ケータイ辞書JLogosロゴ 青森町(近世)


青森県>青森市

 江戸期〜明治22年の町名。津軽郡田舎庄のうち。江戸期は湊町で,津軽四浦の1つ。弘前藩領。当地は外ケ浜に属し,江戸初期までは鳴呼【うとう】・安潟【やすがた】・抱え宿などの漁村が散在しているにすぎなかった。弘前藩2代藩主津軽信枚は,城下高岡(のち弘前)の建設を進める一方で,寛永元年善知鳥村に新しく港を開き,あわせて湊町の建設に着手した。弘前藩がそれまでの大浜(油川)の港にかわって当地に外港と町を建設したのは,寛永2年に東廻りで江戸への廻船乗入れの許可を幕府から得ているように,幕藩制の確立に向けて,幕府の中心であった江戸と津軽との政治・経済のつながりを深めることにあったと考えられる。もと善知鳥村・蜆貝村などの漁村しかなかった浜地に,森山弥七郎(のち森山内蔵之助と改称)を開港総奉行として港・港町の建設が行われた。荒川・安潟などの低湿地は青森山を削って平地とし,青森派として町場に形成された。青森派は10年間の地子銀免除を条件に,領内外からの商工人移住が押し進められた(青森市沿革史)。寛永3年には一応青森派が確立し,この時の家数1,057軒といわれる。なお,この頃の青森派は,町頭(町年寄)佐藤理右衛門・村井新助が管轄する町屋敷地の本町(のちの天町)・浜町・米町の3町と,漁師派頭(漁師頭)越前屋嘉兵衛が管轄する漁師町の善知鳥【やすかた】町(安方町)・蜆貝町からなっている。江戸前期においては,町屋敷地としての地子銀を負担する町頭支配下の町を総称して青森町と呼ぶことが多い。なお,青森町は,青森派として新田と同様に屋敷地が開発されたためか,江戸期の郷帳類では青森村と見え,村高が記される。村高は,「正保高帳」では田舎郡新田と見え163石余,「寛文高辻帳」214石,「貞享4年検地水帳」311石余,「寛保高辻帳」214石,「天保郷帳」283石余(うち弘前本では寛政7年改出新田69石余),「旧高旧領」では青森町と見え327石余。このように青森町は他の城下とはちがい,飢饉等の時を除いて基本的に地子銀を負担している。ただし,寛永20年でもまだ地子銀は免除で,同年は各町礼金10両ずつを納めている(青森市沿革史)。寛永3年からは青森町の機能強化策が藩主主導のもとに行われた。寛永3年には外ケ浜における商人船売買の青森集中,町人に対する城下町弘前並みの扱い,六斎市の開設が触れられ,同6年には外ケ浜での木綿・小間物商売の青森集中,商船の青森1か所への入港,農商分離などが命ぜられた(同前)。寛永17年には安方町東方に外柵を設け,町ごとに木戸を設置し,町の警備を強化した。同21年には安方町と本町との間に越前町が成立,同町は漁師派頭の管轄に属した(同前)。青森町が発展を見せるのは寛文年間からである。寛文4年本町・米町の東側に新たに塩町・莨【たばこ】町・馬町(のち博労町)が町立てされた。同8年には外ケ浜中の煙草・塩の売買が莨町・塩町にそれぞれ独占され,同9年には馬町で馬市が開かれた。同11年には周辺部の農村において百姓を立ち退かせて町屋敷とし,新たに町を取り立てて堤川端町(のちの堤町)・新町・柳町・鍛冶町・大工町が成立し,翌12年には寺町が成立する。これら寛文年間に成立する商人・職人町はすべて町頭の管轄に属した(青森市沿革史)。寛文11年新町に御仮屋(のち元治元年からは陣屋と称した)が建設され,初代城代に大道寺宇左衛門が就任して青森一帯を支配した。なお,城代は延宝元年から進藤庄兵衛が勤め,のち貞享3年には城代が廃止され,青森町は青森町奉行の支配となる(同前)。寛文11年の調べによれば,家数は博労町・堤町あわせて84軒,新町・柳町・鍛冶町・大工町をあわせて189軒,莨町・塩町をあわせて44軒,本町・米町・浜町をあわせて306軒であった。また,同13年には新町での六斎市の開設,および同町での生肴・青物の定店売買が定められ,青森町が領内市場の流通の拠点として重要な位置を占めるに至る(同前)。延宝9年の消防町割当によれば,御仮屋は大野村領内にあり,沖之口御番所は悪知鳥(安方)町・中浜町・蜆貝町の3か所に置かれ,町奉行所は米町と中新町の間,御蔵広小路通り沿いにあった。天和2年にはこけやち新田(のちの松森町)が成立する。