ケータイ辞書JLogosロゴ 石神村(近世)


青森県>青森市

江戸期〜明治8年の村名津軽郡田舎庄のうち青森平野の北西部,および新城川と沖館川とに挟まれた丘陵地にまたがって位置する北東方は青森湾に近く,南西方には大釈迦丘陵が広がる地名の由来は不明だが,菅江真澄が「すみかの山」の中で「石神の村にこゝらの花の木ありて,そこに,ちいさやかの祠ある側に文永の碑あり,こと文字は苔にかいけたりて,それとはよみもとかれず」と書き記しており,この碑と関係があると思われる弘前藩領村高は,「正保高帳」32石余,「寛文高辻帳」108石余,「貞享4年検地水帳」は欠くが,「寛保高辻帳」108石余,宝暦5年の津軽郡平賀庄鼻和庄田舎庄村々高反別(弘前図書館蔵)630石余(田587石余・畑屋敷43石余),「天保郷帳」614石余(うち弘前本では寛政7年改出新田348石・文化5年改出新田158石余),「旧高旧領」711石余元禄3年には油川組に属し,村位は下(平山日記)宝暦9年改の御郡中郷村位付帳(弘前図書館蔵)でも村位は下とある宝暦5年の津軽郡平賀庄鼻和庄田舎庄村々高反別によれば,反別は田79町1反余・畑屋敷12町9反余当村は稲作・畑作を主とする村である神社は,地内相野に享保15年再建という稲荷宮がある(安政2年神社書上帳)一説に貞享年間の再建ともいう(青森市史)ほかに観音堂があり,神仏混淆神社調帳(八木橋文庫蔵)によれば,明治初年神明宮に改めたという明治2年1月には「青森石神野」で藩の練兵が実施されている(津軽歴代記類)明治4年弘前県を経て,青森県に所属明治3年に新城村と青森を直線で結ぶ新道(現国道7号)の開削が始まり,翌4年完成するが,同道は当村丘陵部を東西に貫通することになった新道沿いには人家がなく,新道工事とともに新村の開拓がすすめられ,明治4年に当村からの移住者もふくめ江渡村が新たに成立した(青森市町内盛衰記)明治初年の戸数54,うち支村相野16,村況は「村舎山に倚り,田多し,地中等」という(国誌)明治8年石江村の一部となる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7250135
最終更新日:2009-03-01




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