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元【もと】


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[最終更新日:2006-12-11/JLogosid:705406460]
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→無料版JLogos【元(もと)】

ベネッセ国語辞典 電子特別編集版

『福武国語辞典』を元に編集した電子特別編集版。日々の仕事・生活の中で使われる言葉や意味、用法が重要な現代語を中心に約6万語を収録。文章を書く際に役立つよう用例を多く掲載するなど使いやすさを追求した国語辞典。

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元気【げんき(1)】

(活力)energy[U];(精力)vigor,《英》vigour[U];(活気)vitality[U];(気分)spirits;(健康)health[U];(体力)strength[U]
━━元気な
fine, well;(精力的な)energetic, vigorous;(陽気な)cheerful, high‐spirited;(活発な)lively, alive;(健康な)healthy
━━元気に
(精力的に)with energy, with vigor;(陽気に)cheerfully, in high spirits
【元気が】
*母はいつも元気がいい My mother is always cheerful [full of energy].
*彼はきょう元気がない He isin low spirits [depressed] today.
*その映画を見て元気が出た The movie 「lifted my spirits [cheered me up].
*どうかしたの.きょうは元気がないね Is anything wrong? You don't look well today.
*薬を飲んでしばらく寝たら少し元気が出た I felt a little better after I took medicine and had some sleep.
【元気を】
*元気を取り戻す recover one's vigor
*彼女にふられて彼は元気をなくしてしまった He's lost his vigor since his girlfriend left him.
*元気を出しなよ Cheer up!
【元気な】
*元気な赤ん坊 a lively [bouncing] baby
*「ただいま」という元気な声が聞こえてきた “I'm home,” came a lively voice.
*祖父は元気なころは畑仕事をしていた My grandfather used to work in the fields when he was healthy [in good health].
*祖母が元気なうちに温泉に連れていってあげたい I hope to take my grandmother to a spa while she is healthy [in good health].
【元気に】
*子供たちが公園で元気に遊んでいた Children were playing cheerfully in the park.
*すっかり元気になりました(→健康を回復した) I've recovered my health completely.
*早く元気になって(→よくなって)ください I hope you'll get better [well] soon.
*彼はアメリカで元気にやっている He is doing all right in America.
【元気だ】
*彼女はきょうはとても元気だ She is pretty well today.
*彼女は年のわりにはびっくりするほど元気だ She is amazingly alive [(→活動的だ)active, spry] for her age.
*新しい学校でも元気でね I wish you well in your new school.
*お元気で Good luck.
[会話]
*「久しぶり.元気?」「元気だよ」 “Long time no see! How are you?” “(I'm) fine, thank you.”
[会話]
*「お母さんは元気?」「相変わらず元気だよ」 “How's your mother?” “She's as strong as ever.”
【その他】
*彼らは若者らしい元気さに欠ける They are lacking in youthful vigor.
*彼は元気の出る話をしてくれた He told me an encouraging story. / 彼女の手紙に元気づけられた I felt [was] encouraged by her letter. / 彼を元気づけるにはどうしたらいいだろう What should we do to cheer him up? / 子供たちにあいさつをしたら元気のない返事が返ってきた When I said hello to the children, they answered me cheerlessly [in a cheerless tone]. / 幼稚園児たちが園庭を元気いっぱい走り回っている The kindergarten children are running around very cheerfully in the yard. / 疲れきって口をきく元気もなかった I was too exhausted to say a word.

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出典:東京書籍「アドバンスドフェイバリット和英辞典」

元寺町【もとてらまち】
(近世~近代)江戸期~現在の町名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

