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![]() | 一日市町【ひといちちょう】 (近世)江戸期の町名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 一日市町(近世) 江戸期の町名遠野城下(横田五町)の一町遠野盆地の南,鍋倉山の北方,早瀬川下流左岸に位置する地名の由来は毎月1の日に市が開設されたことによるはじめ中世阿曽沼時代に現在の松崎町大柳付近から畑中にかけて開かれたと伝える(上閉伊郡志)天正年間,阿曽沼氏が護摩堂から鍋倉山へ横田城を移す際,館下町だった当町も現在地へ移されたとする(上閉伊郡志)地籍上は横田村地内に属す行政は町奉行のもと,検断制を採用,検断は町内の有力者が選任され自宅にて執務し,その下に老名・馬刺・古人(境拠人)・親ぶさなどが置かれて検断を補佐した元和2年には人口382(八戸家伝記前后編類聚/遠野町誌),南部直義以前からすでに町家街の様相を呈していたもののいまだ雑然としており,直義が間口7間半・奥行39間を1区画として定めて町並を整理した(遠野市史)延宝9年の幕府巡検使に対する御答書上帳によれば,戸数70・人口687,うち男365・女322,馬数103(遠野市史)「邦内郷村志」では戸数181夫伝馬は月のうち12日,のちに14日を負担当町は遠野六度市のうち,11・21日の両度を市立日とし(検断勤方記),中継商業地遠野の中心となる元禄中期以降は,市日だけの商いではなく紺屋・薬種店・お茶屋・菓子売・豆腐屋・質屋などが常設され,より一層商業活動が活発になった(遠野古事記)盛岡藩は江戸中期以降,逼迫する藩財政補填の一政策として遠野六度市市場へたびたび介入し,遠野商人に代わって盛岡商人の請負,それに伴う入出荷商品への口銭役増徴政策が強行された(海老文書・検断勤方記)そのたびに遠野商人は,駄賃付(運送)業者である在方百姓をまきこんで盛岡商人請負い反対闘争を展開した安永6年遠野六度市口銭役反対一揆はその典型で(海老文書・南部藩百姓一揆の研究),当町はその一揆の中心的役割を果たし,強訴を成功させたしかし,盛岡藩認可による盛岡商人請負は寛政・弘化年間にも実施され,その度毎に遠野商人と対立した(南部藩百姓一揆の研究・菅沼藤左衛門控書)神社は宇迦神社があり,祭神は宇迦御魂神,かつて運満虚空蔵を祀った古社で勧請年代不詳境内のナラの古木は里程の印といわれ,現在は里程の記念碑がある(遠野市史)明治5年検断制を廃止(同前)同10年用水堰を道路中央から両側へ移す同22年遠野町の一部となるが,以後も当町名は通称地名として見えている明治24年後丁より出火,本町の東半分を類焼(遠野消防沿革誌・遠野町消防誌/遠野市史)大正4年岩手軽便鉄道(現国鉄釜石線)の開通により商業中継地としての機能を失う(遠野町誌)が,遠野の中心的商店街としての役割は現在も保持している昭和39年以降は中央通りの地内となっている... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 一日市場村【ひといちばむら】 (近世)江戸期~明治7年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 一日市場村(近世) 江戸期~明治7年の村名安曇【あずみ】郡のうち梓川左岸の扇状地に位置する安曇野への南からの入口にあたる古くから交通の要衝地名の由来は,中世に1の日に三斎市が立ったことによる神明宮の東南に堀の内の地名が残り,これは郷主富田左近将監の居城跡と伝える中世には二木郷に属し,二木豊後守屋敷が集落北町尻の西裏道(旧千国道)にあった天正11年深志城主小笠原貞慶は,二木豊後守を西牧領代官に任命,梓川西のしろ木材木・薪の売買を一日市場で商売するように命じている(笠系大成)西牧氏による堰開発,特に庄野堰の開削により村落を形成街道沿いで,塩問屋を中心に町並みを形成,当地方特有の飴市も当地で始まったといわれる飴市はもと塩市と呼ばれ,戦国期上杉氏が塩を送ったという義挙をたたえて始まったと伝える江戸初期には大市が立ったが,次第に衰微したなお「善光寺道名所図会」には「初市立とて,塩をひさぐことあり,松本より三里程西に一日市