ケータイ辞書JLogosロゴ 安渡村(中世)


青森県>むつ市

 々掌祐〜明治3年の村名。北郡のうち。安戸村とも書く。盛岡藩領。田名部【たなぶ】通に属す。村高は,「正保郷村帳」9石余(田8石余・畑8斗余),「邦内郷村志」92石余(うち畑42石余),「天保郷帳」150石余,「安政高辻帳」121石余。「仮名付帳」では,枝村に浦村・川守村・大平村が見える。「邦内郷村志」によれば,家数128ほかに宇曽利5,人数815,漁船24,神社は大明神社,寺院は田名部常楽寺末の神宮寺,産物は海鼠・魚油・王余魚・大口魚・蛤・鰊。「本枝村付並位付」によれば,位付は上の中,集落別内訳は本村103・川守17・宇田18・宇曽利川7。本村は安渡湊といわれる港町で,浜町とも称し,上町と下町とに分かれていた。正保4年の南部領内総絵図に「安渡湊 此所岸深ニテ舟掛自由,此所より九艘泊迄海上道規十六里,此所より津軽之内外浜迄海上道規廿七里,此所より松前城前迄海上道規三十一里」と見え,早くから港湾として重視されていた。ただし,近世前期には東隣の大平湊のほうが海運の中心で,後期になるにしたがい当湊に中心が移ってきた。「邦内郷村志」は当湊について「商船自春至秋,渡海往来三四度……長崎中国諸国之船来」と記し,嘉永3年の「東奥沿海日誌」には,「此処浜形西南向。平磯小石浜にして前に一条の浜有て船潟よろし。しかれ共岸浅にして五六百石より以上ハ皆七八丁沖に懸る也。人家百軒斗。船問屋・小商人・旅籠屋等なり。随分繁花の処也」とある。当地は鱈漁で知られ,上り荷は〆粕が主で,ほかに長崎俵物の煎海鼠などを移出し,下り荷は米穀類や日用品が主であった。村社の兵主神社は延宝7年の再建,もとは釜臥山下居大明神と号す。寺院には永徳2年玄海法印の開山した真言宗豊山派神宮寺(のちの常楽寺)がある。寺宝は木彫如来立像(円空作)。枝村については,嘉永3年の「東奥沿海日誌」に,川守は「人家弐拾軒斗。樵又松前稼人等也。此処海岸にハ古船を多く作り居たり。按ずるに此処船潤よく又檜材下直【げじき】成故かと思はる」,宇曽利川は「人家二十軒斗。陸へ少し引上りて有る也。此ところ田少々有稲を作るよし。此領内へ来りて初めて稲株をミたり」とある。なお川守は川盛とも書き,康正3年川守七郎が居住したことに由来するといい,寛政3年には稲荷社が再建されている。宇曽利川は入江・湾を意味するアイヌ語系のウショロが転訛したものである。また宇田もアイヌ語系の地名で砂浜を意味すると思われ,一説には康正3年宇田川常陸の居住地から起こったともいう。宇田では寛正4年宇田八幡宮が創建され,天保14年社殿が焼失した。明治元年弘前藩取締,以後黒羽藩取締,九戸県,八戸県,三戸県を経て,明治3年斗南【となみ】藩に所属。同年大湊村の一部となる。¬声11〜12年の村名。はじめ北郡,明治11年10月から下北郡のうち。明治11年9月,大湊村が再び当村と大平村に分村して成立。分村の契機は,神社の分離をめぐる裁判の結果であったという。明治12年大湊村と改称。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7250117
最終更新日:2009-03-01




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