して」と見える(延喜式祈年祭・六月月次祝詞)祈雨神85座の1つでもある(延喜式臨時祭)現在の桜井市谷の南西部丘陵を磐余山と称し,当地に残る東光寺跡の山号も磐余山と号し,寺伝によれば崇峻天皇の頃に創建されたという「万葉集」に「つのさはふ磐余も過ぎず泊瀬山何時かも越えむ夜は更けにつつ」春日蔵首老(282),「麻裳よし城上の道ゆつのさはふ石村を見つつ」(同前3324),「つのさはふ 磐余の道を 朝さらず 行きけむ人の 思ひつつ 通ひけまくは」山前王(423),「つのさはふ石村の山に白たへにかかれる雲はわが大君かも」(3325)と詠まれる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

磐井郡
天正18年の小田原の陣後,当郡や気仙郡などを領した葛西氏が豊臣秀吉によってその所領を没収され,その旧領は大崎氏旧領とともに木村吉清・清久父子の所領とされた...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

磐城平城下(近世)
江戸期の城下浜通り南部,夏井川流域の沖積地に位置する磐前【いわさき】郡のうち慶長7年,岩城氏に替って入封した鳥居忠政は,はじめ岩城氏の大舘に居城したが,同8年隣接する赤目崎物見岡に12年の歳月を費して築城した城下は,北目村を中心に,拾五町目村・町分【まちわけ】村・長橋村の4か村の町場からなる鳥居氏時代の城下は,城の西方と西南方に侍屋敷,東方に中間屋敷と足軽屋敷,南西大舘地区に寺町,南部に職人町と町人町をおき,一町目から三町目に区画した慶安3年,城下四町目に五十集【いさば】問屋が差し許され,磐城7浜の漁商人は問屋に集まって売りさばいた延宝8年,平町商人に絹呉服商売が差し許された天和元年ごろの2・8の六斎市では,ナタネ・タバコ・茶・ナス・ウリ・大根・ゴボウ・大豆・小豆・里イモ・麻・桑などが扱われ盛大であったという(県史3)正徳元年の人口は家中譜代196・家中足軽4,260・寺社門前498と大工141などの諸職人400以上,町人3,325・出家など234で,町人の家数は酒屋57・肴屋34・紺屋25など631を数えた(諸品覚書)享保年間の家数は,重臣の侍屋敷が城内六間門に3,揚土に6,城北の侍屋敷は200余,城の防衛線といわれる西北の寺町には寺が50余,下級武士の屋敷は東方にあって,仲間町・鷹匠町・大工町・番匠町・白銀町などに150余,足軽の住居は新町・立町・久保町などに100余,職人町は城南の紺屋町・材木町・鍛冶町・研町・長橋町などに200余,町人町は南部に一町目・二町目・三町目・四町目・五町目と本町通り(陸前浜街道)にそって東西にのびて1,000余を数えた江戸中期に内藤家家老格の川崎刑部の平城下調査では,町内4,500軒・町数72町享保5年7月に城下と領内は洪水の被害を受ける元文3年,農民の余剰米を藩が買い上げ,三町目・五町目・紺屋町の商人に米の販売を差し許した同年9月,平藩領四郡181か村の惣百姓約2万人が,平城下へ押しよせ18か条の請願を示して,割元・豪商宅を打毀し,4日間にわたる一揆行動を展開したいわゆる元文一揆である宝暦6年,八幡小路に藩校を創設した(県史3)明治15年の調査(概説平市史)によれば,北目村には,手【てつかみ】町・九品寺前【くほんじまえ】・権現塚・紅葉町・梅香【うめが】町・四軒町・北目町・胡摩沢【ごまさわ】・桜町・杉平・六間門・六人町・八幡小路・高月・七軒町・大舘・古鍛冶【ふるかじ】町・揚土【あげつち】・掻槌【さいづち】小路・旧城跡・田町・一町目・二町目・三町目・四町目・白銀【しろがね】町・柳町・鷹匠【たかじよう】町・仲間【ちゆうげん】町・大工町・紺屋【こうや】町・研【とぎ】町・久保町,長橋村には,橋下・深町・梅本・小川田・童子【どうじ】町・堂ノ前・材木町・薬王寺台・新町,町分【まちわけ】村には,五町目・禰宜【ねぎ】町・上川原・鎌田台・五反田・正月町・堤ノ内・新川町・新屋敷【あらやしき】・三倉町・原前・川田・立町,十五町目村には,堂根町・小太郎町・はかり売町・佃川崎・菱川・三平田・釜ノ内・味噌田・下【しも】ノ町・新田【につた】前・新屋敷・新川【にいかわ】町・菩提院町・大切町・塚ノ町・田中・鍛冶町・禰宜町・五町目と見え,城下の字名の内,五町目・禰宜町・新川町・新屋敷などは町分村・十五町目村の2か村にかかっている宝暦11年の吉田定顕の「磐城枕友」によれば,工家として,酒造18・弓師1・瓦師1・洗物家1・石工1・髪結床3・張子人形師6・町医8・仏師1があり,市の日には小荷駄馬の市がたち,馬市の日には長橋・鎌田・久保町など三方の出口番所で763頭にも及ぶ馬の出入を割符をもって改めたというまた城下の様相については,城の塁上には松杉が繁り,濠には魚が遊泳し,六斎市には近隣から人々が集まり,街は広く街中に二行の店を構えたという魚は小名浜・四倉の浜より馬で運び,鯛・方頭魚【あまだい】・鮃【ひらめ】・鮟鱇【あんこう】・鰯などを商ったというまた城の北東の好間川と夏井川が合流するあたりでは鱒や鮎を産した戊辰戦争に際し,明治元年7月1日と13日の新政府軍の攻撃に,磐城平城の新川・夏井川・好間川によって形成される総曲輪内に位置する城下は兵火にかかり城は落城した明治16年城下を構成していた北目・拾五町目・町分・長橋の4か村が合併して平町となる...

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磐井郡
律令時代に成立した県下の諸郡は,胆沢・江刺・気仙・和賀・稗貫・斯波【しわ】まで,すべて六国史に所見があるにもかかわらず,一番早い成立と思われる磐井郡だけは,六国史に所見がない...

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磐城郡
鎌倉期~戦国期に見える郡名...

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磐田郡
「続日本紀」霊亀元年5月乙巳条に「石田郡」とあるのが初見...

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磐前郡
「吾妻鏡」文治5年7月17日条によれば,源頼朝が奥州合戦の際,東海道大将軍千葉介常胤・八田知家に対して「経宇大・行方,廻岩城・岩崎,渡遇隈河湊」り,参会するよう命じており,これを初見とする...

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西暦2025年(平成37年)
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今日の記念日

『おけいこの日,いけばなの日、かえるの日』

昔から、芸事は6歳の6月6日から始めると上達すると言われていることからこの日をおけいこの日・いけばなの日としました。

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月齢:10

月齢:10
月名(旧歴日):十日夜の月(とおかんやのつき)

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