ケータイ辞書JLogosロゴ 油川村(中世)


青森県>青森市

 江戸期〜明治22年の村名。津軽郡田舎庄のうち。弘前藩領。中世から当村は湊町として知られたが,耕地も早く拓け,村高は,「正保高帳」314石余(うち田292石余),「寛文高辻帳」314石余,「貞享4年検地水帳」1,128石余(田1,010石余,畑屋敷117石余うち屋敷地91石余),「寛保高辻帳」314石余,「天保郷帳」1,008石余(うち弘前本では寛政5年改出新田581石余・文化7年改出新田112石余),「旧高旧領」1,188石余。油川は陸奥湾内の米の積出港として古くから栄えていたが,弘前藩2代藩主津軽信枚が江戸廻米を目的として寛永年間に青森港を開港し,油川は鎖港された。しかし,油川港における物資の出入りは続き,藩側は青森の問屋などを保護するため,元禄10年・延享2年・宝暦13年と何度か同港における商業活動を禁止した。それでも,当村が青森〜三厩【みんまや】間の松前街道と青森〜弘前間の羽州街道の分岐点にあたり,また酒造業に適した地理的条件により,商業活動はとだえることがなく,近江商人の移住などがあって繁栄し,町場が形成された(青森市町内盛衰期)。「貞享4年検地水帳」によれば,小字に「岡田・柳川・舟岡(船岡)・千苅(千刈)・みのり田(のちの実法)・中道・浪返・大浜」があり,反別は田102町3反余・畑屋敷21町7反余(うち郷蔵屋敷・湊番所屋敷をふくめ屋敷地11町4反余),田は上田から下々田まで,畑も上畑から下々畑まで設定されていた。このほかに開発可能地(畑)3反余,漆木24本,沼,河原4か所,浜地5町8反余,空地5町9反余,永荒地(田畑)1町8反余がある。また除地として浄土宗浄満寺屋敷地9反余をはじめ,観音堂地・庚申堂地・権現堂地・明神社地・稲荷社地・明神社地が見える。屋敷地が多く,町場としての性格がうかがえる。元禄3年には油川組に属し,村位は上(平山日記)。宝暦9年改の御郡中郷村位付帳(弘前図書館蔵)でも村位は上とある。港・町場があるとともに,水田耕作も盛んであったことがわかる。港を中心に元禄年間以降近江商人の移住がはじまり,酒造業などを営み,豪商も多数輩出した。西沢伝四郎・平井津兵衛(近江屋)・西田安兵衛・西田三郎右衛門・中川九兵衛などがおり(青森市町内盛衰記),享保11年藩より領内30人の豪商に計1万両の御用金を命じられた時,当村の西沢伝四郎・田中久四郎・万屋六郎右衛門がそれぞれ200両ずつを割り当てられている(平山日記)。また,西田三郎右衛門は大庄屋にもなっている。盛衰を経ながら,油川は蝦夷地・田名部【たなぶ】・上磯地方を取引相手とした酒造業者・米穀商で繁昌した(青森市町内盛衰記)。町場は海岸の大浜・浪返地区と台地の舟岡地区に分かれ,安永7年の油川組絵図によれば,さらに館町44軒・中町61軒・茶屋町22軒・伝馬通59軒・裏町13軒・浜町8軒・下町50軒・横町34軒に分かれ,家数計291軒となっている(油川町誌)。館町・中町・茶屋町・伝馬通・裏町・浜町は大浜,下町は浪返,横町は舟岡にあたる。天明3年10月20日には,天明飢饉に原因して火災が起き,町並み100軒余が焼け,寺院も焼失した(平山日記)。また,嘉永3年の松浦武四郎「東奥沿海日誌」では,油川について「人家弐百軒斗,小商人酒屋船問屋農漁入交り,随分繁花の市町也」とあり,「又此村のはしに大浜といふ有,則油川と人家つゞき成故に今一村の如くなれり」と大浜を分けて記している。文久4年御領分中道程駄賃定(弘前図書館蔵)によれば,新城村〜油川村の距離は34町54間1尺で,夏本荷22文・夏軽尻15文・夏歩行夫11文,油川村〜青森の距離は1里13町31間1尺で,夏本荷30文・夏軽尻20文・夏歩行夫15文であった。