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若松【わかまつ】
【1】新年の飾りの小松...
[最終更新日:2006-12-11/JLogosid:705455460]
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![]() | 若松城下(近世) 江戸期の城下会津郡のうち会津藩領若松城下は,天正18年に入部した蒲生氏郷が城の増築改修を行い,城下の市街を整備し,黒川の名を若松と改めたことに始まる若松の名は,氏郷の郷里近江国(滋賀県)蒲生郡の若松の森にちなんだという(会津合考)氏郷は外郭を設けて城下を郭内と郭外に分け,郭内に武士,郭外に町人を居住させたまた身分の低い徒士や足軽の屋敷を,郭外の町人町を囲むように町はずれに設置した新たに作られた日野町には氏郷の郷里近江国蒲生郡日野町から移転してきた商人が居住し,日野町から東に,新しい町々をつくり,それらは新町とよばれたその後,慶長3年上杉景勝が入封,同6年蒲生秀行が再び入封,寛永4年には加藤嘉明が伊予国松山より転封,同20年子明成が封土を返還同年保科正之が出羽国山形から入部し,会津藩が成立した寛永4年加藤氏は日野町を甲賀【こうか】町と改めた寛文6年の会陽町街改基(会津風土記風俗帳1)によると,郭外の町は大町・馬場町・甲賀町・新町・博労町・堀江町・後町・南町・河原町・材木町・天寧寺【てんねいじ】町の11町大町には一之町・二之町・三之町・四之町・道場小路町の旁出町が,馬場町には一之町から五之町までの旁出町が,甲賀町には大工町の旁出町が,博労町には五之町の旁出町がある新町は六日町・三日町・華表町・槻木町・竪三日町・行人町・中六日町・本郷町・寺町・南横町・屋敷町・愛宕町・阿弥陀町・台ノ町・浄光寺町・名子屋町・野伏町・四ノ町の18町の総称後町は桂林寺町・老町・北小路町・七日町・紺屋町・原ノ町・赤井町・当麻町・大和町・融通寺町・当麻中町・喜久町・針屋町の総称南町は中町・横町・下横町・竪町・曝屋町の総称「新編会津」によると,若松城下は府城・郭内・郭外・町分の4地域に区別され,次の町々がある郭内には本一之丁・本二之丁・本三之丁・本四之丁・五之丁・六之丁の総称本丁,宝積寺通・三日町通・六日町通・甲賀町通・大町通・桂林寺町通・諏訪通・融通寺町通の総称横通【よこどおり】,米代一之丁・米代二之丁・米代三之丁・米代四之丁の総称米代【よねだい】,一番丁・二番丁・袋丁の総称小田垣,五軒丁には権現下郭【ごんげんしたくるわ】が見えるまた郭外には,大町・馬場町・一之町・二之町・三之町・四之町・五之町・甲賀町・大工丁・六日町・博労町・鳥居町・杣丁【そまちよう】・槻木町・竪三日町・本郷町・中六日町・野伏町・中六日町横丁・堀江町・横三日町・行人町・南横町・屋敷町・愛宕町・阿弥陀町・台町・寺町・東名子屋町・組町の総称上【うわ】町,老【おとな】町・北小路町・七日町・紺屋町・原町・道場小路・桂林寺町・後分【ごのぶん】町・諏訪四谷・赤井丁・当麻【たいま】丁・大和町・融通寺町・西名子屋町・当麻中町・針屋町・善久町の総称下町,天寧寺町,上長丁・下長丁・薬園前通・新丁・一乗寺前通・中丁・浄光寺通・隍端【ほりばた】通・下隍端・六軒丁・東大工丁・浄光寺前通・法林寺前通・横通・願成就寺前通・清水丁・高井丁の総称徒之【かちの】町,一番丁・二番丁・中間町・専福寺脇片原丁・高井丁通・専福寺前通・薬師前通・鷹匠町・餌指町の総称千石町,隍端一番丁・隍端二番丁の総称外小田垣,組町・厩町・長柄町・横通・小田町・宗英寺河原通・極楽寺前通・河原新丁の総称小田町,中町・花畑通・晒屋町・十五軒町・河原新丁・中横町・常慶寺町・十軒丁・西横町・竪町・湯川端