元寺町(近世~近代)
江戸期~現在の町名明治初年~明治22年は弘前を冠称江戸期は弘前城下の1町城郭三の丸の真東に位置する堀端の下白銀町の東から堀に並行して南北に広がり,東は南側から一番町・鉄砲町・上鞘師町・下鞘師町・元寺町小路の5町に接し,北は東長町,南は親方町に続く寛永末年頃の津軽弘前城之絵図では,東側は町屋5軒のほかに浄土宗5・法華宗3・浄土真宗6・天台宗1の寺院があり,西側は町屋となっている正保3年の津軽弘前城之絵図では,浄土真宗4・天台宗1・法華宗3の寺院が見える慶安2年の弘前古御絵図には寺町とあり,西側には31軒の屋敷割りがなされ,居鯖8・武家3,重臣北村藤九郎の下屋敷があるほか,堺屋・加賀屋・村田屋などの屋号をもつ商家,煙草屋・大工などが見え,雑多な職業構成であった慶安2年5月3日横町(後の東長町)の算盤屋大坂屋久兵衛から出火した火災は,当町の4か村を焼いたという(平山日記)この火災後当町の寺院を全部南溜池の南側に移して新寺町がつくられ(津軽歴代記類),以後当町は本寺町または元寺町と呼ばれることになった承応元年に新たに屋敷割りが行われて本寺町と称し(津軽一統志),また白銀町の武家屋敷が移転したという(平山日記)万治2年の津軽弘前古絵図では現一番町が本寺町一丁目,現元寺町小路が本寺町五丁目と見える寛文13年の弘前中惣屋敷絵図では,本寺町として町屋のみが見える延宝6年の弘前町方屋敷割では西側の屋敷34軒は本寺町と見えるまた東側は現一番町が本寺町一丁目,現鉄砲町が本寺町二丁目,現上鞘師町が本寺町三丁目,現下鞘師町が本寺町四丁目,現元寺町小路が本寺町五丁目と記され,合わせて町屋を中心に81軒の屋敷がある「国日記」の宝永2年3月15日条によれば,寺町34軒のうち,武家19軒のほかに豆腐屋・薬缶屋・指物屋・舛屋・菽屋【まめや】・荒物屋があり,丹波屋・猿賀屋・最上屋・鶴屋・亀屋などの屋号の商家が並んでいる宝永年間には郭内武家屋敷の郭外移転によって,当町の西側は中級武士の屋敷街となった享保4年頃の町屋数円には一番町,鉄砲町,上・下鞘師町の町名があり,本寺町一~五丁目はなくなっている享保20年の町割帳によれば,町内には南から順に今井源五右衛門・笠原八郎兵衛・笹森解勘由左衛門など重臣の屋敷があるが,これらは当時,下白銀町と当町との間にあった元長町の大部分の町域が取り払われているため,かなり大きな屋敷地となっている延享元年5月11日に本町一丁目から出火した火災で,当町の南側および一番町が焼け,笹森家も焼失した(平山日記)宝暦6年の弘前町惣屋鋪改大帳には町名は見えず,大火後に武家屋敷街に変化したことを示している享和3年の御家中町割には重臣10家が町並みを構成している明治3年の弘前図では,当町の西側を武家屋敷,東側を町人町としている明治初年の「国誌」によれば,戸数102,町の状況について「当町芝居座茶雑売鋪魚戸等多し」と見える当町の南端西側,旧笠原家の場所は,廃