ケータイ辞書JLogosロゴ 石浜村(近世)


青森県>蟹田町

 江戸期〜明治22年の村名。津軽郡田舎庄のうち。弘前藩領。村高は,「貞享4年検地水帳」16石余(畑屋敷のみ),「天保郷帳」24石余(弘前本では文政2年改出新田とある),「旧高旧領」21石余。当村は,松前街道沿いにあたる。「貞享4年検地水帳」によれば,小字に「磯山・塩越・舟岡」があり,反別は畑屋敷のみで6町6反余(うち屋敷地5反余),このほかに開発可能地(畑)7反余,河原3か所・3反余,浜3か所・5反余,材木積場1か所・3反余,空地9反余,永荒地(畑)1町3反余,塩竈1か所,稲荷社地が見える。元禄3年には後潟組に属し,村位は下(平山日記)。当村は耕地が少なく,村民は主に漁業に従事した。西方には良質の檜材を産出する山地が広がり,早くから藩の管理下にあった。石浜御山奉行として,元禄元年には荒木関杢右衛門,同2年には桜庭権太夫,同3年には小田桐八右衛門の名が見える(日本林制史資料)。また,享保18年には留山として石浜山が見え,滝之沢・口広沢の2か所が書き上げられている(同前)。村内は北から杉(舟岡)・二ツ谷(磯山)・深泊(塩越)・石浜の4つの集落から成り,石浜以外の3集落は石浜村の枝村として記されることもあった。天明8年の菅江真澄の「外が浜つたひ」には「二ツ屋,杉の浦に至る」と見え,錦の浜では「こは秋もはや深泊あまの屋のひとつ二屋杉て今津く」と詠んでいる。寛政2年の高山彦九郎「北行日記」では,二ツ谷の家数8,9軒,杉の家数6,7軒とある。享和2年の伊能忠敬の「測量日記」では,石浜7軒,深泊16軒,二ツ谷12軒,杉9軒と見える。また,嘉永3年の松浦武四郎「東奥沿海日誌」によれば,「二屋村,人家二十軒斗,皆漁者なり,此辺内海にして波甚穏也,扨越て行まゝ又暫くにして深泊り村,同じく人家二十軒斗,並て石浜村,同じく漁者のミ也,人家十軒斗にして随分富る様子也,さて此処にてはたご屋を聞しに,今一り半斗も蟹田迄行ねバなしと云まゝに如何ハせんと云けれバ,幸其処に網を干しける老人すぐに我家に来り玉へと云て泊りけり」と記される。神社は,磯山に稲荷神社があり,祭神は保食神。舟岡には久須志神社があり,ともに開創年月不詳。明治4年弘前県を経て,青森県の所属。同11年東津軽郡に属す。明治初年の「国誌」では枝村3か村がそれぞれ一村として扱われている。この時の戸数は石浜村22・深泊村46・二ツ谷村42・杉村20で,村況は,石浜村が「田なし,畑僅あれとも土痩て収穫少けれは漁を専として生業とす,東は担下潮水来り軒上は山を覆ふ」,深泊村が「山に倚て海瀕に住し,畑僅にあれとも磽?にして糧乏けれは漁鈎を専とす,此辺瀕湾の村々田畑少く海産を捕を口を糊るか如く,産饒ならさるか如なれとも漁暇或は遊隙あって,却て夏畦の艱難を知らす,心志悠然として他の田圃多きの村々に較ては豊裕なり,因て蟹田村或五小区平館村等の耕云を専業とする村村よりは家作整ひ黄埃穢汚の光景なし,男は漁し女は餉し小童等は漁艇干網の際に遊戯し,市間危の塵芥を蹈却させる一楽国と云へし」,二ツ谷村が「南北五丁二十四間の海岸に住す」と見える(国誌)。明治7年の県管内村名簿では,深泊・二ツ谷・杉の3か村は石浜村の支村となっている。明治10年頃の陸奥国津軽郡村誌によれば,戸数133(うち深泊50・二ツ谷43・杉21)・人口974(男524・女450),牡馬1,50石以上荷船3,50石未満艀漁船148,税地は田2町4反余・畑25町7反余・宅地3町3反余・網干場3畝余・船置場4反余で計32町4反余,物産は米・雑穀・鱈・鯖・鯉など,村民は「男ハ漁業ヲ専ハラニシ,春夏ノ候松前ノ地ニ航行シテ,其業ヲナシ,以テ生ヲ営ミ,女ハ家君耕耘ノ外復タ他事ヲ知ルモノナシ」という。同10年深泊に深泊小学校が開校,開校時の生徒数男29,教員1,のち同20年廃校し,かわって二ツ谷に石浜簡易小学校(現在舟岡に所在)が開校,同22年には塩越(もと深泊)分校が設置された(県教育史)。明治12年の「共武政表」によれば,戸数143・人口1,014(男571・女443),100石積以下日本形船5,学校1,物産は鱈・鯖・檜。同22年蟹田村・平館村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7250165
最終更新日:2009-03-01




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