貞享3年の町頭の覚によれば,本町・米町・浜町の家数304(1軒につき地子銀4匁8分ずつ),新町・寺町・柳町・鍛冶町・博労町・堤町・塩町・莨町の家数294(1軒につき地子銀10匁ずつ),御仮屋・与力屋敷・町奉行屋敷・御廻船屋敷・湊御番所・御蔵屋敷・寺社などあわせて家数27,町中船数43(間役は1人につき船の出入りごとに銀1匁,ただし他国船は2匁),町を支配する役人は町奉行2・湊目付6・湊立合1・御蔵目付2・御蔵奉行3・御捨歩一所1・川役鳥役御渡役人2・大工小頭1などが書き上げられている。ただし,これは漁師町頭管轄の町が含まれていない(青森市沿革史)。「貞享4年検地水帳」によれば,青森町の反別は,下々畑1町2反余(分米1石余),上屋敷8町2反余(分米82石余),中屋敷4町9反余(分米44石余),下屋敷22町9反余(分米183石余),畑屋敷37町4反余(分米311石余),このほかに開発可能地(畑)2畝余,材木積場5畝余,浜3か所・6町6反余,砂取場8反余,空地3町4反余をはじめ,各役所・役人屋敷地・寺社地が除地となっている。貞享4年には町頭管轄が,上町・中町・下町・上浜町・中浜町・下浜町・上米町・中米町・下米町からなる一部と上新町・新町・柳町・寺町・鍛冶町・馬喰(博労)町・堤町・堤下町・塩町からなる二部とに分けられ,計44人の名主が置かれている。なお,この名主数は,元禄3年に計23人と改められた(青森市沿革史)。この頃の青森町は,町頭(町年寄)・漁師頭を通じて青森町奉行が支配しており,青森湊は湊横目(湊目付)が商船などの出入りを管轄している。湊番所(沖之口番所)は,はじめ3か所であったが,元禄5年から浜町1か所となる。町頭の顔ぶれは江戸期を通じあまり変化しないが,漁師頭の方は,越前屋嘉兵衛ののち,町頭の兼務を経て,延宝年間頃は鈴木又左衛門・花田左登右衛門,天和3年から窪田三郎右衛門・金子四郎兵衛が勤めた。貞享5年には,それまで青森の漁師町もふくめ外ケ浜一帯の漁師を統率していた漁師頭に権限が青森の漁師町(安方町・蜆貝町・越前町)のみに縮小された。のち正徳4年には漁師頭そのものが廃止され,このため同年以降は漁師町3町も町頭管轄下へ編入された。なお,窪田三郎右衛門は,享保13年に里見新田頭となるなど,外ケ浜の新田開発を押し進めた人物である(東津軽郡誌など)。元禄7年から同14年までの青森町の税収入は,湊役金646両余・銀243貫953匁余・銀224貫匁余(銭納分には空屋敷銭納分・他国出馬役分をふくむ),屋敷物成米904石余となっている。なお,地子銀にあたる屋敷物成は延享元年まで米納であるが,それ以降は銭納となる(青森市沿革史)。青森町は水上・陸上交通の要衝で,陸上交通では東西に奥州街道(松前街道)が通っている。宿場は本町(大町)に集中しており,のちの文久4年御領分中道程駄賃定(弘前図書館蔵)によれば,油川村〜青森町の距離は1里13町31間1尺で,夏本荷30文・夏軽尻20文・夏歩行夫15文,青森町〜浅虫村の距離は3里21町36間で,夏本荷89文・夏軽尻59文・夏歩行夫47文であった。青森の産業の1つとして酒造があり,領内と松前を市場として,豪商となる場合も多い。造酒屋は延宝9年43軒,貞享2年36軒,元禄16年45軒,正徳4年61軒(本町22・米町19・博労町5・新町3・浜町4・安方町8),延享3年30軒であった。これらの造酒屋は,元禄16年にあわせて5貫880匁の用途上納が命ぜられている。江戸中期の造酒屋の減少は,数次の火災による類焼と,主要市場である松前への伊丹・大山醸造の進出が原因であった。宝暦4年には領内酒造業保護のため,伊丹から青森への清酒の移入が禁止された(青森市沿革史)。漁業は安方町をはじめとする漁師町で行われ,干鰯生産のほか,鱈・鰊漁も盛んであった。元禄7年には干鰯・干海鼠の輸出税が定められた。同10年には青森御買物役として,大坂屋甚兵衛をはじめ4人が任命されている(同前)。船問屋は浜町に集中しており,元禄16年には港に出入りする船,産物取扱い,問屋株などについて,船問屋29軒で議定をとり結んでいる。宝暦4年には江戸廻米船問屋として,竹野屋与次兵衛をはじめ13人が任命された。青森町における長崎俵物請負人は米穀商であった長内屋覚兵衛・竹野屋権四郎が勤めていたが,のち天保11年からは金沢屋忠左衛門が勤めた(同前)。