場といふ在所に,蛭子の社人とて三,四人あり,初市には……塩をひろめしが」と見え,松本平では一番早く正月7,8日に飴市が立った寛文3年検地に際して二木村から分村して成立松本藩領長尾組に属する村高は,寛文3年検地帳710石余,「元禄郷帳」676石余,「天保郷帳」では二木村枝郷とあり751石余,「旧高旧領」818石余寛文3年検地帳によれば,家数60寛政10年には店商いするものが9軒あった(南安曇郡誌)天保5年の家数9安政3年の大火で40軒を焼失元治2年村入用帳によれば,租税として高割で1石につきそれぞれ郷夫余内銀1匁9分3厘・附払駄賃銀2匁1分4厘3毛・高掛り銀9匁1分・物成銀4分8厘2毛・国役金銀3分8毛,人別割で楮役・紙漉船役・宗門銭・塩運上,のほかに屋丁役(本百姓役)などの小物成を負担している神社は南西端に神明宮があり,近くに社宮司も祀られており,これはかつて開拓の中心地であったことを示すものと思われる鎮守は二木村の諏訪三柱神社寺院は中町の西側に西牧氏が長徳年間に開基したと伝えられる真言宗長徳寺があったが,安政3年の大火で類焼のち再建されたが排仏毀釈で廃寺となる慶長19年5月5日松本城主小笠原秀政は長徳寺へ禁制を下し,山林竹木の伐採,寺内の殺生・狼藉,無断入寺の禁止など3か条を定めている(三郷村誌)また現真光寺の所に浄土宗善導寺があった明治4年松本県を経て筑摩県に所属同5年旧長徳寺庫裏に小学校が開校,生徒数は男25・女5同7年明盛【めいせい】村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 一日市村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 一日市町【ひといちまち】 (近世~近代)江戸期~昭和41年の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 一日【ひと-ひ】 [1]一日(いちにち)... |
出典:東京書籍「全訳古語辞典」
![]() | 一日市町(近世~近代) 江戸期~昭和41年の町名明治9~22年鶴岡を冠称江戸期は鶴ケ岡城下のうち明治22年鶴岡町,大正13年からは鶴岡市の町名城下の南東部,内川右岸に位置する慶長年間は内川の左岸の城近くにあったが,酒井氏入部以後の町割りによって元和9年内川の右岸に町割りされた町人町(大泉紀年)町名は最上氏のときの山形城下の町名によったという(北窓雑記)町内で月6回,1・7の日に市が開かれた(閑散文庫/典故志)呉服屋の多い町で「東講商人鑑」には,呉服太物小間物類問屋美濃屋利兵衛の名が見える江戸中期には酒屋も多く,酒屋数并酒造米員数之覚書(鶴岡市史)には,17軒の酒屋があった町の北端の内川端には大庄屋宇治家と安永7年まで御使者宿があった天和2年の町割家数人数書上帳(県史17)によれば,家数78軒・人数707元禄7年の川上記(鶴岡市史)では総家数87軒,人数746うち男429・女317明治11年の一覧全図によれば,反別3町2反余,戸数90・人口570同13年真澄町を合併戸数・人口は明治16年107・588(朝暘学校沿革誌/鶴岡市史),同43年115,759うち男347・女412(西田川郡統計表)大正2年「庄内案内記」に見える鶴岡有名呉服店12軒のうち当町は6軒鶴岡最初の理髪店・文房具屋・ラジオ店も当町にあった明治30年両羽銀行鶴岡支店,同31年鶴岡水力電気,大正6年鶴岡劇場(昭和10年焼失)が設立され,昭和4年東北電力が現在地に移転され近代名建築の1つに選ばれている昭和37年呉服店跡に鶴岡郵便局が移築された世帯・人口は昭和6年125・860うち男432・女428(市教育会第二回郷土調査),同35年152・676(市統計情報)昭和41年本町2丁目の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 一日市村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 一日市場輪中【ひとひいちばわじゅう】 岐阜市の島輪中の西南部に隣接する独立した小輪中... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」