藩後の明治4年9月弘前県庁となり,県庁が青森へ移転した後の同年11月には青森県庁弘前市庁となった同所に同11年中津軽郡役所を設置明治7年含英【がんえい】女小学が開校し,同11年県立弘前女子師範学校が併置されたが,同18年廃校同22年弘前市に所属同年郡役所が清水村富田へ移転同23年に弘前市役所が中津軽郡役所跡に東長町から移転してかたのち火災で焼失したため同25年に新築された庁舎が,昭和34年上白銀町へ移るまで当町にあったその北隣りに明治4年邏卒役所が置かれ,それが同8年県第3警察出張所となり,同10年弘前警察署と改称され,同26年に庁舎新築,昭和35年下白銀町に移転明治5年に,当町中程西側の旧高屋敷跡に,弘前消防組頭5人が共同出資して劇場柾木座がつくられた同13年5月同劇場から出火した火災は,当町のほか本町・元大工町・元長町・親方町・百石町・下土手町・鍛冶町など1,064戸を焼く大火となった復興した柾木座は,市の中心部という地の利を占め,壮士芝居などが上演されたまた,歌舞伎・女義太夫・新派劇なども上演したが,大正6年5月また出火して全焼した同8年弘前座と改称して復興したが,同11年頃からしばしば活動写真も上映した弘前座は昭和15年から東宝映画劇場となって現在に至っている同劇場裏手にある小祠は,南朝の落人僧の墓にまつわる伝承をもち,近年改築され榎神社と呼ばれて商売繁盛の社とされる元寺町から下白銀町までの横町は通称榎小路とよばれる明治13年当町北寄りの西側に日本キリスト教団弘前教会堂が建てられた2間に3間という手狭な会堂にはじまり,同30年ゴシック式の会堂が完成した同37年に隣家からの火災で焼失し,同40年新会堂が落成した当町北端は重臣毛内家の跡で,明治10年魚市場が開設され,同16年戸長役場が置かれた同20年弘前高等小学校が開校,同35年女子を収容する第二高等小学校が開校して第一尋常高等小学校と改称大正3年時敏尋常小学校が第一尋常高等小学校校舎に移転し,第二高等小学校の女子を収容して高等科と補習科を併置する時敏尋常高等小学校となった補習科は大正7年弘前女子実業補習学校となり,同14年弘前市立女子実業学校,昭和18年市立高等女学校と改称し,同20年山道町の弘前高等家政女学校校舎に移転現在は中野に弘前実業高校として所在時敏尋常小学校は昭和20年戦災で青森から移転してきた青森師範学校男子部の校舎となったが,同21年11月1日校舎に復帰し,同22年第一中学校を併設,同26年中学校が独立校舎へ移転同35年養正小学校の廃校にともない,その児童を収容同56年宮園1丁目へ移転同年この跡地に,文化会館と中央公民館を併置する弘前文化センターがつくられた昭和3年の賦課戸数80世帯数・人口は,同25年130・665,同50年140・402,同55年100・290...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