しかし,領内経済の中心地である青森の地位確立も容易ではなく,たび重なる飢饉,火災をはじめ,青森以外の商人の進出などが流通・経済の青森集中をおびやかした。青森町をおそったおもな大火と焼失家数は,天和2年本町より出火200軒余焼失,元禄8年中米町より出火204軒焼失,宝永元町大町から安方町まで146軒焼失,元文2年安方町から浜町・米町まで177軒焼失,寛保2年博労町・塩町・莨町を焼失,延享4年鍛冶町から大工町・浜町まで135軒を焼失,明和3年地震と火災で倒壊307軒・焼失133軒,圧死102人・焼死91人,同6年米町を中心に144軒焼失,天明3年7月浜町から安方町まで焼失,同年11月安方町から堤町まで1,473軒を焼失,このとき堤川対岸まで焼け計3,000軒程を類焼,文化11年米町から蜆貝町・大工町で600軒余を焼失,天保10年寺町を中心に180軒焼失,嘉永6年大町から蜆貝町まで466軒焼失,安政6年浜町から安方町まで904軒焼失,文久元年米町から大工町・博労町まで403軒焼失などである(青森市沿革史)。元禄〜宝永年間には,周辺農村からの諸産物の脇売りがさかんになり,新町における市立てがままならなくなっており,米町における米座の独占売買も元禄13年から脇売りが認められた(同前)。先の造酒屋の減少も同様である。外ケ浜での船の出入りは青森湊1か所に限られたが,油川湊への船の出入りもやまず,延享2年・宝暦14年にも青森湊に限るよう命ぜられた(同年)。享保12年の青森町の総家数931・人数6,172,馬数95,安永9年には総人数9,039,うち男4,686・女4,353,馬53。天保9年の書上では,家数1,700,うち漁師97,人数8,210,うち漁師185,漁船73(同前)。天明元年加賀屋専助が一手請負した青森町負担分の町役(伝馬役)は,家数352軒半の分で,年間人足8,968人・馬117疋半,この賃銭は計10貫372匁であった。同3年には,青森町人は天明飢饉を前に,廻米中止・米留番所廃止など7か条の要求を藩に提出し,さらに米価の高騰を理由に米商人などの打毀を行った。この騒動で数千人の町人が浜町の湊会所に押しかけ,寺町島屋長兵衛,米町村林平治,横町辻甚左衛門,博労町村田太郎兵衛,同町名主奥野屋庄右衛門,米町滝屋伝七・吉田三郎治・近江屋利助,浜町滝屋善五郎,同町名主升野忠兵衛宅を打ち壊した。この騒動の頭取は宝暦年間に町年寄を勤め,当時寺子屋の師匠であった落合専左衛門(伊勢屋市郎右衛門)で,のち牢死している(青森市沿革史)。天明8年の古川古松軒「東遊雑記」には,当時の青森町の様子を「此所は諸書にも記し,津軽第一の津湊にして市中三千軒,繁昌の地とあれとも,左様の所にはあらず,昔は左もありしや,今はやうやう千軒ばかりにして,しかも家居も見くるしく,松前の地御城下並江指浦箱館浦より見れば勝劣の論なし,尤近き年に此辺大地震にて一家も残りなく民家潰れ,死亡の人かぎりなく,相続く凶年にて飢に及び,数多の死人ありし故にかやうの如しと案内の者の云けり」と書き記す。総じて飢饉が続いた天明〜天保年間には当町は著しく衰退し,停滞の時期であった。寛政年間以降は北方警備が重要視され,蝦夷地幕領化の影響もあり,松前と上方を結ぶ航路が強化されたといわれ(同前),文政4年東西蝦夷地が松前に返還されると松前・蝦夷地を対象とする青森からの米移出強化策がとられた。維新期には箱館の榎本武場から旧幕軍を攻略する基地となり,明治元年には長州・岡山備前・藤堂津・久留米筑後・備後福山・周防徳山・越前大野・松前・弘前・黒石の各藩兵6,346人が青森町や周辺に屯集したという(津軽歴代記類)。明治2年の戸口船馬営業によれば,戸数1,976,うち御給人・御手船船頭水夫31,本家町人1,368,借屋町人608,人口1万750,うち男5,248・女5,502,船数146,うち漁船24・丸木船122,馬97,有租地は田方95町1反余・畑方7町5反余,主な御役営業数は造酒19・魚売33・干肴57・魚触売88・質座10・鍛冶40・染屋6・桶屋35・蕎麦切12など,無役家業は農業129・薬種2・米問屋4・米穀59・船問屋21・漁師196・船小宿7・木綿28・岡問屋1・小間物34・八百屋10・荒物206・飴や38・医者7・奉公人口入宿屋1・大工51・船大工6・檜物師8・畳刺10・旅籠屋3・芝居内茶屋3・船乗39・馬追32・日雇376・通奉公人26・洗濯師83・馬宿11・風呂屋11・髪結22・廓屋11などが見える。