ケータイ辞書JLogosロゴ 飯詰村(近世)


青森県>五所川原市

 江戸期〜明治22年の村名。津軽郡田舎庄のうち。弘前藩領。村高は,「正保高帳」466石余,「寛文高辻帳」1,583石余,「貞享4年検地水帳」1,451石余(うち田1,290石余・畑屋敷161石余),「寛保高辻帳」1,583石余,「天保郷帳」1,263石余,「旧高旧領」1,691石余。封内事実秘苑(弘前図書館蔵)によれば,元和4年正月5日「朝東風灰降下之切〈今飯詰村より下をいふ〉」とあり,当村より北部を下之切と呼んでいたことがわかる。寛文4年下之切遣の役所,貞享4年飯詰組の代官所がそれぞれ当村に置かれ,地域の中心地であった。早くから交通の要所で,「慶安2年道筋帳」では,十三・小泊方面に達する下之切通があり,当村から狐鼻・沖飯詰・中柏木へ至る3本の小道が見える。承応2年津軽領道程帳(弘前図書館蔵)では,藤崎村から相打村へ至る脇道(下之切通)の宿場で,神山村〜当村の距離1里7町24間,当村〜喜良市村の距離2里5町24間とある。また,延享元年の海道宿継駄賃御定には,広田村〜当村の距離1里35町58間で,夏は本荷46文・同歩行夫23文とある(平山日記)。寛文3年には藩より黒石・板屋野木・浅虫とともに大場(町)に指定され(板柳町郷土史),元禄7年の諸職諸家業覚では,居鯖23・酒屋4・室師(麹師)11・質屋2・鍛冶屋5・染屋3・大工2が見え(平山日記),かなり大きな町場を形成していたことがわかる。江戸前期の当村の枝村としては,明暦元年に北部山間に開発された味噌ケ沢村があった(飯詰村史)。天和3年の御代官所村家人数之帳(八木橋文庫蔵)によれば,下ノ切御代官所支配の新田として味噌ケ沢地子新田・味噌ケ沢漆新田がそれぞれ見えるが,両新田はのち当村に吸収されたものと思われる。下の切山は梵珠山地の南部を指し,寛文4年に藩の留山に指定され(津軽家御定書),貞享3年にはこの山から小泊まで14里余に,当村より2人,松野木・石田坂・味噌ケ沢の各村より1人ずつ山守が設定された(国日記)。貞享元年の飯詰屋敷数212,うち本村75・同裏屋敷14,枝村107・同裏屋敷16(飯詰村史)。「貞享4年検地水帳」によれば,小字に「みなせ・清野・狐野・沢田・桜田・かけひ沢・石田・森越・白旗」があり,反別は田143町7反余・畑屋敷46町4反余(郷蔵屋敷2畝余をふくむ),また,見取場(畑地),開発可能地(田畑)54町9反余,永荒田3町3反余,漆木3,365本,池床6か所,雑木山,萢2か所,草山3か所,古館(飯詰高楯城跡)3か所などがあり,このほかに除地として大泉寺屋敷,長円寺屋敷,明神社地,愛宕堂地,八幡社地(松之坊抱え),八幡社地(村中抱え)などが見える。元禄3年には飯詰組に属し,村位は中,朝日沢村分を含め家数169,うち庄屋2・百姓43・町人13・水呑111(平山日記)。飯詰・油川・板屋野木の町場は弘前城下の店に勝るほどに商売がさかんであったが,宝暦4年在方の商売が禁止となり,発展が抑制された。翌5年領内の組編成の変更により代官所が廃止され,飯詰組・金木組・金木新田が同一管轄となり,当域を管轄する大庄屋に当村の飯塚名兵衛と中里村の加藤八郎衛門が任命されている(同前)。なお,大庄屋制は寛政元年まで存続。寛保2年7月の飯詰川の洪水では村内の町家40軒余が流失,人馬が多数死亡した。明和3年正月の大地震では村内の家屋が半壊した。また,大凶作である天明3年には各地で放火が相次ぎ,当村では上町が全焼し,いくらかでも貯えのある者は不寝番をおくという社会不安をもたらしている(同前)。神社は,地内福泉に八幡宮がある。同社は弘治元年創立と伝え,宝暦元年愛宕宮境内に遷宮,安永3年飯詰組の祈願所となり,のち明治3年愛宕宮に合祀,翌4年愛宕宮を八幡宮と改称している(飯詰村史)。地内狐野には稲荷神社がある。このほか明神宮があるが,同社はのち明治6年八幡宮に合祀された(国誌)。寺院は,地内福泉に沈鐘伝説のある梵鐘(県重宝)をもつ曹洞宗大伊山長円寺,建保3年金光上人の創立という浄土宗清涼山大泉寺,寛文12年創立という浄土真宗光明山法林寺があり,このほか寛永年間に正行庵があった。なお,正行庵跡地にはのち昭和22年日蓮宗高楯山妙竜寺が建立されている。幕末には,平民毛利八郎太,医師三上玄隆や菊地元などによる寺子屋があり,神官松野博による寺子屋はのち明治7年八幡宮拝殿を利用した飯詰小学へ引き継がれた(飯詰村史)。明治4年弘前県を経て,青森県に所属。同11年北津軽郡に属す。明治2年の戸数222・人口1,047(同前)。明治初年の戸数227,うち町場は上町・下町・中町・新派・飯詰派・伝介町・寺町・下派から成り219戸,支村味噌ケ沢は8戸,村況は「村居山足にありて薪炭檜材の産あり,南北十七丁三十四間に連り,工商雑居し酒醤餅果あらさる物なく,此区の福地なり」という(国誌)。同9年朝日沢村を合併。同10年頃の村の幅員は東西3里・南北2里半,税地は田214町余・畑26町余・宅地21町4反余・山林9町1反余・秣場29町2反余・流木置場8反余など計300町8反余,戸数257・人口1,475(男766・女709),馬177,神社1・寺院4,学校1・生徒数40(男のみ),物産は米・雑穀・薪・炭・檜材・麻(飯詰村史)。「明治12年公学校表」によれば,明治8年に飯詰小学が開校,同12年の生徒数103(男のみ)。同年の「共武政表」によれば,戸数280・人口1,773(男1,004・女769),馬149,寺院3,学校1,物産は米・大豆・檜・薪・炭。同22年飯詰村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7250121
最終更新日:2009-03-01




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