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![]() | 真岡町(近世) 江戸期~明治22年の町名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 真方村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 真里谷郷(中世) 南北朝期から見える郷名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 真壁郡 弘安田文に真壁郡として登録されているのは長岡・谷貝・亀隈・細柴・一木・紀三郎名・伊佐々・山野宇・山田・羽鳥・椎尾国貞・同貞則・同助貞・塙世・中村・源法寺・窪・田村・白井・桜井・大国玉社・大曽禰・光行・松久・小幡・竹来であり,大曽禰郷の約112町を筆頭に惣田数は534町5反半に及ぶ(税所文書/県史料中世Ⅰ)... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 真島荘(中世) 鎌倉期~戦国期に見える荘園名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 真幸院(中世) 平安末期~戦国期に見える院名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 真清田神社【ますみだじんじゃ】 一宮市真清田1丁目にある神社... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 真砂丁【まさごちょう】 (近代)明治5年~現在の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 真土【まつち】 (古代~中世)飛鳥期から見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 真鶴半島【まなづるはんとう】 県南西端,足柄下郡真鶴町の相模湾に突出する半島... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 真土(古代~中世) 飛鳥期から見える地名亦土・亦打・又打・信土とも書く「まつち」は松乳の義で,松脂を採集した山,あるいは粘土,色土などに対して普通の土壌(黒色)を意味する語である(五條市史下)①真土山「万葉集」巻1に,調首淡海が大宝元年9月太上天皇(持統上皇)が紀伊国へ行幸した時に詠んだ歌として「あさもよし紀人羨しも亦打山行き来と見らむ紀人羨しも」(55)があるまた巻9には大宝元年10月太上天皇・文武天皇が紀伊国へ行幸した時の歌13首に次いで,「後れたる人の歌二首」があり,「麻裳よし紀へ行く君が信土山越ゆらむ今日そ雨な降りそね」(1680),「後れ居てわが恋ひ居れば白雲の棚引く山を今日か越ゆらむ」(1681)と詠まれる紀伊国への行幸は,大宝元年9月18日に藤原京を出発,10月8日武漏温泉(現白浜温泉)に至り,同月19日に還幸している(続紀大宝元年9月丁亥条・10月丁未条・同戊午条)「万葉集」巻1によれば,太上天皇と文武天皇による行幸とされ,飛鳥から巨勢路をとり宇智郡を経て,紀伊国へ入っている「万葉集」に見える「真土山」は,現在の五條市上野町から和歌山県橋本市真土に至る国境の待乳峠を示すといわれる(五條市史上)記録に見える次の紀伊行幸は神亀元年の聖武天皇によるもので,10月5日に平城京を出発,7日に紀伊国那賀郡玉垣匂頓に至っている(続紀神亀元年10月辛卯・癸巳条)この行幸に際しても,「万葉集」巻4には,笠朝臣金村が「神亀元年甲子冬十月,紀伊国へ幸しし時,従駕の人に贈らむがために,娘子に誂へられて作る歌一首」として「大君の 行幸のまにま 物部の 八十伴の雄と 出で行きし 愛し夫は 天飛ぶや 軽の路より 玉襷 畝火を見つつ麻裳よし 紀路に入り立ち 真土山 越ゆらむ君は」(543)と詠まれているその他真土山を詠んだ歌は多いが,いずれも大和から紀伊へ向かう境の山,交通上の難所として歌われている(万葉集298・1192・1680・3009・3154,新古今集336・1197など)「白河上皇高野御幸記」(続史料大成)寛治2年2月24日条や「高野御幸記」(群書3)天治元年10月25日条にも「真土山」を越えたことが見える②真土条永祚2年11月21日栄山寺牒(栄山寺文書/五條市史下)に「真土条八里廿八‐三段六十歩」と見える当条には8里が存在したことが確認され(栄山寺文書長保4年11月25日栄山寺牒など/五條市史下),仁安4年2月27日二見坂合部郷預所給田畠注文(東京大学所蔵東大寺文書/平遺3496)には4里が見える同条8里は平安中期から後期にかけて合計11か坪が栄山寺領であると主張しているその内訳は15~21坪と28~31坪に二分されるが,前者は寛弘年間頃に改作されたとみられる天平神護元年9月23日太政官符案(栄山寺文書/五條市史下)を除けば,長保4年11月25日栄山寺牒(同前)以後になってから寺領としての免除申請がなされているので,寺領化されたのは後者より遅かったと推定される28~31坪は遅くとも永祚2年,早ければ天元3年の時点で栄山寺領として認められていたらしい(栄山寺文書永祚2年11月21日栄山寺牒・年欠太政官符案/五條市史下)一方真土条4里には28・30・35坪が確認でき,二見郷内に存在した現在の五條市に接する和歌山県橋本市に真土があり,県境の落合川西岸の山を待乳山と称するので,落合川の谷を真土条に比定することができる③真土宿鎌倉期の寛元2年3月日付陳状案(古事類苑政治部所収佐藤文書/鎌遺6303)に「当(大和)国中真土宿」とある現在の五條市の一部と和歌山県橋本市真土に比定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」