元紺屋町【もとこんやまち】
(近世~近代)江戸期~現在の町名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

元紺屋町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は甲府城下上府中(古府中)26町の1町慶長16年の古府中再縄水帳(甲府略志)では「こうや小路」と見える武田氏の時代に造営された町の1つで,甲府築城にともない新城下に組み込まれた新城下の造営に際して下府中(新府中)に町名を移し,当町には古をつけて古紺屋町と称し,のちに宝永元年の柳沢吉保の甲府入封にともない元紺屋町と改めた町人地甲府城の北,郭外に位置する町並みは西の元城屋町と並行して南北に広がり,南北1町,東側198間・西側142間(国志)東には標高400m級の荒神山と愛宕山が並び,そのすその傾斜を段々に平らにしては家屋が建てられた北は古府中村字山之越と,名刹大泉寺門前道路が交わり,南は愛宕町に接する町名の由来は,武田信虎の時代に紺屋職人が居住し,農業のかたわら武将の旗指物や手綱・馬具の染物の注文に応じていたことによるという町の西側を藤川が南流するため,北部では片側家並みであるが,南部では西南に流れが変わり両側家並みとなる戸口は,寛文10年81人(甲府御用留/甲府略志),貞享4年33戸(上下府中間別/同前),享保5年87人(上下町中人数改帳/甲州文庫史料2),宝暦12年78人(甲府町中人別改帳/同前),文化初年21戸・43人,うち男31・女12(国志),天保7年20戸・43人(甲府上下町屋敷数人別改覚/甲州文庫史料2)町人足役を勤める大助32町の1町で,年間の人足出役基準は4人当町には寺院が多く,真言宗真如山華光院良林寺と子院長厳院・良林寺末延寿院・不動山長谷寺・明王院・法鏡院,曹洞宗大泉寺末万松山宗信院・同末朝日山東昌院,臨済宗永明院,日蓮宗仏寿山妙遠寺,修験当山行蔵院・祇園寺・本山派福昌院があり,このうち祇園寺ははじめ古府中躑躅ケ崎【つつじがさき】館の鎮護として武田氏の保護を受け,修験寺の触頭として出陣の法螺貝吹鳴の役,他国へ軍事密偵察の役を本山派の福昌院とともにもっていたまた祇園寺は愛宕山上に牛頭天王社を祀ってその別当を勤め,牛頭天王社の氏子には,御納戸小路・新紺屋町・愛宕町・元紺屋町・古府中村・岩窪村など甲府城の東・北の町々があった毎年正月・6月・9月・11月の祇園会祭典には氏子町内の人々が御輿渡御を行い,また元和元年には疫病が流行したため疫病神祓いとして臨時に御輿を繰り出した牛頭天王は一名武塔天神,別名素戔嗚尊といい,仏教の周辺的眷属(天部)の信仰が平安期に始まり,疫神や災害の原因として考えられる怨霊の来襲をなだめる祭りとして御霊会が国家的行事で京都で行われ,これが甲州へ伝えられた享保18年には異常気象により全国的な飢饉に陥り,その後疫病が流行したが,氏子町の人々は祇園寺に牛頭天王御輿出動を要請し,御輿を華やかに色紙などを使って飾りたて,町々を練り回った甲府の古社(府中八幡・御崎・穴切・柴宮・千塚八幡)の神主らは神道にまぎらわしき神儀として御輿練りの差止めを甲府城勤番支配へたびたび願い出て,御輿練りは次第に小規模になったこの出動には町年寄や町名主らも賛意を表しており,民衆の疫病に対する恐怖の大きかったことが推知される京都では鉾や山車,祇園囃子も発達し,祇園祭りは民俗芸能を残したが,甲府では行政措置で育たなかった永明院および東昌院は府内観音霊場として,それぞれ29番・30番の順礼札所になっている福昌院の隣接地には熊野神社が祀られ,熊野信仰が普及した当町と元城屋町の間にある八幡山には甲斐の総社八幡神社が鎮座する明治維新後,神仏分離令により寺院の多い元紺屋町では墓地・檀家をもつ寺院でも末寺格では本寺に合併し,檀家で葬式が出た場合は本寺で葬式をするようになった華光院は末寺を合併し,葬式を引き受けるようになってから,墓地を荒神山の中腹に設け,また大工職人の参詣も増えたので毘沙門堂を太子堂に変えた毘沙門像・聖徳太子像・弁天像の3体は古くは甲府城内にあったが柳沢吉里が大和郡山へ国替えの時,華光院に納めた由緒のものである檀家のない当山派・本山派の修験寺は廃寺にすることを本山で承認したが,このうち行蔵院は本山の真言宗醍醐寺三宝院から明治6年4月本宗に帰入することを認められ,修験を脱したまた祇園寺は廃寺となり,僧侶か神主か,いずれかに転身を強いられた祇園寺の武田家は両者を捨てたが,氏子の各町が牛頭天王社を盛り立て,同社は独立して八雲神社になった本山派の福昌院も廃寺になったが,熊野神社は別の神主の支配に移り残された明治3年の戸数11,うち家持10・借家1(甲府町方家数人数取調書)同17年上府中組戸長役場の管轄区に入る同22年甲府市に所属同年から同36年まで上府中を冠称戸数・人口の推移は,明治22年41・163,同31年41・201,同41年47・234,大正7年56・285甲府市では明治30~31年に赤痢が大流行したが,患者の収容・隔離施設がなかったため,同31年急遽町内に伝染病舎を建設,一部の患者収容に間に合わせた同病舎は同32年に完成したが,昭和3年に腸チフスが多発した時には病棟が不足したこのため市立病院の建設が要望され,同7年甲府病院が開設された第2次大戦中は県病院の分院となり,戦後の同24年市立甲府病院が本格的に設立されると,これに吸収された同32年町内にカトリック教主管の聖ヨゼフ老人ホームが開設された大正期に荒神山と愛宕山の中腹に市道愛宕線が開削されたため,この高台は住宅地化した会社の職員寮や組合アパートなども建てられた世帯数・人口は,昭和12年93・429,同22年101・475,同50年332・977,同56年379・979昭和37年一部が宮前町となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

元三日町【もとみっかまち】
(近世~近代)江戸期~昭和37年の町名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

