ケータイ辞書JLogosロゴ 青森市(近代)


青森県>青森市

 明治31年〜現在の自治体名。町制時の19町4大字を継承。明治38年新浜町に市役所新庁舎が竣工。明治17年に設立された青森中学校は同22年弘前へ移転したため,中等教育に不便が生じていたが,同34年第三中学校(現県立青森高校)が旧青森中学校跡地に設立された。また県尋常師範学校も市内に置かれていた。同35年青森商業補習学校(現県立青森商業高校)が,同37年市立青森女子実業補習学校(現市立中央高校)がそれぞれ発足。同40年青森県第三高等女学校が開校(昭和23年県立青森女子高校となり,同25年県立青森高校に合併した)。明治35年歩兵第5連隊が雪中行軍中,八甲田山中で遭難。死者199人を出す惨事となった。また国鉄奥羽本線は当市から秋田まで開通し,同38年全通した。日露戦争が始まると第八師団に属する第5連隊も出兵,同戦争での第5連隊の戦病死者は1,170名にのぼった。同41年,青函航路が日本郵船から鉄道庁に引き継がれた。同43年当市は大火災によって7,519戸を焼失した。この大火で市役所も焼失したため,同44年新町に新庁舎が建設された。大正2年市立工業徒弟学校(現県立青森工業高校)・県立青森病院が設立された。同7年には現在の山田高校が裁縫塾として発足している。大正3年から6か年計画で青森築港が着手された。同14年当市と函館との間で貨車航送が開始され,本州と北海道との間の流通・交通の上で改革がなされた。大正9年の世帯数9,495・人口4万8,941,職業別人口は農業1,855,水産業1,717,鉱業217,工業1万95,商業1万4,052,交通業7,411,公務・自由業4,967,その他の有業6,414・家業使用人32・無職業2,181。昭和2年滝内村沖館・新田,造道村造道・八重田を合併。同7年大野村大野の一部(字金沢・片岡の各一部)を当市大野に編入。同12年筒井村との間で境界変更実施。同14年油川町を編入して大字を継承。昭和10年に松原町,同11年に横山町,同14年に花園町が成立し,当市は22町9大字を編成。この間,昭和3年県立図書館が開館,同8年に青森港修築第2期工事が開始された。昭和6年東奥家政女学校(現東奥女子高校),同7年市立青森青年学校(現市立北斗高校),同13年青森技芸学院(現青森明の星高校),同16年市立第一中学校(現県立北高校)が次々に開校した。同19年官立青森医学専門学校が開校。同20年7月に青函連絡船が米軍の空襲をうけ北海道との連絡は途絶,さらに当市もB29約120機の空襲によって死者1,763人,全焼家屋1万5,280戸,全市の9割にのぼる被害をうけた。この時市役所も焼失し,しばらく仮庁舎で公務が行われていたが,同31年鉄筋4階建の新庁舎が完成した。昭和20年第2次大戦の敗戦とともに米第八一師団が当市に進駐した。同21年県庁と県立図書館が全焼し,戦災をまぬがれた蔵書を失った。同22年,しばらく中止されていた「ねぶた」の運行が復活した。同26年青森港3,000t岸壁着工,同31年には1万t岸壁着工など港湾施設が整備された。また昭和28年には青函海底トンネルの着工が閣議決定されている。同31・36年には青森湾岸を埋め立てて第一埠頭・第二埠頭が成立した。同26年に滝内村を合併し5大字を継承,同29年大野村を合併し3大字を継承した。この時大野村大野は青森市大野に合併した。同30年1月に筒井町・横内村・東岳村・高田村・浜館村・荒川村を合併,38大字を継承した(筒井町浦町は青森市浦町に合併)。同年3月に新城村・原別村・奥内村を合併し,22大字を継承。同31年に後潟村を合併して5大字を継承,同37年野内村を合併,3大字を継承して現市域が確定した。同43年から住居表示が実施されて,当市は現在68町82大字を編成。交通機関では,昭和12年に東京-仙台-青森-札幌間に定期航空路が開設された。同37年青森空港の建設工事が開始され,同40年から営業を開始した。陸上交通では昭和26年に国鉄津軽線が開通,同43年国鉄東北本線の南方移転が行われた。同47年国道7号(青森西バイパス)が開通。同52年に国道4号(青森東バイパス)と浪館〜十和田通間の青森環状道路が開通し,同54年には青森〜大鰐間の東北自動車道も開通した。また東北新幹線の盛岡以北への早期着工が懸案であるが,同55年に青森新駅を当市西部の石江地区に設けることが決定され,青函トンネルも同58年に先進導坑,同60年に本坑が貫通した。戦前から戦中にかけて当市に開校した学校のうち,青森医学専門学校・師範学校などは,戦後弘前に移転し国立弘前大学となった。また戦災で当市にあった13の小学校のうち9校は焼失し,市立第一中学校なども被災した。戦後はこれらの復旧と高等教育機関の充実がはかられ,昭和37年に県立青森西高校・青森短大,同38年県立甲田高校(同39年県立青森東高校と改称)・青森明の星短大,同43年青森大学,同45年青森中央女子短大などが開校した。同50年棟方志功記念館が開校された。同53年当市は市制施行80周年をむかえ市民美術展示館・市民文化ホールが完成し,同57年にも文化会館・青森博物館が開設,文化施設が充実した。世帯数・人口の推移は,昭和10年1万7,693・9万3,413,同20年1万1,487・5万6,653,同30年3万5,527・18万3,747,同40年5万3,590・22万4,433,同50年7万6,773・26万4,222,同57年9万1,903・29万949。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7250023
最終更新日:2009-03-01




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