ケータイ辞書JLogosロゴ 浅水(中世)


青森県>五戸町

 戦国期に見える地名。糠部【めかのぶ】郡のうち。永禄10年頃と推定される7月21日の南部晴政書状に「昨日浅水へ打立仕候へ共,不被罷出候之間,一人も不打候,然共城前まてをしつめ,矢を仕候而罷帰候」と見え,南部晴政が当地を攻撃している(遠野南部文書/岩手県中世文書中)。戦国期に当地は三戸南部氏の支配下にあり,浅水城には一族の南氏が在城していた。「奥南旧指録」に「南氏,右馬頭政康公の三男遠江守長義,五戸・浅水知行して浅水氏と称し,屋敷南の方に有し故に南殿と称す,南氏となる」とあり,南氏は三戸南部22代政康の三男長義を祖とし,五戸と浅水を知行して浅水氏を名乗ったが,三戸城の南に屋敷があったため南殿と称されたという(南部叢書2)。南氏は永禄年間の南部一族の内紛の際,信直派に属し,反晴政派となっていたため,南部晴政の攻撃をうけたのであろう。永禄年間と推定される6月24日の南部晴政書状に「浅水口へ直様出馬被成,預奉公候者,可為本望候」と見え,晴政が根城南部氏に当地への出馬を要請している(遠野南部文書/岩手県中世文書中)。天正年間から文禄年間にかけて,当地には南慶儀が居住し,年未詳8月8日の南慶儀書状案に「自浅水 南義」と見える(同前)。また,天正16年頃と推定される3月24日の南慶儀書状案に「随而自大浦大わた被攻候而,下館打被候ヘ共,日暮ニ而内城相続候由聞得候,大浦・大光寺先々相当之様ニ相見得候」と見え,慶儀は大浦(津軽)為信の動静を伝達し,為信独立の動きに対して根城南部氏と連絡を取りあっている(同前)。なお,当地は三戸と五戸の中間にあるため,四戸に比定する説もあるが,未詳。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7250053
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