丁・二十軒町・年貢町・若葉丁の総称南町,弓丁・鉄炮町・稲荷丁の総称象眼【ぞうがん】町,一~六番丁・竪町通の総称漆原組町,大通・花畑口通・隍端通・西通の総称花畑,河原通・裏通・一~五番丁・片頬丁・石塚向河原丁・石塚向丁の総称花畑組町,石塚六軒丁は石塚,湯川端通・横通・一~三番丁・観音裏通・新丁の総称新町,河原町,材木町,河原町新丁,片原町,一~四番丁・横通・柳原町の総称柳原組町,烏【からす】橋通・水主丁・横丁通・新丁通・新丁・横丁・袋丁・中河原町の総称半兵衛町,一~五番丁・横通の総称半兵衛組町,極楽寺北通は手明町,妙法寺前通・八十人町長丁・八十人町中丁・八十人町一~四番丁の総称滝沢町,持筒町,同心町・滝沢町・蚕養口・中村の総称四軒丁,紫雲寺前通・木戸千軒道の総称千軒道,通丁・松円寺前通・裏町・外裏町・裏町・木椎町・新田丁の総称糠塚町が見える町分は東黒川・西黒川に分かれ,東黒川は上河原分・八角【やすみ】分・蚕養宮村・千石町分・南町分・材木町分の総称,西黒川は石堂分・達磨分・小黒川分・赤岡分の総称と見える町分とは町方と村方の中間にあたる地域で,城下の諸役を負担した若松城下の主産業は人蔘・金箔・酒類・種油・下駄・絹織物・漆器・ろうそくなど家数は寛文9年3,515軒,享保20年3,380軒,文化4年3,028軒(若松市史)戸数は明治元年5,092(同前)明治元年9月若松城は開城し,若松は新政府軍の支配下となり,同年10月民政局が設置された |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 若松荘(中世) 鎌倉期~戦国期に見える荘園名和泉国大鳥郡のうち初見は嘉元4年6月12日の昭慶門院御領目録(竹内文平所蔵文書/広島県史資料編5)ここに塩穴荘などとともに大宮院(藤原姞子)領として,「若松庄〈同西御方〉三位局」と見える正慶元年6月日の臨川寺領目録(天竜寺文書/同前)によれば,若松荘は塩穴荘などとともに近衛基嗣から青蓮院宮尊助親王,後嵯峨院,大宮院,昭慶門院さらに世良親王へと相伝され,臨川寺に寄進されたことがわかるまた当荘の領家は故世良親王家で「年貢三百石計,領家一円地」であり,本家は仁和寺勝功徳院とある元徳2年に世良親王が死去すると,その遺領の競望や押領が続出し,若松荘の場合,内大臣僧正道祐がこれを競望して,元徳3年2月道祐に綸旨が下されようとしたこれを聞いた臨川寺は,すでに仏陀施入の地であるから非分の干渉であると訴え,同25日に安堵の綸旨を得たしかし,楠木正成とみられる「悪党楠兵衛尉」が当荘を押妨したという風聞をもとに,守護代が前年9月頃から年貢以下を収納していた(同前)なお,文永9年10月,京都警固にあたった和泉国の御家人の中に,「若松右衛門尉〈十一丁九反,兵士四人〉,若松左衛門尉〈十二丁五反,兵士五人〉」が見える(和田文書)また嘉暦元年から同2年にかけて大鳥荘で蜂起した悪党の中に「当国御家人若松源次入道,同子息源太,同源三」がいる(田代文書)建武3年とされる9月18日付足利尊氏御教書(久我文書/岐阜県史史料編4)では,民部権大輔宛に「和泉国若松庄,同国塩穴庄,……御管領事,院宣加一見候畢,可被申入准后候」と見える延元2年3月日の岸和田治氏軍忠状案(和田文書)には,南朝方の治氏は延元元年10月8日,「令発向若松庄」,玉井彦四郎入道の城や和田・菱木以下の凶徒の住所を焼き払ったとある若松荘が北朝方の拠点の1つであったことがわかる康永3年2月8日の阿闍梨円海田地寄進状案(常真院文書/堺市史続編4)では,「若松庄上条字下野内」の田を寄進しているが,その田は鉢峯寺の八講田,三十講田として所当米を寺庫に納めてきたもので,円海は加地子分を同寺の「毎春薬師供養法一千座䉼田」に寄進したのである円海