元三日町(近世~近代)
江戸期~昭和37年の町名江戸期は甲府城下上府中(古府中)26町の1町武田氏の時代に造営された町の1つで,甲府築城にともない新城下に組み込まれた町人地城下の北西部に位置し,西は相川の左岸の土手に接する上横沢町に接する東西通りと,それより北へ一曲して白木町へ通じる南北通りからなる東西通りは南側108間半・北側109間半,南北通りは東側66間半・西側42間半(国志)甲府城の三ノ濠が南北通りの中ほど,白木町との間に東西にめぐり,その西端は相川に連結して相川ともども城の西郭の構えに仕組まれているまた東西通りの東の突き当たりに二ノ濠があり,二ノ濠に沿う細道は新紺屋町・愛宕町を経て下府中および甲州街道へ通じた町名の由来は,甲府築城以前に三日市が立っていたことにちなみ,甲府築城にともない上府中(新府中)に町名が移されて当町は古三日町と改めたが,その後宝永元年柳沢吉保の甲府入封に際し元三日町と改称された町人足役を勤める大助32町の1町で,年間の人足出役基準は15人戸口は,寛文10年188人(甲府御用留/甲府略志),貞享4年49戸(上下府中間別/同前),宝暦12年156人(甲府町中人別改帳/甲州文庫史料2),文化初年47戸・94人,うち男45・女49(国志),天保7年47戸・72人(甲府上下町屋敷数人別改覚/甲州文庫史料2)甲州街道の設置に際し,相川橋畔に「甲府西の一里塚」がたてられた寺院は日蓮宗相応山養行寺,臨済宗桃岳院・法光寺・東漸院・東明院があり,養行寺は明応元年の創立臨済宗の4か寺は甲府築城に際し西の防塞線の役割を担い配置されたもので,いずれも140~450坪の境内除地を有していたが,東明院・東漸院はのちに廃絶したまた,天明年間に法印横山良海が元三日町交差路の南角に寺院玉泉院を創立したが,文化年間にこの本堂を学舎にして近隣の子供らを集めて寺子屋を開業,良海の子良俊,孫の良敬と続き,明治初年には男150人・女70人の生徒をもつ学舎になっていた県は明治6年にこれを仮学校と指定,寺子屋塾を廃して「本立館」と改称し,良敬を仮学校の教師に任用した同7年には校舎が狭隘になったため古府中村要法寺に移して,公立小学古府学校とし,上府中総町および塩部・元三日町・古府中以北の6か村の児童を教えたが,同10年に類焼に遭い,同16年に新紺屋町に新築して新紺屋学校となった神社は相川架橋の塩部村にある原山神社を信仰し,毎年8月26日の祭典には3匹の鰻を放流した明治3年の戸数29,うち家持24・借家5(甲府町方家数人数取調書)明治10年頃から甲府城三ノ濠の埋立てが始まり,町内の三ノ濠も細く深い側溝に縮めたほかは大部分が埋められ,小字南裏に近い部分に50坪ほどの痕跡をとどめて大正の初期まで蓮池と土手が残っていたその後宅地化が進み,埋立地や東明院・東漸院跡地も宅地になった同17年上府中組戸長役場管轄区に入る同22年甲府市に所属同年から同36年まで上府中を冠称戸数・人口は,明治22年32・181,同31年44・241,同41年82・418,大正7年100・527,昭和12年の世帯数112・人口555同20年の空襲では全世帯数136のうち102世帯が全焼,2世帯が半焼の被害を受け,罹災者467人,死者3人・重軽傷者3人を出した第2次大戦後焼跡へ丸中製糸工場が建設されるとともに,民家も復興し,同23年には117世帯・649人となる丸中製糸工場は同24年から同26年にかけて労働争議が起き,閉鎖されたその跡を受けて模範社製糸工場が操業したが,のち竜王町へ移転跡地を県が買い上げて繭検定所と繭検査事務所の合同庁舎を建設した同37年美咲1~2丁目・朝日1~5丁目の各一部となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

元城屋町【もとじょうやまち】
(近世~近代)江戸期~昭和37年の町名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