神社は,大同2年坂上田村麻呂の創建,永禄2年浪岡御所の北畠具永の再建,元和9年弘前藩2代藩主信枚の再建,寛文6年4代藩主信政の再建と伝える熊野十二所権現宮が大浜の伝馬通北側にある(津軽一統志・青森市史)。「国誌」によれば,「旧時は大社にして,国守は許より土人等尊敬し」とあり,藩主も参詣したという。のち明治3年神仏分離によって同社は熊野神社と改称,同6年には末社の八幡宮(旧明神社)・宗方宮(旧弁天堂)・稲荷社などを合祀する(国誌)。旧郷社。神社にはこのほか,寛永元年再建という明神宮,天和3年再建という貴船神社が地内浪返にある(安政2年神社書上帳・青森市史)。寺院は,もと三内村枝村小三内の正念寺で,油川城主奥瀬氏が当村に移し菩提寺とし,のち慶長13年善波(良波)の再興という浄土宗金台山浄満寺が大通り西側の大浜にある(享和3年寺社領分限帳・青森寺院志・青森市史)。本尊は阿弥陀如来。墓地内に奥瀬一族・森山弥七郎の墓がある。同寺境内の観音堂は,江戸期飛竜権現(飛竜観音)を祀る飛竜宮で,神仏分離に際して廃堂を命ぜられたという(神仏混淆神社調帳,八木橋文庫蔵)。また,正保2年正玄の草創という浄土真宗照容山明誓寺が地内浪返にある(国誌)。なお,同寺の創建については寛文元年(享和3年寺社領分限帳など),同3年(青森寺院志など)の説がある。正徳5年開基の浄土真宗泉流寺があったが,のち明治24年中津軽郡堀越村門外【かどけ】(現弘前市内)に移転する。なお,同寺はさらに明治39年小湊(現平内【ひらない】町内)に移転する(青森寺院志・東津軽郡誌)。このほか,江戸初期まで当村には浄土真宗法源寺・同宗円明寺があったが,法源寺は天正10年浪岡村(のち弘前新寺町),円明寺は慶長11年弘前元寺町(のち弘前新寺町)へそれぞれ移転したという(青森市町内盛衰記など)。明治4年弘前県を経て,青森県に所属。同11年東津軽郡に属す。明治3年青森〜新城村間の国道が開削され,当村の商家に大きく影響した(同前)。同6年の油川町商之調によれば,船問屋4・馬問屋11・造酒屋2・造醤油屋1・造味噌屋6・造酢屋1・質屋2・小売酒屋15・室屋9・魚小売屋17・塩干肴屋6・豆腐屋7・干肴屋22・染屋2・蕎麦屋2・桶屋5・大工7・鍛冶屋3・木挽7・提灯貼1・附木突屋1・馬喰1・荒物屋30・搗米小売屋6・木皮屋9・飴屋5・菓子屋12・湯屋2・旅籠屋3など多彩な職業が見える。明治初年の戸数615,うち支村新派18,村況は「弘前駅路なり,今江渡村新道闢けて青森よりは往来せされとも,弘前黒石等よりの三厩通なれは農商相半し市店整列酒貼茶肆あり,生鱗雑貨を陳列して繁富の巨邑なり」という(国誌)。なお,新派は派新田ともいい,当村の東南部に位置し,江戸期より当むらの一部であった。のち,隣村の新田村と区別するため新田【にいた】と呼び,新井田とも書いた。明治9年十三森村を合併。同10年頃の陸奥国津軽郡村誌によれば,人口1,913(男987・女926)。同10年油川小学が開校,開校時の生徒数男89・女25,教員5(県教育史)。同12年の「共武政表」によれば,戸数345・人口2,003(男1,022・女981),馬90,人力者3,日本形船9(100石積以上1・100石積以下8),学校1,物産は米・鯖・鰯。同22年油川村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7250086
最終更新日:2009-03-01




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