は興国6年10月8日にも「若松庄上条字下野村田畠山林在家等」を鉢峯寺に寄進している(同前)また正平2年8月8日の沙弥道禅下知状案(同前)によれば,同荘上条には竈谷里・衾田里・竈室谷があったことがわかる正平5年11月日の和田助家目安案(和田文書)の中に,「若松庄領家職,被宛行下司道禅」と見える中村結鎮御頭次第(奥野健一文書/堺市史続編4)は,別宮八幡宮(桜井神社)の宮座の頭役を勤めた者の名を正平6年から書き継いだもので,豊田・イモリカイ・富蔵・栂【とが】・逆瀬川・畑・辻・上村・釜室・片蔵・柳谷・田中などの地名が散見するこれらは宮座の範囲を示し,かつ若松荘中村の範囲を示すものと考えられるなお北朝は康永年間に若松荘領家職を東寺に寄進し(東寺文書),他方南朝は保安寺にこれを寄進しているが(楠文書/大日料6-19),正平9年11月10日の後村上天皇綸旨(楠文書)によれば,「保安寺領和泉国若松庄御寺米」の収納が滞っていることがわかる綸旨は楠木正儀に対し,下地を寺家雑掌に渡すよう命じている文中元年12月9日の南朝長慶天皇綸旨(岩崎小弥太氏所蔵文書/大日料6-36)は,河西卿房に対し,「若松庄内大庭寺別当職」の管領を命じているまた応永10年11月27日と同28日には,若松荘内字岸本の田が,「若松庄中村結衆中」に売られているが,その田はもと「高蔵寺供養御䉼田」であった(奥野健一文書/堺市史続編4)なお応永25年9月25日の太平寺開眼供養職衆交名(法道寺文書/同前)に,「若松庄下条太平寺」と見えるその後寛正4年6月6日の沙弥大宝田地寄進状案(常真院文書/同前)では,荘内上条の「松和田之古河」と「畑西一羽山」の田が鉢峯寺に寄進されているが,ここでは応長年間に検注が行われたことがわかるこれは,応長元年12月日付で長福寺(鉢峯寺)領の「検注免田等取帳坪付并勘料伏料等支配事」と題する注文(法道寺文書/堺市史続編4)があることと関連し,現堺市鉢ケ峯寺が若松荘に属したことを示すとみられるまた永正10年11月18日には「若松庄下条大平後」にある畠1反が菱木南明庵から堺南荘の部路源四郎に売られている(土師楠嘉文書/同前)なお天文20年7月25日の成願寺鎮守造営棟札銘写(桜井神社文書/同前)に,「泉州上神若松庄成願寺鎮守」と見える現在の堺市太平寺・大庭寺・豊田・栂・若松台・片蔵・泉田中・富蔵・釜室・逆瀬川・畑・鉢ケ峯寺付近に比定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 若松御厨(中世) 平安末期~室町期に見える御厨名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 若松(中世) 室町期から見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 若松村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 若松寺【じゃくしょうじ】 天童市大字山元に所在... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 若松町(近代) 昭和31年~現在の南松浦郡の自治体名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 若松町【わかまつちょう】 (近世)江戸期~明治11年の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 若松【わかまつ】 (近代)昭和27年~現在の北見市の行政字名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」