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漁師【りょうし】
海や川などで魚や貝などをとって生計を立...
[最終更新日:2006-12-11/JLogosid:705441120]
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![]() | 漁師町(近世~近代) 江戸期~現在の町名猟師町とも書いた明治初年~明治22年は鰺ケ沢【あじがさわ】を冠称江戸期は津軽四浦の1つ鰺ケ沢町のうちの1町鰺ケ沢湾西方に位置する北側は日本海に面し,南方には丘陵地が広がる東には堀切橋を隔てて釣町があり,西は富根【ふね】町に続く慶安2年の絵図に町名が見え,当時は鰺ケ沢の西端に位置した当町は海士【あま】町とも称し,当町から釣町・浜町が分かれたともいわれる(西津軽郡史)町名の由来である漁師・海士については,はじめはいずれも西浜漁師頭・西浜海士頭の支配にあり,貞享4年から鰺ケ沢町の漁師についてはすべて鰺ケ沢町奉行支配となっている海士は藩へ串貝上納を行っており,元禄年間にはそのような海士が5人いた(国日記)「貞享4年検地水帳」によれば当町の家数51,屋敷地1町4反4畝22歩,分米13石9斗9升1合元禄16年の絵図では町西端に木戸があり,家数70となっている寛政5年には出火により,新地町まで70余軒を焼失した同9年に定められた地子銀では,当町のうち28軒は1軒10文目となっている(県租税誌)元治元年の岩崎村弁天宮奉賀帳には,当町の町人として若狭屋・鹿島屋・油屋・秋田屋が見えている当町の南部にある京都妙願寺末日蓮宗海聚山永昌寺は,「享和3年寺社領分限帳」によると日護を開山とし,寛文5年の創立という同寺は「津軽一統志」によると50石の寺領があった十界勧請御本尊を本尊とし,本圀寺29世日解,妙顕寺19世日空にちなむ寺宝を有する明治初年の戸数114,うち南裡町15,町域は「上は富根町より釣町界堀切橋まで二丁四十六間三尺幅五間二尺」という(国誌)また,地内南裡町は「本町頭より南に転し東に折て新地町頭に至り長三十間幅三間」という(同前)明治22年市制町村制施行により成立した鰺ケ沢町に所属大正4年の戸数99・人口602世帯数・人口は,昭和40年120・594,同45年115・467,同50年111・412,同59年99・351 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 漁師町【りょうしまち】 (近世~近代)江戸期~昭和45年の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 漁師町(近世~近代) 江戸期~昭和45年の町名江戸期は洲本城下の1町町人地明治22年洲本町,昭和15年からは洲本市の町名明治22年頃までは洲本を冠称城下北東部で,現在は洲本川河口右岸,内湊(洲本内港の南部)を挟んで,その東西両岸に広がる文政元年の洲本城下図では,西側は上ノ丁・中ノ丁・下ノ丁に分かれ,西側は武家地,東側は新漁師町と呼ばれて一ノ丁・二ノ丁に分かれていた(地理学報10)「味地草」の洲本府の条に所載の各図によれば,新漁師町は元禄8年の漁師頭42人,同年問屋仲間7人からの願いで家居を許可されたのが港口築地で,延宝年間頃は家2軒のみで二軒屋と呼ばれていたまた,新漁師町は北之丁・南之丁または中ノ丁・南丁として分かれているなお,同書には漁師町元地の図を載せ,享保15年の表口間数合わせて122間とあり,同地は旧来の加子町,寛文2年町を形成した当時の家数43と記される内湊の左岸(西方)は津田町とも称し,のち明治初年には津田元地となり,のち洲本船場町と改称している明治24年の戸数133,人口は男301・女408(県市町村合併史)昭和12年の世帯数226・人口1,079(洲本町史稿)昭和45年山手1~3丁目・海岸通1~2丁目となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 漁師町【りょうしまち】 (近世~近代)江戸期~昭和48年の通称町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 漁師町(近世~近代) 江戸期~昭和48年の通称町名猟師町とも書く江戸期は今治【いまばり】村,明治22年今治町大字今治村,大正9年からは今治市大字今治村のうち今治市街地の北東部に位置し,古くから漁業集落である貞享元年の「今治藩領改帳」によれば今治村のうちに猟師町の人口292,鰯網代8帳,船数合64艘,うち大船7艘・網船7艘・猟船50艘とある漁師が集中したので自然と町名になった貞享2年の町法度によると魚類の沖売りや他所売りを禁じており,町奉行の支配を受けているまた,享和2年「猟師町屋敷改帳」によると今治村庄屋と並んで漁師町庄屋藤兵衛・組頭弥右衛門がいる明治23年の戸数360,うち専業漁夫男536人・女527人明治36年今治漁業組合設立大正2年の水揚14万8,000円,うちタイ6万2,000円・カレイ2万3,000円・フグ1万3,000円・サワラ1万2,000円などであった中央浜手に戒(美保)神社がある現在の美保町1~3丁目のあたり... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 漁師風リゾット 漁師風=alla pescatora(アッラペスカトーラ)で、ペスカトーラすなわちペスカトーレといえば、スパゲッティの定番だが、リゾットも魅力ある一品... |
出典:「イタリアン手帳」
![]() | 漁師町【りょうしまち】 (近世)江戸期の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 漁師町(近世) 江戸期の町名出雲国島根郡のうち漁士町とも書く松江城下の町名の1つで「大数録」にみえるもと島根郡末次【すえつぐ】村のうち大橋川北岸の東部に位置する慶長12年松江開府の折城地となった亀田【かめだ】山に居住していた尼子の浪人たちは,堀尾吉晴から荒隈【あらわい】土手下に替地を与えられ末次漁師となるのち現在地に移り通称漁師町と称す寛永15年領主として入国した松平直政から,当時,白潟【しらかた】漁師独占の大橋川流域に,新しく漁業権と漁場管理,および居住地に柵門を設ける特権を許され,川魚問屋もできる明治維新後は,白潟漁師と共同して漁業に従事した現在の東本町5丁目のうち... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 漁師町【りょうしまち】 (近世)江戸期の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 漁師町(近世) 江戸期の町名福江城下の1町丸木ともいう中世末期,筑前浦賀の漁夫が上五島魚目の丸尾に出漁し,一部はそこに定住していたが,元亀2年に下五島漁業開発のため深江(福江)の丸木に移住させられたという地内に文永10年の記銘板碑が存在する福江城の北方,福江川河口に位置する福江川河口の常灯鼻(市文化財)は五島盛成が弘化3年に造築したもの町名は明治初期に消滅以降は通称町名として丸木町といわれた現在の福江市福江町の一部にあたる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 漁師【りょうし】 如願寺川河口部に位置する... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」