また,この時の青森町は,大町と同町支配の莨町・塩町,米町,浜町,新町と同町支配の柳町・寺町,博労町と同町支配の堤町・松森町,安方町,蜆貝町,大工町と同町支配の鍛冶町の計15町から成っている(青森市史)。明治2年には北海道を主要販路とする青森商社が生まれている。明治4年弘前県を経て,青森県に所属。同11年東津軽郡に属す。明治4年9月青森県の成立とともに,新町のもと陣屋地に県庁が置かれ,県の政治・経済・文化の中心地として発展する。明治4年頃越前町が安方町に編入され,この頃新たに新安方町が安方町から分立する。また,のちの明治12年頃に新蜆貝町,同14年頃に新浜町がそれぞれ成立する。明治5年3月松森町から塩町まで475軒を焼失する火災があり,同年11月には新町から塩町・博労町まで1,000軒程を焼失する大火があった(青森市沿革史)。明治初年の「国誌」によれば,青森町は竪町として新町・寺町・鍛冶町・大工町・松森町・米町・馬喰町・安方町・越前町・大町・塩町・たばこ町・浜町・蜆貝町,横通として一念坊小路・大手通・御倉通・柳町・常光寺通・正覚寺通・蓮心寺通・蓮華寺通・福士通・上林通・横町通・馬喰町新町・弟飴通・堤町から成っている。同書によれば,戸数4,426・人口1万1,597,馬122,船218(うち大船31・漁船147・艀10・荷舟31),また,当町の様子を「市街は整潔にして百貨備らさるものなし,又当港飴を製する者有て青森飴と称して其名高く四方に売与す,田野は形の如く打開たれとも土地痩薄にして且旱湿多く,概種多く陸殖は少く菜蔬もまた佳呆ならす,瓜茄の類多は他の産を仰く,且池水黄濁西風常に吹き,或は時に暴風家屋を壊るに至る,薪炭殊に乏く酒茶漿醯もまた廉ならす,然とも夏秋の際船舶の日夜出入し四時戯場を張り……妓楼繁昌す,依て市人頗る華奢に流れ居家衣服清潔を好み頗る遊盪の風あり,諺按摩座頭の多寡其の地の盛否を知る可と今此港に八十余名あり百人に近しと其繁昌知るへし,此町西を首とし東を尾とし,東西の衢を竪と唱ひ,南北の街を横と云ふ」と記す。明治6年開拓使によって定期蒸気船弘明丸が函館,青森,下北の安渡の間に就航し,また同年山口県小田藤吉が蒸気船青開丸を青森〜函館間に就航した。北海道の開拓とともに,本州側の拠点としての青森は高い地位を占めた。明治6年市街地の道敷が定まり,竪町は8間,横町は6間とされた。同年塩町にあった遊廓が火災で焼失した諏訪社地跡に移された。翌7年警察出張所が蓮心寺内蓮得寺に置かれた。明治9年歩兵第5連隊が弘前から青森に移され,同年青森裁判所が設置された。同11年青森病院附属医学校が開校(青森市沿革史)。明治12年の「共武政表」によれば,戸数2,411・人口1万1,374(男5,606・女5,768),馬76,荷車37・人力者77・馬車1,日本形船32(100石積以上14・100石積以下18)・西洋形風帆船1,寺院7,学校3。明治13年には三菱による浪花丸が就航,同16年共同運輸会社による青森出張所が開設,同18年には日本郵船が設立し,浜町に同出張所が開設された。これらの運輸会社の進出により,青森の船問屋は著しく衰退し,廻漕業のほか陸運業に手を広げてみたり,大手商船会社の代理店となるものもあった。これ以降,浜町の船問屋は旅館業に転業するものが多く見られる。また,各地方との間の定期航路が確立すると,津軽米の移出,および北海道への出稼人が急増した。明治14年青森の総称が復旧し,以降明治22年まで青森町内の各町は青森を冠称することになる。なお,この時の各町は,米町・博労町・堤町・松森町・大町・塩町・莨町・蜆貝町・新蜆貝町・安方町・新安方町・浜町・新浜町・新町・寺町・柳町・大工町・鍛冶町の18町であった(青森市沿革史)。明治15年青森測候所が開設,同17年青森中学校が新町に開校(同前)。明治22年市制町村制施行により青森町となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7250021
最終更新日:2009-03-01




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