元城屋町(近世~近代)
江戸期~昭和37年の町名江戸期は甲府城下上府中(古府中)26町の1町慶長16年の古府中再縄水帳(甲府略志)では「てふや小路」と見える武田氏の時代に造営された町の1つで,甲府築城により新城下に組み込まれた新城下の造営に際して下府中(新府中)に町名を移し,これと混同するのを避けて古城屋町と呼び,のちに宝永元年の柳沢吉保の甲府入封にともない元城屋町と改めた町人地甲府城の北に位置し,外郭が町を横断する南は内城山手門に当たり見付が置かれ,北は古府中村に接する南北通りで,西側211間・東側237間(国志)1~3丁目からなり,細工町と広庭町の東西通りがそれぞれ交差する十字路を丁目の境とし,甲府城に近い方から1・2・3丁目と数える戸口は,寛文年間163人(甲府御用留/甲府略志),貞享4年57戸,うち1丁目12・2丁目17・3丁目28(上下府中間別/同前),享保5年240人(上下町中人数改帳/甲州文庫史料2),宝暦12年257人(甲府町中人別改帳/同前),文化初年49戸・185人,うち男95・女90(国志),天保7年52戸・126人(甲府上下町屋敷数人別改覚/甲州文庫史料2)町人足役を勤める大助32町の1町で,年間の人足出役基準は20人寺院は真言宗薬王山宝珠院・同末浄性院,曹洞宗鶴寿山来福寺がある神社は八幡社があり,戦国期には武田信玄・勝頼,徳川家康ら支配者層の戦陣勝利を祈祷する役割を担っていたが,江戸期にはこの役割はなくなり,農民を対象に流鏑馬祭を行い,矢が的中した者にはその年の諸役を免除する特典を与えるなど,庶民との接触を深めていった享保19年,御納戸小路・新紺屋町・愛宕町・元紺屋町・古府中村・岩窪村など牛頭天王社の氏子町の人々は疫病祓いのため牛頭天王社の御輿を繰り出したが,当町八幡社の今沢山城をはじめ板垣村柴宮の飯田伊予,千塚村八幡社の尾沢式部,甲府穴切の穴切大神社正木出雲,甲府御崎町御崎神社の水上伯耆・水上日向ら甲府の古社の神主らは牛頭天王御輿を新祭儀で神道の御輿と紛らわしきものと断じ,御輿繰出しの差止めを甲府城勤番支配へ願い出た(万代日記・御崎神社水上日向記)神社側は数回にわたり執拗に訴状を差出し,甲府勤番支配も一時御輿繰り出しを差止めたが,安政5年暴瀉病(コレラ)が流行した時には,今度は甲府役所が疫病退散の触書に牛頭天王の名を持ち出しており,神主側もこれには沈黙し,悶着は静まった明治3年の戸数37,うち家持32・借家5(甲府町方家数人数取調書)明治初年,排仏毀釈により来福寺は廃絶同17年上府中組戸長役場の管轄区に入る同22年甲府市に所属同年の戸数109・人口461同年から同36年まで上府中を冠称明治・大正期は官庁や会社勤めの人々の住宅が多く,閑静な町であった西隣の古府中字小山田に大正13年山梨高等工業学校が創立されると,学生相手の下宿が増えたさらに小山田の西隣には県立山梨師範学校があり,昭和10年には山梨青年学校教員養成所も創立され,学生の軍事教練が激しく行われる時代になると,町内には職業軍人の家も増えた昭和12年の世帯数286・人口1,273以後戦局の急迫の中で増え続け,同20年7月の空襲時には326世帯が居住このうち13世帯が焼夷弾下に全焼,罹災者65人・死者2人を出した八幡社・本照宮社も全焼し,八幡山の樹木も大半を焼失した罹災を免れた家々には,市内中央部の戦災者が間借りしたため,同25年には世帯数361・人口1,515となった同37年の世帯数418・人口1,493同年北口1~3丁目・武田1~4丁目・宮前町となる...

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元寺町【もとでらまち】
(近代)明治5年~現在の町名...

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元林院町(近世~
 江戸期~現在の町名...

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今日の記念日

『スーパーマンの日、写真の日』

1938(昭和13)年のこの日、アメリカのDCコミックス社がコミック「ACTIONCOMICS」を創刊しました。その中で爆発的な人気を得たのがスーパーマン。アメリカン・コミックスを代表するスーパーヒーローの誕生です。以後、バットマンやスパイダーマンなどが続々と登場します。

今日の暦

月齢:5

月齢:5
月名(旧歴日):五日月(いつかつき)

・2025年(年/蛇)
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・日
・Sunday
・仏滅

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芒種<
・a>」まで<
・font>4日